ワルシャワへの道(3)

―スウォミィンスキ通り4番:1944年8月19−22日,グダィンスク駅攻防戦―

渡辺克義





 ワルシャワでジグムント・スウォミィンスキ通り (ul. Zygmunta Slominskiego) はシルドミェシチェ (Srodmiescie) とジョリボシュ (Zoliborz) の境界線の一部を成しています。この通りは, 1959年にヴィスワ川にグダィンスク橋 (most Gda?ski) が架けられたのに伴い, それに続く左岸部の道路として整備されました。そのころの名称はマリアン・ブチェク通り (ul. Mariana Buczka) でした。 ブチェク (1896−1939) はポーランド社会党 (PPS) の活動家でしたが, 1939年の九月戦役において首都近郊のオジャルフ(Ozarow) で戦死しました。通りは1991年から現在の名称になりました。スウォミィンスキ (1879−1943) は1927−34年にワルシャワ市長を務めた人物ですが,1943年2月12日にワルシャワ近郊のステファヌフ (Stefanow) でドイツ軍に銃殺されています。

 スウォミィンスキ通り4番 − ここにはグダィンスク駅 (dworzec kolejowy Warszawa Gdanska) があります。 一般の旅行者にはまったく縁のない駅でしょう。 それどころか,多くのワルシャワ市民にとっても。実は拙文の筆者も何度も駅の前を通っているのですが,利用したことはまだ一度もありません。駅の起源は1877年まで溯ることができます。かつては国際列車の停車駅として利用されていましたが,現在では貨物列車が通過する駅になっています。数は多くありませんが,近郊の小都市との間を行き来する各駅停車もここを通ります。往年を知る人からすると,すっかり寂れてしまったとの印象は禁じ得ないでしょう。

 1944年8月19−22日,ワルシャワ蜂起のその後の趨勢に少なからぬ影響を及ぼしたグダィンスク駅攻防戦が展開されました。蜂起ではポーランド側が優勢な地が孤立化する傾向にありました。ジョリボシュとスタレ=ミャスト (Stare Miasto) の間では,ドイツ軍がグダィンスク駅を中心に線路沿いに駐留し,鉄条網を巡らし,コンクリート塀により守備を固めていました。さらにその周辺が火器で武装され,東と北西には砲兵中隊も配置されていました。

 蜂起軍は南北両方向からグダィンスク駅を挟撃する作戦を立案し,8月19日深夜(20日未明)に実行に移しています。しかし,ドイツ軍が直ちに防衛を強化したためにポーランド側の作戦は成功していません。

 8月21日深夜 (22日未明),蜂起軍は19日深夜とほぼ同様の作戦に出ましたが,またしても計画通りには事が運びませんでした。まず,ジョリボシュの蜂起軍が攻撃を開始しましたが,ドイツ軍の反撃を前にしてことごとく失敗に終わりました。スタレ=ミャストからの蜂起軍の攻撃はジョリボシュからの攻撃が終わってから開始されています。したがって,これらの近辺のドイツ軍は全部隊をスタレ=ミャストに向けることができたのです。

 グダィンスク駅攻防戦でポーランド側は甚大な被害を出しました。約500人が亡くなったと考えられています。

 グダィンスク駅攻防戦の結果,ジョリボシュとスタレ=ミャストの連係は不可能となり,ドイツ軍によるスタレ=ミャストの包囲は決定的となったのです。




グダィンスク駅攻防戦 (1944年8月21-22日)
[出典:Antoni Przygonski, Powstanie warszawskie w sierpniu 1944 r., t. 2, Warszawa 1980, s. 216]


(日ポ協会関西センター『WISLA』第24号 2000年12月発行)