日ポ協会関西センターのグループ旅行の後、ポーランドに一人居残りました。その際に体験した事をお話したいと思います。
シネマコンプレックス
KINO”Femina”で、”Pragnienie milosci”(愛の切望?)を鑑賞しました。
映画を見るのは久し振りだったので、ワクワクして出掛けたのですが、チケット売り場でビックリ!!コンピューターで座席表を見せてくれて、(いわゆる指定席デス)ボタンを押せばチケットが出てくるのです。表面にはタイトル・日付・時間・座席番号・値段(18z?)があり、裏面は某有名コーヒー会社の宣伝がカラー印刷。それにタイプの違う小劇場が4つ。(私は日本でもまだ行った事がないのに…)。売店も完備。「ビッグサイズのポップコーンにコーラ」が人気のようでした。シートも広めで、座り心地も良かったです。一番小さい64席の劇場に、たったの12人。広々とした空間でマイシアターのような気分で鑑賞出来ました。音響もドルビーサラウンド方式で臨場感バッチリ。内心「ショパンの映画を、ポップコーン食べながら見る奴がいたら、睨みつけてやる!」と思っていましたが、さすがに我らが12名は、音楽好きだったのですね。では、あのポップコーン組みは?というと、米国の映画を見ていたようです。
さて、本題の映画についてですが、物語は、ジョルジュ・サンドの視点から見たショパンと、彼女の家族をも巻き込んだ愛憎劇(ドタバタし過ぎの感あり)でした。コンスタンチン大公の命令で、ピアノをマーチ風に”ガンガン”と弾かされるのに嫌気を差して、ショパンがウィーンに旅立つ準備をするシーンから始まり、最後は、姉ルドヴィカがショパンの心臓を鞄に詰めて国境を超えるシーン。国境警備員が「中身は?」と尋ねると、沈んだ表情で「弟の心臓です」と答える。係官は気味悪そうに「冗談だろ?」と言いながら、通って良いと示唆する。そして「ショパンはようやくポーランドに帰って来れた。」というシーンで終わる。
作品としての解説は、置村会員にお任せするとして、私はショパンファンの視点から面白かった場面をお話したいと思います。革命期のパリへ向かい、そこでサンドと出会い、パリ・マヨルカ・ノアンと旅していくので、それぞれの景色も美しい映像で楽しめると思います。パリに来た当初は、誰も見向きもしてくれず思い悩む日々が続き、その後、社交界デビューを果たしサロンで人気者になっていくショパン。着飾った人々が集い、現代の大きなホールとは違ったサロンコンサートの場面や、馬車に乗り、白い手袋を愛用し、スタイルを気にして姿見を眺める場面など。寂しくなり家族を思い出す時には、クリスマスツリーの下で家族がコレンディー(クリスマスキャロル)を歌う光景。ショパンにとって、いかに家族が大切であったかを伝えたかったのか、このシーンは何度も繰り返されていました。作曲が思うように行かず憤っている時に、身の回りの世話をしてくれるポーランド人のヤンが、何気なくバイオリンで奏でたポーランドのメロディー。それを耳にしたショパンが、子供のように無邪気に「演奏をもっと聞かせてほしい」と懇願する。そして有名なマズルカの作品へと完成していくシーン。そうそう、大好きなホットチョコレートも出て来ますよ。(まだまだ紹介したい場面はあるのですが…この位にして)。勿論、音楽はショパンの作品で充たされています。演奏は、ポーランドのオレイチニャック氏、日本の横山幸雄氏の名前もエンドロールに見つけられました。ショパンの伝記を読まれて、多くの事をご存知の方も、そうでない方も、映像も綺麗ですし、色々な角度から楽しめる映画だと思いますので、是非お勧めしたいと思います。

「ピアニスト」
世界的に有名な映画監督、ロマン・ポランスキーの 最新作「ピアニスト」のプレミアが文化科学宮殿の大会議場で華やかに開催され、監督自身が来場した事もあり、大盛況でした。その翌日にはショパンコンクールが行われるフィルハーモニーホールでコンサートも催されました。街中が映画のポスターやCDの宣伝で埋め尽くされ賑わっていたので、早速見に行きました。物語は、ブワディスワフ・シピルマンというユダヤ人のピアニストが、第二次世界大戦をいかに生き延びたかという、実話に基づいたものです。前述の映画同様、全編に渡りショパンの音楽が使われています。”ノクターン”を録音中に爆撃を受けるシーンから始まり、戦後コンサート活動を再開して、オーケストラと”アンダンテスピアナートと大ポロネーズ”を演奏するシーンで幕を閉じます。観客はさまざまで、若者に混じって(戦争体験者らしい)年配の方々も多く見られました。内容は想像に違わず、悲惨な映像でシビアに表現されていました。私は、握りしめたタオルのハンカチはグショグショ、目も腫れ上がり、精神的に凄く疲れてしまいました。エンドロールが終わるまで、誰一人として立ち上がる人はいませんでした。(後日、別の場所でも、映画が終わって出口扉が開けられて音楽が聞こえていましたが、出てくる人はいませんでした。)ワルシャワでも撮影が行われたようですから、皆さんもよくご存じの場所で、(勿論様子は違いますが、)凄まじい歴史が繰り広げられた事実に、衝撃を覚えられるかも知れません。
どうぞ、ハンカチをお忘れなく…。

国立公園サイクリング
9月初め、ワルシャワの中心から北西に車で約30分の所(truskaw)に住む友人を訪ね、すぐ傍にある「カンピノスキ国立公園」へサイクリングに出掛けました。地図で見ると、ワルシャワ市内の面積の約3倍強もある広大な森です。車の通行もあるので一応舗装道路はありますが、道の両端は土のままになっています。土が硬くないので、砂地と言った方がいいかも知れませんね。森の中はあまり手を入れず自然のままですから、倒木ありのデコボコ道です。森の中で迷わないように、目印もあります。葉書大の枠の中を、白・水色・白というラインで埋めてあるのです。その標識に沿って進めば、迷う事はないそうです。友人はこの森を良く知っているので、「素敵な所を案内してネ」とだけ希望を伝え、後はお任せしました。メンバーは友人と2人の息子(4歳と6歳)と私。弟は友人の後ろに、6歳の兄は自分の自転車で。このメンバーなら「そんなに悪路は行かないだろう」と思ったのは軽率でした。途中アップダウンの凄い道も走り、夕方5時前から約2時間、頑張って進みました。深い森には様々な木々、動植物が生息しています。白樺が陽を浴びて白く輝く傍に、ヒースが咲き乱れ、リスが見え隠れする大きな森。ここでは私が来訪者。雄大な自然がいつまでもこのまま残って欲しいものだと強く願う限りです。今年の異常気象のせいか、蚊が多いのには困りました。9月1日は大戦勃発の日ですから、ポーランド国中で色々な式典が行われました。この森も数々の戦いの場でもあったので、まだ人知れず眠っている方も多いのだそうです。この森にも慰霊碑があり、献花や蝋燭入れが残っていました。友人もポケットから蝋燭を取り出し、火を点け、遊んでいた子供達にも説明をして、静かに祈りを捧げていました。歴史博物館は閉館していましたが、無名戦死の墓にも案内してくれました。門の入り口には
”Latwo jest mowic O POLSCE .
Trudniej dla nije PRACOWAC,jeszcze trudniej UMRZEC,
a najtrudniej CIERPIEC.
「(人が)ポーランドについて語る事は容易い。
(ポーランドの為に)働く事は難しい。
さらに難しいのは死ぬ事だ。最も難しいのは耐える事だ。」(拙い訳ですが、ご容赦下さい。)
という碑が掲げてありました。また、一区画ですが当時のままの石畳が残っています。以前ワイダ監督の「聖週間」という作品の撮影風景をヴィデオで見たのですが、その中で、「ユダヤの人々が連行されるシーンを、現存する石畳の道を使って撮影している」と聞いた覚えがあるので、一生懸命ペダルを踏みながら、心の中でそっと祈りを捧げていました。夏は日が長いので、ゆっくりとしていましたが、夕日が落ちて暗くなり始めると、だんだんと靄が出てきました。森から出た所の草原が、青紫色になり始め、景色が変わってきました。朝晩の冷え込みが始まってきたようです。朝5時30分過ぎに、庭のタンポポの綿毛を見ると、霧氷が綺麗に光っていました。秋がもうそこまで近づいているのでしょう。街中でも紅葉はしていないのに、木々の葉が舞い落ちていましたから。もう少ししたらキノコの季節。ポーランドのキノコも美味しいのですよ!いつもは食べてばっかりなので、次回は「キノコ狩り」を体験しに出掛けたいと思います。いつになるやら…。美味しいレポート、御期待下さい。
最新車両!
何気なくマルシャウコフスカ通りのトラムバイに飛び乗ると、アナウンスが聞こえてきた。「ん?これは何?」周りを見ると行き先の表示板がボックスになって場所を占めています。(普通は板状なので)良く見ると電気がチカチカ移動している。日本ではお馴染みの電光表示である。オマケに(たぶん女性の声だった)アナウンスまで付いているのです。地下鉄は新しいので分かるのですが、あの市電が変わっているので驚きました。しかし、乗車出来たのはこの時のみ。まだ最新車両は少ないのでしょう。バスも市電も外装は宣伝でカラフルになったものの、内部は以前のまま。この味(?)に変にほっとするのは、私だけではないはずでしょう。
時計台?
誰もが知っているワルシャワのシンボル(?)「文化宮殿」。空港からバスに乗って中心街に向かったのだが、イエロゾリムスキ大通りの辺りから眺めると、何か様子が違って見えた。お馴染みのソ連からのプレゼントが何故だか可愛く見えた。展望台の上辺りに丸い時計があるのです。4面全部に。まるでビッグベン(?)のよう。この時計は2000年を記念して付けられたそうです。夜には煌煌と輝き、全く威厳なし。(どうもそれが狙い見たいだけど。)「ホント、可愛くなっちゃいました」って感じです。
(日ポ協会関西センター『WISLA』第28号 2002年10月31日発行)