「ポーランドを考えるシンポジウム」
移行期ポーランドの光と陰


1999年11月14日 大阪の梅田スカイビル





 『ポーランドを考えるシンポジウム 移行期ポーランドの光と陰 −21世紀に向けて、本音で語るショパンの国の現在−』日本ポーランド協会関西センター主催の上記シンポジウムが、1999年11月14日に大阪の梅田スカイビルにおいて日本・ポーランド国交樹立80周年及び国際ショパン年記念イベントのひとつとして開催されました。パネリストは、松本照男(ワルシャワ在住ジャーナリスト)、小森田秋夫(東京大学教授)、小林信之(前ポーランドフィリップス松下電池社長)の各氏と、関西センター会員の田口雅弘(岡山大学助教授)、それに司会を兼ねて藤井和夫(関西学院大学教授)が参加しました。各パネリストのスライドやOHPを交えたお話の後、70余名の参加者からの活発な質問でなかなかの盛り上がりを見せ、3時間半に及ぶシンポジウムの幕を閉じました。アンケートによれば一般の参加者の皆さんにもご満足いただけたようで、関西センターとしても始めての試みとしては成果があったのではないかと思います。特に「お世話下さった関西センターの皆さんのさわやかな応対が印象的でした」という嬉しいアンケートの一言が心に残りました。各パネリストのお話と主な質疑の概略は以下のとおりです。

藤井: ポーランドは966年以来カトリックの国であり、1683年に国王ヤン・ソビエスキがウィーンを包囲するオスマン・トルコ軍を破るなど西欧を守る「キリスト教の防壁」という意識が伝統的にあり、日本で考えられている以上に西側に顔を向けて暮らしてきたことが現代ポーランドの歴史的背景にある。そこから1989年東欧革命以降の経緯を西欧への回帰と見る考え方が強い。また、近代化、産業革命、市民社会の時代といわれる19世紀に分割支配のために国家が存在せず、国家再建を大きな国民的課題としてきたことが今日までもポーランドに社会的・精神的な影響を残していると思われる。

田口: スライドによって、経済面を中心にこの10年間にポーランドで起こった変化を示す。第二次大戦後東西のイデオロギー対立の中で世界の政治・経済・社会は動いてきた。その東西体制崩壊のきっかけを作ったのはポーランドで、この10年間の流れは大きな意味をもつ。1980年に「連帯」労組ができたが、翌81年に戒厳令によって抑え込まれ、経済はさらに悪くなった。当時、現体制はもう変わらないという絶望感さえあった。ところが89年以降数年で物が溢れる社会に一変した。この変化のきっかけは1989年の円卓会議とその後の自由選挙での共産党の大敗であった。マゾビェツキ首相の連帯政権の財務大臣バルツェロヴィチはいわゆるショック療法を行い、金融引き締めと自由化を実行した。物価高・倒産・失業の転換不況に襲われたが、西側との取引が活発化して商品が溢れ、やがて民営化も進んで旧共産党本部は証券取引所に変身した。自由化によって経済に新しい動きが生まれるとともに、外食・流通を手始めに外国資本も流入し始め、やがてインフラやオフィスビルの建設ラッシュが始まった。しかし一方では、地方の炭鉱ではリストラが進まず、造船所は倒産し、農村では相変わらず苦しい生活が続いていて、強い者だけが勝ち残るというアメリカ式の効率主義のやり方でいいのだろうかという疑問も生まれ始めている。GDP成長率が5%程度で数年続くという活気がある中で、法律の隙間をうまく突けるかどうかで勝ち組・負け組が決まるのではなくて、きちんとした市場を準備して制度を作ってそれを監視する国民の信任を得た国家の新しい役割があるはずだと言われだした。今まで国営農場・国営企業に全面的に依存してきた地域で資金も何もなしに失業者があふれ、自由経済だから自分で何とかしろと言われて戸惑うという自由市場に対する幻滅とか、不平等な条件を押しつけられて輸出補助金によって安くなった西側の農産物が流れ込んでくるのを目の当たりにしたEUに対する幻滅が、自由化の陰の部分として広がっている。

小森田: 政治的に大きな転換の年1989年には、「連帯」労組と教会が大きな役割を果たし、ワレサによって両者が人格的に結び付けられていた。その三者がこの10年どうなっていったかOHPを利用して示す。ポーランドの大統領の権限は、国会が制定した法律への拒否権と憲法法廷への提訴権をもつ一方、日常的には内政から一歩退いた立場にあって、強いロシアの大統領制とシンボル的なチェコ・ハンガリー型の中間にある。1990年に大統領に選ばれたワレサは国政の前面に立つもっと強い大統領を望んでいたが、その強引なやり方に世論が反発して95年の大統領選挙では僅差で敗れた。迅速果敢に意思決定する強い大統領が必要な場合もあるが、その条件は唯一正しい処方箋が明かなことと大統領が短期的な反対に左右されず独立した決定を行えることであり、どちらの条件もポーランドにはなかった。今の大統領には対外的に国を代表しながら将来のヨーロッパやその中でのポーランドの役割についての知的な展望が求められているが、ワレサは自分のそういう新しい役割を見つけそこなったのであろう。次に国民の9割が信者であるカトリック教会は、かつては共産党が支配する政府に対して社会の代弁者の役割を果たし、次に政府と連帯の間を仲介する役割を果たしたが、体制転換の後はそれらの役割はなくなり、本来の主張の制度化を要求する一方で、消費社会化・世俗化が進み信者が教会の教えを選択して受け入れるという状況の中での自らの役割を模索しているところである。最後に連帯であるが、1980年に労働組合として誕生した時、その周辺を穏やかな社会運動が取りまいていた。89年の最初の自由選挙ではそれらは連帯市民委員会としてまとまっていたが、転換以降周辺の社会運動は政党として個別の活動を始め、労組の方はそのまま選挙に出て95年には議席を失った。そこで97年の選挙では連帯労組と議席のない連帯系の諸団体が集まって連帯選挙行動を作り、第一党の座を獲得し、バルツェロヴィチを党首とする第三党の自由同盟と連立政権を形成している。寄り合い所帯の政権だけに、市場経済重視の自由同盟とかつての重厚長大産業を基盤にする連帯労組の間にぎくしゃくした関係も生まれている。ポーランドの政党を考える場合には、自由市場か政府が積極的な役割を果たすのかという経済政策をめぐる物差しと、カトリック的な伝統を重視するか世俗的な国家であるべきかという物差しの二つの軸で考える必要があり、経済政策に関する限り野党の民主左翼同盟の方が自由同盟に近い部分もある。しかし、自由同盟が連帯系の政党であるのに対して、民主左翼同盟は連帯を弾圧した旧共産党の流れをくむ政党である。この点もポイントになっている。

小林: 今春まで6年間関わっていたポーランドフィリップス松下電池での事業を通して見たポーランドについてOHPを利用して話す。ベルギーのフィリップス松下電池の主力のマンガン乾電池を全面的にポーランドにシフトした。中欧を選んだ理由は、西欧市場に対応したコスト力形成、拡大する中欧・CIS諸国市場への生産拠点作り、西欧と比べた中欧投資の合理性・効率性、の三点である。中でもポーランドを選んだ理由は、政府・地方自治体の積極的な対応、東西のアクセスの良さ、中欧最大の国内需要、亜鉛その他の材料の調達可能性、良質な人材、社会・経済の安定、の六点である。会社はワルシャワとベルリンのちょうど中間のグニェズノにあり、松下とフィリップスの半々の出資で93年12月設立され(95年10月創業開始)、現在の従業員数は700人で、全欧州とCIS諸国を対象に当初計画を越える販売増加を示している。私の目から見たポーランドの印象は、89年以降しっかりした足どりで静かに大きな改革が進んでいること、ゼロからの出発ではなく欧州の伝統という基盤をもつこと、ポーランド人は健全な考え方と業務遂行能力をもち諸改革も素早く実行されていること、などである。日本からは、ポーランドは社会体制が変革したばかりの小国に見えるかもしれないが、実際は労働力のコストが安い上に優れた資質をもつコストパフォーマンスの良い、人口や面積でも欧州レベルでの大国と考えた方がよい。現地で見たポーランドは、日本では進まない行政・税制改革や地方分権が実施され、諸外国の直接投資が拡大し、インフレも収束しつつあり、経済が安定して発展段階に移りつつある、ボーダーレス時代の生産基地として優れた適地である。ところが心理的な距離では、ポーランド人は日本をよく知り親日的なのでポーランドから日本は近いが、日本からは知られていないポーランドは非常に遠い。もっとポーランドを知りファンになって欲しい。

松本: ポーランドの人たちは日本人に会うとよく「桜の花咲く国日本からようこそお越しいただきました」と他では聞けない歓迎の言葉を言ってくれる。お互いにロシアという敵を抱えていたからなのか、戦前にシベリアのポーランド人孤児を日本の赤十字等が救ったことがあったからなのか、確かにポーランドはたいへん親日的である。数年のつもりがポーランド女性と結婚したこともあってワルシャワに住んで30年以上になる。そんな生活感覚から「陰」の部分を話す。社会主義時代は自由や民主主義が制限されていて、結婚案内を印刷しようとして検閲局の許可がいると言われ最初のカルチャーショックを受けた。だからポーランド人には自由や民主主義に強い思慕があったと言える。かつては経済も非常に苦しくて、バナナのように西側から輸入されるものをふんだんに食べられる一部の特権階層の子弟をバナナっ子と呼んだりしたが、大多数は等しく生活が苦しくて、そんな中で互いに助け合う人情があった。寒空の中一家総出で店の行列に並んでクリスマス前に緊急輸入されたオレンジを少し買えて幸せだった、という心の豊かさがあった。89年体制変革後の10年間は、世代によってその評価が分かれている。50歳代以上の年金生活者や新しいビジネスや技術になじめない人々は昔の方が良かったと言う。彼らの中には経済的要因から家庭不和や離婚にいたる人もある。一方、若い世代の人は時代に早く順応・対応でき、何のコンプレックスもなくヨーロッパ人として生きていく。これは良いことだが、彼らは勤めてすぐに古い世代の親の何倍も稼ぐようになり、親を馬鹿にするという世代間の問題が起こってくる。等しく貧しい時代から賃金・所得格差の時代になり、いわゆる落ちこぼれの問題や犯罪増大の問題が生じている。犯罪は特にポーランドが多いというわけではなく、要するに良い面でも悪い面でもポーランドがヨーロッパの普通の国になったということだ。またポーランドに重くかぶさっていたロシアの重圧がとれたのは精神衛生上非常によいことで、ポーランド人が何でもロシアのせいにするということはなくなったし、少し経済的余裕も出てきて、ロシア人の出稼ぎツアーにも、かつてドイツに出かけた自分たちを振り返って理解を示すようになった。それからEU加盟が国全体の目標のように言われてきたが、最近はポーランド人もメリットとデメリットを客観的に分析するようになってきて、現時点で加盟について国民投票があればどういう結果になるかわからない。いずれにせよポーランドは、さまざまな問題を解決しながら、EU加盟をひとつのキーポイントとしてここ数年は薄紙をはがすような動きが続くだろう。




質  疑(要約)


Q:  話を聴くと、民主化されてまだ10年なのにポーランドは生き生きと発展しつつあるように感じたが、その原動力は何か。

A(松本):  ポーランドは危機に強く、ポーランド人は危機の時にはよくまとまる。かつて123年にわたって独立を失っていても国は滅びなかったように、民族として非常に力強いものを持っている。そのポーランドが、戦後の体制は自らが選んだものではなく押しつけられたという根強い不信感を持っていたので、たがが外れたこの10年間に今のような活力が出ない方がおかしいと言えるだろう。

Q:  5%の成長率はどの時点からか。またポーランドの特産物は何か。

A(田口):  GDPがプラスに転じたのは比較的に早く1992年。5%以上の成長は1994年から。それから特産物は農産物のじゃが芋や肉、鉱産物の石炭、錫、亜鉛、銅等色々あるが、問題は競争力のある輸出品は何かということである。地味だが、家具のような労働集約性の高い製品が、労賃も安く技術力もあって輸出競争力を持っている。実際、労働集約的な中小企業が成長力の大きな部分を担っているのである。

Q:  ポーランドでは余剰人員があっても組合の力が強くてリストラがうまく進まないと聞くが、ビジネスをするにあたって将来の組合との関係をどう考えたらいいか。また、ポーランドにはビジネスチャンスが非常にあると思うが、EUから外資がどんどん入ってきてそのチャンスを奪われたらポーランドのためにならないと思うがどうか。

A(小林):  労働組合の組織率は意外に低く、特に外資系の企業にはほとんど組合がないと聞いている。それだけに、内部の経営数値などの情報を開示し、毎月全従業員と懇談する場を設けて情報交換をしてきた。

A(小森田):  私有化された国営企業の場合には労働組合が残っているが、外資系を含む新規の私企業の場合はほとんど組合がない。残った組合でも、炭鉱、鉄鋼、武器産業、トラクター工場、教員、医療労働者等では活発な活動をしているが、そこでも生産性向上運動の動きがあるなど方向転換の試みがみられ、組合をめぐる状況は非常に多様である。

  A(田口):  外資については、昔は支配されるというイメージも強かったが、今は様子も異なり、外資を取り込むことによって危機が生じるというより、長い目でみればポーランドにプラスに働くと思う。日本企業ももっと入れば、外資のバランスもとれる。

Q :  質問ではないが、これまでポーランドのことはほとんど知らずにいたところ、娘がある地方都市で1年弱日本語講師として滞在することになって、それ以来ポーランドには特別大きな関心を持ってきた。すると日本からのツアーもあまりないし、ポーランドにほとんど関心を示さないのが現状だった。地方都市はワルシャワとは違う面もあり、地方都市も含めて特に若い人にもっとポーランドのことに関心を持ってもらいたい。 A(司会):  我々も全く同感であり、ぜひ若い人たちにポーランドのあちこちを知っていただきたい。

Q :  ピアニストとしてポーランドに縁があり毎年招いてもらっているが、招聘先が小さな町のオーケストラで楽器も設備も古く、近く進出する日本企業に援助を打診したら自由化されたんだから自立して欲しいと良い顔をされなかった。進出する日本企業のメセナはどうなっているのか。経済の対象としてでなく、尊敬すべき芸術の国にどう接しているのか。

A(松本):  ポーランドでは89年以降メセナの問題が変化してきて、補助金カットというかたちで芸術分野の人たちが非常に苦労している。ただ日本企業の場合は、無償の援助や寄付を結構やっている。

A(小林):  逆に企業の立場では大変な量の寄付の要求がきて非常に悩む。社内に審査委員会を設けて審査している。所得税が免除になるので収入の減る政府も規制を考えている。

Q :  なぜフィリップスと組んだのか。経営はどうなっているのか。

A(小林):  松下電池とフィリップスは27年前からベルギーで提携関係にあったことと、オランダのフィリップスは従来から中欧にルートを持っていたから。日常の経営については松下側が責任をとる。ただし社員には、これは松下とフィリップスの合弁企業だが、ポーランドの人材を基礎にするポーランドの会社だと強く訴えかけている。

Q :  資料の99年の選挙結果では与野党が入れ替わっているがそれはなぜか。

A(小森田):  99年の数値は実際の選挙結果ではなく世論調査結果である。年金・医療保険・地方自治・教育の4つの改革が同時にスタートして問題も発生していることも背景となって政府の支持率がここ1年急速に低下している。

Q :  ポーランドの国民所得の水準はどれくらいか。また民営化されていない国営企業にはどんなものがあるか。

A(田口):  民主化が進んで経済が成長する基準といわれる2000ドルの一人あたりGDPを越え、3000ドルを越えるぐらい。民営化は、小さいところは進み、大企業が残されている。来年あたり、通信が民営化されそうだが、炭鉱や国鉄はなかなか進まないだろう。

Q:  資料の中の、外国からの直接投資にあたって実務段階の人の心の改革は未熟とはどういう意味か。

A(小林):  たとえば、会社を興すとき、最初の工場の建設許可や税の恩典確保の交渉をするが、その際年輩の役人は以前の法律を持ってきたりして頑固で柔軟性がなかった、というようなことである。


司会:  最後に各パネリスト に本シンポジウムのテーマのひとつであるポーランドの将来の展望について、それぞれの観点から一言ずつコメントをお願いしたい。

田口:  難しい問題だが、ポーランドは民主化で主導的な役割をはたしてきた。21世紀に向かって、アメリカ流の自由主義やEUのスタンダードに飲み込まれてしまうのか、それとも自分たちの独自の新しい道を残していけるか興味深い。

小森田:  選挙で政権交替が何度か起こっても国の進路の大筋に変化はない。それもあってか、大きな課題を抱えているのに投票率が非常に低いのが問題である。将来に向かっての問題点は、過去の歴史的な対立が政党間の確執に絡まっていること、色々な政党があってもいいが政策の違いを分かりやすくうまく表現するグループができるかどうか、農民が抱える問題を適切な形で政策に反映させるグループができるかどうか、の3点である。

小林 :  ポーランドは中欧でのビジネスの中核になる国だと思うが、そこで問題になるのは、失業率が高く管理職層が薄いという人の問題と、周辺の企業が育たなければポーランドで全てが調達できず企業負担が増えコストアップにつながる、この2点である。

松本:  今ポーランドでは、アンジェイ・ワイダ監督の「パン・タデウシュ」というポーランドの英雄叙事史を題材にした、アメリカ的なエンターテイメントではない本当にポーランド的な映画が大変な人気になっている。ポーランドが外国と交流しその影響を受けながらも、芸術分野含めて、ポーランド人であるというアイデンティティ、ポーランド人的なものを打ち出していく国になってほしい。

(文責: 藤井和夫 日本ポーランド協会関西センター会報『WISLA』 第22号 1999.12.20)



「ポーランドの話題」の目次に戻る。