ワルシャワの道(2)
―ヂェルナ通り72番:1944年8月1―2日,国内軍司令部の苦悩―
渡辺克義
ワルシャワ左岸中央部からやや北に行くと、アンデルス将軍通り(ul.gen Wladyslawa Andersa)やヤン・パヴェウU世通り(ul. Jana Palwa II)と交差し東西に走る、全長2キロほどのヂェルナ通り(ul. Dzielna)という通りがあります。サスキ公園(Ogrod Saski)の近くに短いですが、ジェルナ通り(ul. Zielna)という通りがあります。日本人の耳にはほとんど同じように響く2つの名ですので、タクシーなどを利用する場合には注意が必要です。「ヂェルナ通り」とはどういう意味なのでしょうか。dzielnyという形容詞がありますから、「勇敢な通り」? 実はこの通りを境に旧ワルシャワ(Stara Warszawa)と新ワルシャワ(Nowa Warszawa)が分けられていたために、この名(dzielic「分ける」という動詞があります)が定着し、1770年には正式に登録されるに至ったのです。
百年後の1870年頃から4・5階建ての石造住宅が建つようになり、1890―96年には聖アウグスティン教会(kosciol sw. Augustyna)も建てられました。第2次大戦ではゲットー内部に入り、1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起の時に通りの家屋は完全に破壊されました。翌44年8月1日、ワルシャワ蜂起が起こった時、ヂェルナ通り72番の家具工場には国内軍総司令部が置かれていました。当時この周辺には強力なドイツ軍がなく、ワルシャワで最も安全性が高い地域と考えられていたことが、所在地選定理由の一つになっていました。
8月1日21時半頃、国内軍総司令部はロンドン亡命政府宛に次の電文を起草しています。
1. 8月1日17時、我々はワルシャワで戦闘を開始した。次の地点に直ちに武器・弾薬の投下を願う。…
2. ワルシャワ戦の開始に伴い、ソ連が即時攻撃という形で我々を救援するよう要請する。
実際には、この電報は8月1日には発信されていません。総司令部の無線装置が機能しなかったからです。何があったのでしょうか。
ヂェルナ通りにはドイツ鉄道警察の倉庫もありました。彼らが8月1日16時過ぎに資材を取りにやって来た時に、総司令部の護衛部隊と争いになりました。この時にポーランド側は無線装置を損傷していたのです。
夕刻になっても国内軍総司令部は蜂起開始後のワルシャワの全般的状況について把握していませんでした。周囲の状況から、(1)蜂起はおおむね予定時刻の17時に開始された、(2)市庁舎、ポーランド貯蓄銀行(PKO)などの重要建造物はポーランド側が押さえた(屋上にポーランド国旗が掲げられていました)、ことは分かっていました。
ロンドンに報告できなかったことから、国内軍総司令部では苛立ちが募っていました。結局、ロンドンとの無線連絡の回復には8月2日未明まで待たなければならなかったのです。国内軍総司令官であったコモロフスキ中将は回顧録でこう記しています。
- 無線は我々がせかせども呪文でもかけられたかのように黙り続けていた。障害を取り除こうと、技師達が作業に当たっていた。しかし、どうにもならなかった。ワルシャワで戦闘が勃発した旨を伝える電報を送信することができなかった。(中略)夜、我々の無線技師たちは、修理には部品がいくつか欠けていると報告してきた。500メートルほど先の小路に無線装置を作っている地下工房があるとのことだった。そこで必要な部品が入手できるというのだ。しかし、そこに到達することは容易ではなく、危険な試みであった。二人が派遣された。朝まで待ったが、二人とも戻って来なかった。あとで分かったことだが、二人は殺されていたのである。未明に、工房に行くと志願する者が現れた。(中略)今度は30分もしないうちに、必要な部品を携えて、兵士が意気揚々と戻ってきた。8月2日未明、ついに我々はロンドンと結ばれ、第一報を打電できたのであった。
以上からも、蜂起緒戦での国内軍総司令部の緊張と不安、そしてその後の安堵感を伺い知ることができるでしょう。

(『WISLA』第23号 2000年6月30日発行)