ポーランド旅行私的総括


置村公男




8月19日(月)

 先発隊の中村氏と私置村は映画(本号の拙稿「芸術と娯楽の間」参照)とワルシャワ旧市街での喉の潤しを済ませ、宿に戻ってビックリ!アダム・オジュグ会員がいた。ホテル・ワルシャワのバーで一行有志による本旅行最初の飲み会が始まる。それに飽きたらぬ精鋭部隊が旧市街に乗り込むが、なぜかピエロギ料理会になってしまう。しかも私一人置いてきぼりを食らうし(イジイジ)…。(?_?) ポーランド・ピーヴォ・ツァー(別名「のんべぇ旅行」)の幕開けである。



8月20日(火)

 旅慣れた横山会員の諸注意によりバス旅行が始まる。一路コズフカへ。本旅行のテーマはシュラフタ文化である。7月のシンポジウム席上で講師の田口会員が「『連帯』メンバーとシュラフタ文化のつながりは置村氏の方が詳しいかも知れないが…」と話されたが、戦中・戦後史を専攻する私はシュラフタ文化、即ち18世紀以前の歴史については素人同然である。過去6回、1か月〜2週間の短期とは言え、ポーランド滞在を重ねてきた私が本旅行に参加した動機は、未見にして個人では訪れ難いシュラフタの館に立ち寄る事である。換言すればコズフカ、ワィンツート、ニエボルフこそ本旅行の私にとっての最重要訪問地であった。

 しかし、そこは現代史専攻の私。コズフカで一番目を奪われたのは館の脇にあった「社会主義リアリズム芸術の展示館」である(松倉氏の原稿参照)。スターリン時代の典型的な、即ち無機的でスターリニストの絵画や彫刻ばかりかと思いきや、私が修士論文で論じたヴワディスワフ・ゴムウカWladyslaw Gomulka(スターリン主義時代のポーランド=1948-56でパージされていた政治家)の肖像画もある。タデウシュ・コシチュウシコ製鉄所でショパンの曲をピアノで演奏する場面の絵もある。また、1956年以後の作品もある。松本氏に尋ねると「コシチュウシコやショパンは社会主義時代でも別格でしょ。ビエルト等のポーランドのスターリニストが失脚しても直ちに芸術の潮流が変わるわけでもないし…。」との回答。シュラフタの館でも目についたのは第二次大戦末期に赤軍に関するプレートや、ゴムウカと対決したカトリック教会枢機卿ステファン・ヴィシンスキStefan Wyszynskiのプレートであった。やはりシュラフタ文化とは縁のない私であった。



8月21日(水)

 ルブリン舞踏団を訪問し交流する。8歳の少年少女、そして17歳と15歳の少年少女による踊りを見る。衣装も美しいが彼らの容姿もまた麗しい。上手く踊る事ができず、監督に注意され、困惑の表情を浮かべる8歳の少年が痛々しい。17歳の少年はトム・クルーズに似た美男子。一行が感心したのはコスチュウムを身につけた吉田藤作氏のスリムな体型である。皆の羨望の眼差し(・_・ )。実技指導を受ける段になり、私は15歳のアシカのパートナーとなった。「この踊りは映画『パン・タデウシュ物語』で観たよ。」「どこで?」「日本で観た。」「本当に?」という会話を交わす。「似合いのカップルだったわよ!」という一行女性陣のお世辞よりも「親子みたいだったよ!」という某氏の辛口批評の方が正解かも知れない、悔しいけれど…。楽屋裏を覗いた折に見た、着替え終わった彼らの姿・表情は日本の小学生・高校生と同じであった。8歳の少年が携帯電話を使っていたのには驚いたが(えっ、日本でも珍しくない?失礼しました、私、携帯不携帯主義者なもんで)…。



8月22日(木)

 前夜、宿泊したワィンツートのシュラフタの館を見学した。シュラフタの館宿泊こそ、本旅行最大の目的であった。が…、ホテルとしては、施設の古さが目についた。ゴージャスなお部屋には、それに相応しい宮本さん母娘が宿泊。ワィンツート訪問についてはポーランド在住9年の平田会員(拙稿「BydgoszczとTorunの間」参照)も「ポーランド人でも余り行かないようなところに行くんですねぇ」と感心していた。



8月23日(金)

 前夜からクラクフのホテル・ロイヤルに宿泊。同ホテルは12年前、ポーランド資料センターの研修ツァーに同行した時も泊まった。「もっとクラシックな雰囲気の建物であったような気が…?」と思ったら、一行が今回泊まったのは新館であった。同ホテルで本旅行初の一人部屋になり、静かな夜を過ごす。因みにそれまでは藤井先生と同室(?)。

 この日、やはり12年ぶりにアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)を再訪した。夏休み中とあって学生グループを何組も見る。我々の英語ガイドに同行していたアメリカ人旅行者が焼却炉(勿論、遺体を焼くためのもの)で記念撮影していたが、その神経が私には分からない。

 また、単独行動で日本美術技術センター(マンガ)も7年ぶりで訪れた。以前『ヴィスワ』で「浮世絵とハイテク機器を展示した同館はステレオタイプの日本イメージを表している」と書いた(拙稿「ポロニクム参加体験記」参照)。今回、中央部の展示場はハイテク機器でなく、ポーランドのカリカチュア(風刺戯画)であった。学芸員に確認すると周辺部は常設展示(浮世絵)、中央部は特別展で1か月程の周期で内容が変わり、必ずしも日本関係の展示とは限らないとの事。そうだったのか、納得。

 同夜、一行は旧市街で晩餐会。6月1日と8月3日、旅行説明会に2回とも遅刻した私は参加者の自己紹介時に不在であった。それ故、旅行の折り返し点になっても余り接点のなかった方々(特に中島氏のグループ)の顔と名前が一致しなかった私も晩餐会での自己紹介で漸く参加者全員の顔と名前が一致するようになった(職業柄、人の顔と名前は常人よりも覚えはいいと思う)。



8月24日(土)

 先ずはチェーンストホヴァを訪問。日本の通勤ラッシュ並みの人混みで一同に緊張感が走る(ほんまかいな?)。私は膝の悪い塚本会員のそばにいたが、黒いマドンナの人混みに2名呑み込まれた模様。石井会員と共に救出に向うが、事なきを得た。

一行にとって、否、関西センターにとって最大のイヴェント、ウッチのポ日協会との交流並びにホームステイの日でもある。ここに至るまでの経緯、当日の詳しい様子は吉田勝一氏の原稿を参照して頂きたい。因みに、恥ずかしながら私、雅楽演奏を生で聴くのは初体験であった。交流会後は後藤さんと共にマグダさん・ウカシュくん母子宅に宿泊。1年分のポーランド語(しかも怪しげなポーランド語)を2時間ほどで喋ってしまったような気がする。



8月25日(日)

 ホームステイの高揚感から抜け切らぬ一行はニエボルフのシュラフタの館やジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生家を軽〜く流した(ように私には見えた)。ワルシャワに戻り、ゲットー跡を訪ねる。1970年、この顕彰碑前で当時の西ドイツ首相ヴィリー・ブラントWilly Brandtが跪き、献花した姿は印象的であった。昨夏、ワルシャワのゲーテ・インスティチュートで入手した雑誌”DIALOG”の表紙もその写真であった。松本氏から「それが君の専門であるゴムウカの最後の仕事だったんだよ」と聞かされ、「そうだったなぁ」と妙に感慨深くなる私。しかも、ブラントが跪いた、32年前のそこに松本氏もいたそうである。「へぇ〜っ!!」1966年以来36年間ポーランドに在住された松本氏が同時にポーランド現代史の生き証人でもある事に今更ながら驚く私であった(やっぱり現代史の話になってしまう)。

 同夜、旧市街のレストランで行われた有志による(と言っても旅行参加者の大部分)大騒ぎに、幸か不幸か私は参加しなかった。



8月26日(月)

 一行と離れ、1日単独行動をとる。どんな行動かは本号の拙稿から類推できよう。

またもや藤井先生と同室であったので我々の部屋が有志による最後の飲み会会場となる。いちいち書いていないが、旅行中、外で、部屋でと、結構のんだ。特にKGグループと。彼ら彼女らの学問に対する青年のような(おっと、実年齢で青年期の方も…、失礼!)姿勢も尊敬に値するが、その酒豪ぶりにも敬意を表したくなる。当日、何時まで飲んでいたか私は記憶がない。2時までは飲んでいたよう気が。当然の報いとして翌日は…。



8月27日(火)

 一日中、二日酔い(@_@)!!気分最悪のまま機上の人となる。機内食と酒を全く口にしなかったのは初めての事である。因みに多少快方に向った頃、機内で観た映画『モンテ・クリスト伯』(日本でも近々公開予定)の主演女優がポーランド出身の新進女優ダグマーラ・ドミンスクである事を帰国後知った。



結論

 藤井先生が『ワルシャワ・リビングガイド』で1994年度のご自身の留学について「家族同伴で研究上の制約はあったが、それ故に見えてきたポーランドがある」という内容のコラムを書かれていた。今まで私がポーランドでしてきた事と言えば、本屋巡りと図書館・映画館通いだけ。日本でも全部外食の一人暮らしゆえに物価については全く無頓着で、物価の指標としてマクドナルドくらいしか思いつかない私。同様にポーランドの物価も安食堂の料金・書籍価格・映画館入場料くらいしか知らない。そんな私は、あちこちのお店に入っては「日本と比べ、物価が高いの、安いの…。」と評され、様々な物を買われる女性陣のお姿にはカルチャーショックを受けた。「私より遙かにポーランド経済に貢献されているなぁ…。」勿論、藤井先生程ではないにせよ、私も今回の旅行で今まで見ていなかったものを見る事が出来たように思う。感謝。


(日ポ協会関西センター『WISLA』第28号 2002年10月31日発行)