ワルシャワへの道(4)

―ヤスナ通り22番:1943年9月2日,ヤン・クラシツキの死―

渡辺克義





 ヤスナ通りはワルシャワのほぼ中央を,マルシャウコフスカ通りと平行するように南北に走っています。しかし,規模は大きくありません。通りは1757年に作られましたが, 当時は4家屋があるに過ぎませんでした。通りの両側には公園が広がっており,このため1770年にこの名(jasna −「明るい」「澄んだ」の意)が付けられたのでした。1901年にコズウォフスキ (K. Kozlowski) 設計のもとフィルハーモニーが建設されました。しかし,フィルハーモニーは1939年に焼失し,1944年には通りは瓦礫の山と化しました。 今日のフィルハーモニーは1953−55年にシュパルコフスキ (E. Szparkowski) 設計に基づき復興されたものです。

 ヤスナ通り22番には次のような記念碑があります。

 抵抗運動に参加し,ついにはナチの凶弾に斃れたクラシツキとはいかなる人物だったのでしょうか。

 ヤン(ヤネクは愛称)・クラシツキ (Jan Krasicki) は, スロヴァキア国境近くのリマノヴァ (Limanowa) で, 父フルィデルィク, 母マリアを両親とする3人兄弟の長男として1919年9月18日に生まれました。1937年10月ワルシャワ大学法学部に入学しましたが,右翼学生が起こした騒動により授業のない日が数ヵ月にわたって続いていました。クラシツキはこの間もワルシャワに残っていました。間もなく社会主義青年団≪生活≫(Organizacja Mlodziezy Socjalistycznej ≪Zycie≫) に参加します。同組織は,講義の幾つかでユダヤ人にたいし特別の一角(指定席)を設けることに反対していました。クラシツキは第2次大戦前半期の大半をソ連で過ごしましたが,1942年5月19日にポーランドに戻り, 労働者党ワルシャワ委員会に加わりました。 彼はポーランド人コムニストの中にあって卓越した活動歴を持ちますが, 労働者党中央委員会のメンバーになったことはありませんでした。1943年1月に 労働者党主導下に「青年闘争同盟」(Zwiazek Walki Mlodych) が発足すると幹部の一人としてこれに参加。同年3月19日に初代委員長ハンナ・サヴィツカ (Hanna Sawicka)が亡くなると同盟のトップに立ちました。同盟機関誌『青年闘争』(Walka Mlodych) の編集のほか,若年層にたいする政治思想・軍事教育で大きく貢献しています。1943年8月末はクラシツキにとって多忙な日々でした。印刷所が移転したため,『青年闘争』の刊行が遅れていました。しかし,1ヵ月振りに出る号もようやく完成に遭ぎ着けようとしていました。

 9月1日,同盟プラガ支部長のニナ・シュトゥチィンスカ(Nina Sztuczyska)はクラシツキに会っていますが, その時の模様を次のように回想しています。  「急用」とは人民防衛軍(人民軍の前身)ワルシャワ地区司令官フランチシェク・クシェンジャルチク(Franciszek Ksiezarczyk)らとの会合のことでした。

 日が暮れ夜間外出禁止令が敷かれる時間になりました。クラシツキはZWMワルシャワ地区突撃隊司令官ミロスワフ・クライェフスキ(Miroslaw Krajewski)宅に身を寄せました。ゲシュタポは以前からクライェフスキを追跡していましたが,9月2日未明ついに彼の逮捕に踏み込みました。本人は不在でしたが,代わりにクラシツキが捕らえられました。クライェフスキの母スタニスワヴァは,自分が経営するクリーニング店の客であると主張しましたがむだでした。当時ヤスナ通りには往来はなく,人込みに紛れて逃走することは不可能でした。クラシツキはゲシュタポから逃れようと懸命の努力をしました。ゲシュタポによる逮捕は死を意味していたため,残されたわずかな可能性にかけたのでしょう。しかし,最後は銃弾を浴び,アスファルトの道に顔面から崩れていったのです。享年23。





(日ポ協会関西センター『WISLA』第25号 2001年6月30日発行)