ポーランド外国投資公社(PAIZ)
これは田口研究室が管理するPAIZ紹介のページです
政党
ポーランドでは、共産党(ポーランド統一労働者党)の指導的役割が政治システムの柱だった旧体制時代からすでに様々な社会勢力が存在し、これらの勢力が体制崩壊・既成の価値観崩壊過程で国民に新たな指針を与える受け皿として機能してきた。こうした厚みのある政治・社会運動の伝統が、一見流動的に見えるポーランド社会の基盤を強固なものにし、社会が個々バラバラに分裂することを防いできたのである。具体的には、体制変革の中心的役割を果たした「連帯」運動、国民に広く浸透したカトリック系社会運動、農村で根強い信頼を獲得している農民系政党、旧体制下の反体制運動や様々な社会運動にいつも指針を与え続けてきた知識人の政治・社会活動、19世紀からの伝統がある協同組合運動、などがそれである。
1989年には、こうした様々な勢力が国民的運動である「連帯」に結集して、体制転換という歴史的事業を成し遂げた。しかし、旧体制を崩し新しいポーランドを築くという点では一致した諸勢力も、どのようなポーランドを築くかという点においては千差万別であった。そうした構想の相違は新政権のもとで次第に明らかになっていった。
1991年にはついに100をこえる諸政党が乱立する状態となった。1991年10月に行われた国会選挙では、約20の政党が議席を得て、しかもどの政党も2割以下の議席しか確保できない状況に陥った。こうした中で中道連立政権が発足したが、充分に安定した政権とはいえなかった。1993年9月の総選挙では、選挙法の改正によって、議席を得た政党の数が下院で7にとどまり、政党乱立に一定の歯止めがかかった。一方で、国民の経済政策への不満と中道諸勢力の分裂を背景に、左派勢力と農民党が勢力を拡大し、この2党が連立して安定過半数を確保した新しい連立政権が誕生した。さらに、1995年11月の大統領選挙でも、民主左派連合のA・クファシニェフスキがL・ワレサを破って当選した。
しかし、こうした政治状況の変化によって体制転換のの流れが変わったわけではない。ポーランドは一貫して民主化、経済市場化の道を歩んでいる。むしろ、労働組合出身のワレサ大統領からクファシニェフスキ大統領にかわったことで、グダンスク造船所の倒産をはじめとしたリストラが進み、議会と大統領府のねじれ現象もなくなって、新憲法が成立するなど改革は一層進んでいるといえる。また、一時分裂していた中道諸勢力も1997年秋の総選挙を目前に結集し、再び安定した政治勢力として復活しつつある。
ポーランドの主な政治勢力は、旧共産党(ポーランド統一労働者党)の流れを汲み
約6万人の党員を抱える民主左派連合(SLD)、農村に強い基盤を持ち約20万人の党員を擁するポーランド農民党(PSL)、旧民主同盟(UD)などの中道「連帯」系諸勢力を結集し、体制転換の経済プログラムを起案・実行したバルツェロヴィチを党首とした自由同盟(UW)、「連帯」左派の流れを汲み労働者の利益擁護をスローガンに掲げた労働同盟(UP)、国民の一部に根強い人気はあるが民族主義的・ポピュリスト的な色彩の強いポーランド独立連盟(KPN)、ワレサ前大統領のイニシアティブで結成され、広範な国民層の結集を目指した改革支持無党派ブロック(BBWR)などがある。
(田口雅弘)
追記: 1997年秋の国会選挙で、「連帯」系の「連帯」選挙行動(AWS)が第1党に。自由連盟(UW)と連立政権を樹立。AWS出身のイェジィ・ブゼク(Jerzy Buzek)首相は、安定した高いGDPの維持、福祉・医療制度改革、地方分権を目指した行政改革の断行を政府の最優先課題とすると約束。1999年1月1日より民営化は加速される。中期目標は変わらず: NATO加盟−1999年4月、EU加盟−2002-2005年。(1998.10.27)
PAIZ案内へ行く