クラクフ
山根智恵
ワルシャワから約250キロ南に下ったところに人口80万人、ポーランド第3の都市クラクフがある。ワルシャワが政治・経済・ビジネスの都だとすれば、クラクフには歴史・文化・芸術の都という言葉が当てはまる。伝説の王クラクにちなんで名付けられたといわれるクラクフの歴史は古く、965年にヤコブという商人が書いた紀行文の中に既にその名前を見つけることができる。その後10世紀半ばにポーランドの首都となったクラクフは、13世紀に何度かタタール人の奇襲を受けながらも、16世紀末のワルシャワ遷都までその栄華を保つことになる。その面影は、奇跡的に戦災を免れた旧市街に色濃く残り、ユネスコから世界で最も重要な12の文化遺産を持つ都市の一つに定められている。市内には3,500以上もの文化遺産がちりばめられているが、その代表的なものはバベル城と中央市場広場である。歴代王の戴冠式が行われたバベル城には、 カジミエシ大王、 ヤドヴィガ女王などの棺が納められている。織物会館を中央に構える市場は、ヨーロッパでも1、2を争う広さで、聖マリア教会の塔から流れるラッパの音は、定時の時刻を知らせると同時に、タタール人奇襲の歴史を彷彿させるものとなっている。また数の多さを誇る教会は、ゴシック、バロック、ロマネスクと建築様式を比較するだけでも興味深く、「もしローマがなければクラクフがローマになっていただろう」という諺までも生んでいる。
しかしクラクフの歴史はそのきらびやかな面だけに止まらない。第2次世界大戦時、プワシュフには強制収容所がおかれ、多くのユダヤ人が殺された。その数は80,000人にも及ぶと言われている。ユダヤ人居住区だったカジミエシには、今もユダヤ教の教会やユダヤ人墓地が残っている。
このような歴史と文化遺産の中で芸術が花開かないわけがない。19世紀末の“若きポーランド”の時代にクラクフは芸術家の創作の場となった。その頃活躍したマテイコやヴィスピアンスキの家は現在美術館となっており、200年の歴史を誇るテアトル・スターリイでは、そのヴィスピアンスキーの“婚礼の宴”を初めとして、今でも様々な劇が上演されている。また、クラクフには作曲家も多い。毎年5月にはクラクフ出身の作曲家の曲だけを集めて演奏会が行われる。短編映画の国際フェスティバルも5月から6月にかけて行われ、夜遅くまで数十本の映画が上映される。
そんな町に魅かれて、毎年数人の日本人が勉強しにやってくる。その数は年々増え、現在20名ほどの日本人が在住している。その約半分がポーランド語学研究所(IBP)で語学を、あとの半分が11ある大学でそれぞれの専門を勉強している。学問の町でもあるクラクフには、1364年創立、中欧で2番目に古く、コペルニクス、法王ヨハネ・パウロ2世を輩出したヤギェウォ大学(UJ)、ワイダ、カヴァレロヴィチが学んだ美術大学(ASP)その他音楽大学、演劇大学などがあり、日本で学ぶことのできないものも勉強できるからである。
日本人の数の増加に比例するように、ここクラクフでの生活も年々便利になってきている。日本料理屋、日本食料品店こそないものの、中華料理屋が7軒、ベトナム料理の店が3軒、味噌・ひじき・醤油(中国製)などを扱う店も2軒ある。魚介類も、ますなどの川魚に加え、冷凍ものであるがえび、たこも買えるようになってきた。東にノバフタの製鉄所を控え、公害の町としても有名だったクラクフだが、製鉄所で作られる製品の変化に伴い、空気のほうも前より良くなってきたような感じがする。
このクラクフの町に、1994年11月末、日本文化センターがオープンする。ヤシェンスキという一個人の収集した北斎、 広重などの浮世絵が常設展示されることになっている。クラクフがポーランド人の心の故郷からポーランド人・日本人共通の心の故郷になる日も近いと言えるだろう。
ヤギェウオ大学日本学科講師 (1994.06)
