転機に立つポーランド
2001年総選挙前の風景

田口雅弘






今回の選挙活動は控え目でポスターも少ない


1.政治勢力の再編

中道政党の盛衰

 1989年、「連帯」に結集した国民の力によって東欧初の非共産党政権が誕生し、体制転換が開始された。初期の政権を担ったのは中道連合政権だった。政治・経済自由化路線の核となったのは民主同盟(UD)であった。1991年の国会選挙では、諸政党が乱立する中、マゾヴィエツキ率いるUDが下院で13.8%の議席を占め、第一党になった(SLD−13%、PSL−10.4%)。しかし、諸政党の乱立で、連立与党は安定しなかった。政権は、マゾヴィエツキ内閣、ビエレツキ内閣、オルシェフスキ内閣、スホツカ内閣と引き継がれていったが、どの政権も1年程度しか持たなかった。

 中道のもろさは、早くも1990年の大統領選挙で表面化した。「連帯」系、中道グループは、ワレサ支持とマゾヴィエツキ支持の二つに割れた(いわゆる「トップ抗争」)。結果的に、ワレサ氏が勝利したが(第1回投票得票率: ワレサ−40%、マゾヴィエツキ−18%)、このときのしこりは長く残ることになる。

 1993年9月の総選挙で大敗したUDは、1994年に自由民主会議(KLD)と合同して自由同盟(UW)を結成した。また1995年には、体制転換プログラムを作成した元副大臣兼蔵相のバルツェロヴィチを党首とし、自由主義政党としての足場を固めた。

 1997年の総選挙で、ポスト「連帯」系勢力を再結束した連帯選挙行動(AWS)が勝利すると、UWはAWSと連合政権を組んだ。そして、バルツェロヴィチ が再び元副大臣兼蔵相として政治の中枢に復帰した。しかしながら、組合寄りのAWSと市場自由主義のUWとの間には、政策をめぐって大きな隔たりがあった。とうとう2000年6月にUWが連立政権から離脱した。また、バルツェロヴィチの財政引締政策が国民の不評を買い、2001年の党大会では、元外相のゲレメクが党首となった。その際、党内の主導権争いで敗れた上院副議長トゥスクは、旧KLDグループを引き連れて、2000年の大統領選挙で国民の広い支持を得たオレホフスキとともに中道・リベラル新政治グループ「市民プラットホーム」(PO)を旗揚げした。一方、AWS-UW連立政権のもとで経済が失速し、国民生活が厳しくなったことで、UWの支持率は5%以下に落ちている。



(図: 田口作成 (C)2001)



左翼の台頭

 1989年に体制転換が開始され、1948年から続いたポーランド統一労働者党(PZPR)の支配は終止符が打たれた。1990年にはポーランド共和国社会民主主義(SdRP)の結成されたが、すでに左翼の時代は終わったように思われた。1991年の総選挙では、ポーランド共和国社会民主主義(SdRP)を軸として、戒厳令中に組織された全国労働組合連合(OPZZ)など13組織を結集して民主左翼連合(SLD)が結成されたが、下院で13%の議席しか得ることができなかった。

 しかし1990年代初期は、急激な体制転換政策で一時的に国民の生活水準が低下した。こうした状況を背景に、いきすぎた自由化路線への批判として社会民主主義を唱える左翼への支持が高まった。1993年9月の総選挙では、SLDは28組織を擁し、37.2%の議席を得た。 こうして、国民の経済政策への不満と中道諸勢力の分裂を背景に、民主左翼連合(SLD)とポーランド農民党(PSL)が勢力を拡大し、この二党が連立してパブラク(PSL)政権を発足させた。この内閣は、オレクシ(SLD)内閣、チモシェヴィチ(SLD)内閣に引き継がれた。左派の台頭は顕著で、1995年11月の大統領選挙でも、SLDのクファシニェフスキがワレサを破って当選した。また、2000年の大統領選挙では、クファシニェフスキが第一回投票で53.9%を獲得し(2位のオレホフスキは17.3%)、圧倒的な強さを示した。

 しかし、左派勢力の躍進によって市場経済化の底流が変わったわけではない。むしろ、労働組合出身のワレサ大統領からクファシニェフスキ大統領にかわったことで、労働組合の牙城であったグダンスク造船所の倒産をはじめとしたリストラが進み、議会と大統領府のねじれ現象もなくなって、懸案だった新憲法が成立するなど改革は一層進んだ。また、経済がようやく成長軌道に乗り、1990年代後半にはGDP成長率5%をこえる高度成長が続いた。

 1999年4月、連合体であったSLDは政党として登録し、その基盤を更に固めた。また、2001年の総選挙では労働同盟(UP)と連合し約50%の支持を集めている(なお、UP党首のブガイはPSLに合流し、UPには旧「連帯」系の活動家はほとんど残っていない)。

 ポーランド農民党(PSL)は、社会主義時代の統一農民党(ZSL)と農民「連帯」系のポーランド農民党「ヴィラヌフ派」が1990年に合同して設立された。パブラクが失脚したあと、カリノフスキ党首を中心に堅い支持を維持し、最近では都市部にも支持を浸透させている。





(図: 田口作成 (C)2001)





旧「連帯」の再結束と再分裂

 一時分裂していた右派諸勢力は、左派の台頭に危機感を募らせた。1997年秋の総選挙では保守農民党(SKL)、ポーランドキリスト教民主主義者同盟(PPChD)、国民キリスト教統一党(ZChN)、社会運動(RS)などが、連合体の「連帯」選挙行動(AWS)に大同団結した。選挙では、AWSがSLDを下して政権の座に就いた。AWSはUWと連立してブゼク内閣を発足させた。しかしながらこの政権は様々な困難を抱えていた。UWの政治プログラムと大きな隔たりがあること、大統領選を目指すAWS代表のクシャクレフスキがブゼク政権を後ろから操っていたことに国民が不満を持っていたこと、AWS自体が寄り合い所帯で意思統一が難しかったこと、等の問題である。とうとう2000年6月にUWが連立政権から離脱し、政府は「連帯」選挙行動の少数与党政権になった。  2000年10月の大統領選挙は、現職のクファシニェフスキ大統領、無所属のオレホフスキ、「連帯」選挙行動のリーダーであるクシャクレフスキ、ワレサ元大統領らによって争われたが、クシャクレフスキは15.57%の票しか獲得できなかった(また、ワレサはわずか1.01%の票しか獲得できなかった)。

 2001年に入ると、経済の失速が鮮明になり、四年間続いたブゼク政権への批判が高まった。また、右派(旧「連帯」系)の要であったクシャクレフスキが大敗したことで、2001年9月の国会選挙をにらんだ右派の分裂・再編が一気に始まった。2001年1月、国会下院議長プワジンスキを中心としたSKLは、AWSを離れてPOの結成に合流した。5月にはクシャクレフスキを代表とする労組「連帯」がAWSを離脱した。6月にはJ・カチンスキが「法と正義」(PiS)を正式に旗揚げした。ブゼク政権を支えてきたAWSは分裂し、AWSに残った政治家たちが右翼「連帯」選挙行動(AWSP)としてブゼク政権の四大改革の継続を訴えたが、さらに7月にはオルシェフスキ率いるポーランド再生運動(ROP)が離脱し、国民の支持は10%程度のまで落ちた。



(図: 田口作成 (C)2001)





政党に対する国民の期待低下

 こうして、1990年代中葉から後半にかけて中道・リベラル派が勢力を失い、1990年代後半からの社会民主主義勢力と旧連帯勢力の争いは、旧連帯勢力の分裂で幕が下りようとしている。

 最近の総選挙世論調査(CBOS 2001.08.06-09調査)では、民主左翼連合・労働同盟連合(SLD-UP)が50%でトップ。以下、市民プラットフォーム(PO)−14%、ポーランド農民党(PSL)−10%、法と正義(PiS)−10%、右派連帯選挙行動(AWSP)−5%、自由同盟(UW)−4%となっている。右派連帯選挙行動、自由同盟は足切りの5%条項(連合体の場合は8%条項)をクリアできず議席が確保できなくなる。上院選挙の各党予想獲得議席は、民主左翼連合・労働同盟連合(SLD-UP)−50議席、上院2001ブロック(Blok Sena 2001)−32議席、農民党(PSL)−12議席、自衛("Samoobrana")−2議席。

 世論調査ではSLDが圧倒的な支持を集めているように見える。しかし、国民のSLD支持は、他の政党に対する失望の裏返しであり、必ずしも積極的なものではない。SLDが現在の経済・社会問題を解決できると思ってる国民はむしろ少数派である。またどの政党も、目新しい政策を打ち出せないでいる。国民の政治離れを意識してか、2001年の選挙戦は派手な選挙運動は全く見られない。街頭演説は少なく、ポスターもまばらである。国民は、いつまでも繰り返される政治劇に疲れており、経済の失速と社会問題の深刻化に対し有効な対策を打ち出せない政党政治そのものに不信感を強めつつある。そのことは、低い投票率となって表れることだろう。

2.過渡期的経済困難、それとも経済危機

経済の失速

 1990年代後半のポーランド経済は急速な発展を遂げ、「アジアの虎」(アジア新興市場諸国)に対して「欧州の鷲」とまでいわれた(GDP成長率: 1994年−5.2%、1995年−7.0%、1996年−6.0%、1997年−6.8%、1998年−4.8%、1999年−4.1%、2000年−4.0%)。この時期、外資による直接投資が本格化し、また国営企業民営化などで外資の流入が相次いだ。こうした状況に伴ってズウォティが高めに推移したため、外貨の流入は更に促進され、国内消費を活性化させた。自動車などの耐久消費財が飛ぶように売れ、オフィスビルや住宅建設が盛んになった。ワルシャワでは大型ハイパーマーケットの開店が相次ぎ、消費財をまとめ買いする市民で活況を呈した。

 まさにポーランドは高度成長期に入ったように見えたが、一方で国民の将来に対する不安は次第に高まっていった。その原因は、高いインフレ率(1997年−約15%、2000年−約10%)と失業率(1997年−約11%、2000年−約15%)、EU加盟を控えたリストラ強行に対する懸念、生活格差の拡大、老後への不安、などである。

 1997年のブゼク政権誕生とともに財務大臣に返り咲いたバルツェロヴィチ(2001年よりポーランド国立銀行総裁)は、経済安定化の優先課題にインフレ終息をあげ、緊縮財政政策を試みた。国立銀行も公定歩合を引き上げて金融引き締め政策を実施した。その結果、2001年に入ってインフレ率は年率5%台にまで低下したが、消費が冷え込み、企業業績も悪化した。このことが企業に対するリストラ促進の圧力となり、さらに失業が増え消費が冷え込むという悪循環に陥った。また今後数年、ベビーブーマーの世代が労働年齢に達するため、失業率はあと数年で20%に達するとの予測が有力である。とくに、1993-1995年頃には外資系企業から引っ張りだこだった大学卒業生が、2000年には就職できずにぶらぶらしているというほど、若者の就職難が深刻化している。  東方市場(とりわけロシア)との経済関係が冷え込んだことも、経済に深刻な打撃を与えている。ポーランドのグレー・ゾーン(闇経済)は、1990年代後半にはGDPの30%あったといわれ(中央統計局調査)、とくにロシアとの公式・非公式の経済関係はポーランド経済にとって重要な役割を果たしていた。しかし、「連帯」の流れを引くブゼク政権になってから、ロシアとの関係は次第に冷え込んだ。EUがポーランドに東方国境のチェック強化を要求したことも、こうした傾向に拍車をかけた。ポーランドは表向きEUとの経済協力強化を政策の柱としているが、歴史的にポーランドは東方市場との関わりが深く、また東方市場に販路を切り開くことがにポーランド経済発展の活路でもある。しかし、4年間続いたポスト「連帯」政府の感情的な反ロ姿勢が、じわじわ経済に影響を与えた形だ。  また、2000年半ばまで続いたズウォティ高のもとでの輸出が伸び悩み、貿易赤字が膨らんだ。国家財政をみると、企業業績悪化に伴う歳入不足が深刻化する一方、苦しい国民生活を下支えするため財政支出削減には限界があり、緊縮財政政策にもかかわらず財政赤字が膨らんでいる。

四大改革の失敗

 現在の財政赤字が生み出されたもう一つの理由は、ブゼク政権が1999年に導入した四大改革のコストが極めて高いことである。四大改革とは、全国に50あった県を16に統合し地方自治を強化する地方行政制度改革、時代に合ったより専門性の高いカリキュラムに移行することを目指し「8(小学校)+4(高校)」制にかわって「6(小学校)+3(中学校)+3(高校)」制を導入することを柱とした教育制度改革、確定拠出型年金を組み合わせた年金制度改革、医療に市場競争と効率性を求める医療保険制度改革である。これらの改革は、遅れ気味になっていた新しい社会の制度を一気に作り上げようとする意欲的なものであったが、準備期間が短かった上、大変なコストを要する改革であった。当時の蔵相バルツェロヴィチは当初から、これらの改革が同時に開始されると国家予算がその負担に耐えられないと指摘していた。しかし、四大改革を政策の目玉としていたAWSに押し切られる格好となった。結果的に、これらの新しい制度はコストがかかるだけでなくうまく機能していないのが現状である。

 地方行政制度改革では、全国に49あった県(wojewodztwo)が16の県に再編された。ポーランドは元々17県あったが、1975年6月1日から49県に細分化されていた。これは、当時の共産党政権が、中央の支配を強めるために県を細分化したと言われている。1989年以降の体制転換に伴い、地方自治の拡大がはかられ、この県再編は地方行政制度改革のとりあえずの締めくくりとなるはずであった。しかし、基本行政単位であるグミナ(gmina)と県の間に合計290前後の郡(powiat)を設けて行政機構を逆に肥大化させるなどして、改革のコストをは大きく膨らんだ。

 教育制度改革は、社会主義時代から続いていたソ連型の教育制度を抜本的に改革するもので、同時に学校の統廃合も進められる。小学校を8年生から6年生にすることによって、これまでより2年早く、より専門性の高いカリキュラムに移行することができる。また、これまで一部の大学に進学する予定の生徒だけが普通高校に通い、多くの生徒が小学校卒業後、職業学校で職業教育を受けていたが、新たな制度の導入により、より多くの生徒が普通高校で教育を受けられるようになる。これにより、大学進学率の上昇、高校卒業後の専門学校教育の高度化が目指されたが、準備期間が短かったため、学校の設備が整わなかったり、教師の準備不足で教育現場に大きな混乱が生じた。

 年金制度改革では、これまで国がプールしていた年金積立金の一部を民間機関に預けて運用できるようになった。国民にとってみれば、年金資金を運用して膨らませることができ、市場にとって見れば大量の年金資金が市場に流れ込むことによって投資を活性化できる可能性が生まれることになる。新制度では、年金は三つの柱に分かれる。第一の柱は、従来どおり企業と従業員(または個人)が社会保障公社(ZUS)に払い込む、いわゆる確定給付型の部分である。第二の柱は、21社ある普通年金協会(PTE)のうち一社を選択して年金資金の一部(OFE)の運用を委託する、いわゆる確定拠出型の部分である。第三の柱は、自由加入型の年金プランで、日本の生命保険会社等が行っている年金保険に相当する。この制度のモデルはスウェーデンが1999年から導入したシステムであるが、チリ、アルゼンチン、メキシコなど中南米諸国の制度も参考にしている。第三の柱は米国のシステムがモデルとなっている。このように、ポーランドは世界の最新の潮流を参考としてシステム作りに取り組んでいる。しかし、現在のところ国庫からZUSに払い込まれるはずの納入金が滞る、国民の年金納入金を社会保障公社が債務返済に流用し普通年金協会へ納入金が回らない、新制度用に開発したコンピュータシステムが機能しないなど、運用面で問題も多い。



普通年金協会を宣伝する立て看板


 医療保険制度改革では、国庫負担を軽減するために各県に傷病給付金庫をつくった。ここに保険料を集中し、傷病給付金庫が契約を結んだ医療機関で傷病給付金庫による医療費一部負担が受けられる仕組みにした。つまり傷病給付金庫と契約していない医療機関では医療費全額自己負担となる。このように、医療の分野にも市場経済の波が押し寄せてきている。現在は、医療機関同士の競争が活性化することによって医療サービスが向上したというより、逆に医療を市場経済化したことによる混乱と弊害が拡大したといえる。たとえば、傷病給付金庫と契約している病院では満足いく治療が受けられず、プライベートの病院に通院すると莫大な費用がかかる。多くの国民にとっては、何のために保険料を支払っているのかという強い不満がある。また、病院の経費削減のあおりを受け、夜勤などの重労働を強いられている看護婦の給与が切り下げられ、彼女らは基本的生活もままならない状態におかれている。さらに、傷病給付金庫の資金が枯渇し、傷病給付自体ができない県も出てきている。

解決策の模索

 総選挙のあと、新政府には冷え込んだ景気の回復、財政の建て直し、四大改革の見直し、失業問題の解決など、困難な課題の解決に立ち向かわなくてはならない。四大改革の部分的中止も一部で議論になっているが、改革はすでにかなり進んでおり、改革の棚上げは難しい状況である。しかし、組織の効率化やスリム化は可能で、こうした点で大なたが振るわれる可能性が強い。SLDは、大臣ポストの縮小、地方行政機関の整理、上院の廃止、等の改革案を検討中である。こうした改革には憲法改正が必要で、仮にSLD-UP連合が下院の過半数を確保しても、憲法改正に必要な3分の2には達しない。その場合は、PSLとの協力または連合が不可欠になるだろう。

 SLD政権が誕生すれば東方政策にも変化が表れるだろう。さきに、「連帯」の流れを引くブゼク政権になってから、ロシアとの関係が冷え込んだことを指摘したが、旧共産党の流れを引くSLDはロシアが資本主義になってもいまだにロシアと太い人脈を持っている。ブゼク首相は、9月にノルウェーから天然ガスパイプラインを引く契約書に調印し、これをブゼク政権の最大の功績のひとつと自画自賛した。一方、総選挙後に首相就任が有力視されているSLDミレル党首は、自分が政権に就いたら、この契約の解消もありうると即座に反応した(その場合、ロシアからの供給拡大)。コストがかかってもあえて脱ロシアにこだわるブゼク政権と、古い関係を活用して新しい未来を切り開こうとするSLDの姿勢の違いが典型的に表れた一幕である。

 しかしながら、基本的な問題はポーランド経済が新たなステージに入りつつあり、そうした状況への対応が迫られているということである。すなわち、これまでは体制転換に対する西側の支援を受け(体制転換への金融支援や債務の50%帳消しなど)、また国営企業の売却益で国庫は潤った。自由化の波に乗って少し工夫した商売をすれば数年で大金持ちになることも可能だった。しかし、主要な国営企業の売却がほぼ終了し、市場でも外資系企業が参入して競争が激化する中で、荒っぽい商売で短期間に大金が稼げるような環境は消えつつある。また、西側諸国は援助者ではなく競争相手になりつつある。そうした意味で今後政府にとってもポーランド企業にとっても本当の実力が試されることになるだろう。

 また、『フプロスト』誌(2001.08.19, p.30)によると、今回の選挙戦で国民が関心を持っている問題は、失業(85%)、治安(49%)、医療保険(45%)、年金(23%)、課税(21%)、農業(16%)、教育(12%)、財政赤字(11%)、奨学金(10%)、EU加盟(7%)となっている。EU加盟や国防(3%)より、国内問題に関心が集中しているのが特徴的である。新しい政権にはこうした問題の解決が期待されるが、国家機関のスリム化や企業の淘汰でますます失業者の増加が懸念される中、新政権がとりうる政策の幅はかなり限られたものであるといえる。



SLDの選挙看板


(たぐちまさひろ・岡山大学 2001.09.01)





関連サイト
ポーランド政治・経済年表(1989-2001)
1997年総選挙1997年総選挙結果と下院議員名簿(1997.9.26)
1997年AWS-UW連立政権ブゼック内閣閣僚名簿(1997.10.30)
AWS-UW連立政権危機自由同盟(UW)、連立政権から離脱(2000.06.09)
2000年大統領選ポーランド大統領選(第四回報告)(梅田芳穂)(2000.10.10)
政界再編「市民プラットフォーム」結成 (2001.01.24)
地方行政改革行政区分改革で49県が16県に統廃合(1998.7.26)
年金制度改革年金改革: 公募型年金基金は経済を活性化するか(1999.09.07)
教育制度改革教育改革: 9月1日より新制度でスタート(1999.08.08)
医療保険制度改革(記事なし)
小森田秋夫先生のHP最近の世論調査結果(政党支持、EU加盟他)
移行期シンポジウムポーランドを考えるシンポジウム 『移行期ポーランドの光と陰』(編集: 藤井和夫)(1999.12.20)
体制改革10年ポーランド体制改革10年の軌跡(田口雅弘) (1999.11.13)
「連帯」選挙行動Akcja Wyborcza Solidarnosc: AWS
民主左翼連合Klub Parlamentarny Sojuszu Lewicy Demokratycznej: SLD
自由同盟Unia Wolnosci: UW
保守農民党Stronnictwo Konserwatywno-Ludowe: SKL
独立ポーランド連盟Konfederacja Polski Niepodleglej: KPN (Krakow)
ポーランド農民党Polskie Stronnictwo Ludowe: PSL
ポーランドの合意Akcja Porozumienie Polskie: PP
セイム(国会下院)各下院議員のデータ(写真付き)
セナット(国会上院)各上院議員のデータ(写真付き)