ワルシャワの道(1)
ドウゥガ通り52番:1943年3月26日、"メキシコU"作戦
渡辺克義
ドウゥガ通り(ul. Dluga)は,フレタ通り(ul. Freta)とアンデルス将軍通り (ul. gen. Wl.Andersa)とを結ぶ500メートル足らずの通りであるが、かつてはヴィスワ川を経てワルシャワの中央部を横断する長大な通りであった。「ドウゥガ」("長い"の意)の名称もまさにこのことに由来する。フレタ通りとミョドヴァ通り(ul. Miodowa)に挟まれるドウゥガ通りの一画では15世紀以来市場が開かれ賑わっていたが、この頃、木造家屋や庭園がこの地に現れ始めた。1655-57年のスウェーデン人襲来 (ポーランド史上、「大洪水」(Potop)の名で知られる)の際に街路はほぼ完全に破壊されたが、 同世紀後半、宮殿、修道院、ホテル、倉庫などが建てられ、商業地として再興した。 18・19世紀には名家の宮殿の建築・改築が相次ぎ、通りは荘厳さも兼備するようになった。ワルシャワ蜂起(1944年)では激戦地となり、国内軍(Armia Krajowa) の"フロブルィI"大隊(Batalion Chrobry I") から多数の犠牲者を出した。蜂起でスタレ・ミャスト(Stare Miast)が陥落すると、ドウゥガ通りにあった野戦病院でドイツ軍は少なくとも400人の負傷者を殺害している。1950年以降、建造物の再建が始まった。ドウゥガ通りには今日研究所が多くある。
ところで、ドウゥガ通り52番には、1959年以降「国立考古学博物館」(Panstwowe Muzeum Archeologiczne)として利用されている"武器庫"(Arsena )と呼ばれる建物がある。建物が実際に、パヴェウ・グロヂツキ(Pawel Grodzicki)の設計に基づき1638-43年に建てられた、砲撃隊の武器庫であったことに由来する。ここに保管されていた武器は、コシチュシュコ蜂起(Powstanie Kosciuszkowskie, 1794)や11月蜂起(Powstanie Listopadowe, 1830-31) で少なからず利用された. 1832-35年には刑務所用に改築された。1943年3月26日、この"武器庫"脇で、今日なおポーランド人の語り草となっているある事件が発生した。
同年3月22日深夜、抵抗運動に従事していた若手活動家の一人のヤン・ブィトナル(Jan Bytnar, 隠密名"赤毛"(Rudy)) が、 自宅のあるニェポドレグウォシチ通り(al. Niepodleglosci)159番でゲシュタポに逮捕された。これに対し、彼の友人で上司でもあったタデウシュ・ザヴァツキ(Tadeusz Zawadzki, 隠密名"ゾシカ" (Zoska))はブィトナル救出作戦(コードネーム・"メキシコII"(Meksyk II);当初、作戦は3月23日午後5時に決行されることになっていたが、連絡ミスから中止された。こちらがコードネーム・"メキシコI" 作戦)を実行することを決めた。
ゲシュタポに捕らえられていたブィトナルはパヴィャク刑務所(Pawiak)に収監されていたが,聴取のため3月26日午後ゲシュタポのワルシャワ地区本部があるシュフ通り(al. J. Szucha) に移送される旨、パヴィャクで囚人の看護に当たっていたヘレナ・ダニェレヴィチ(Helena Danielewicz)から連絡が入った。午後5時半過ぎ、パヴィャクへ向かう護送車がザヴァツキらに襲撃された。この事件でポーランド側はブィトナルを含め25人を救出したが、死者3名を出した。この中には、前年2月にコペルニクスの銅像から、この天文学者がドイツ人であると記したプレートを勇敢にも取り外したことで"コペルニツキ" (Kopernicki)の隠密名を得ていたマチェイ・ダヴィドフスキ(Maciej Dawidowski)も含まれていた。ブィトナルも1943年3月30日に、聴取の際に受けた暴行が原因で亡くなった。"メキシコII" 作戦でドイツ軍は死者3名負傷者9名を出した。ドイツ側は報復として、3月27日、パヴィャクに囚監されていた140人を射殺した。"メキシコII"作戦は、占領下のワルシャワでポーランド地下組織が初めて公然とドイツ人に銃口を向けた事件として注目される。
事件後、聴取の際ブィトナルに暴行を加えたゲシュタポ2名(ヘルベルト・シュルツ(Herbert Schultz)上級小隊指揮官、エーヴァルト・ランゲ(Ewald Lange)伍長)が 特定された。前者はザヴァツキにより1943年5月6日に、後者はアンヂェイ・グラル (Andrzej Goral,隠密名"トマシュ" (Tomasz)) により同年5月22日に射殺された。
"メキシコII"作戦が今日も一般のポーランド人に語り継がれていることは、次の新聞記事(Zycie Warszawy, 29 III 1993 r.)からも伺える。
スカウト大会
[注:1971年以来実施 − K.W.]
"武器庫"事件(…)50周年記念、
首都で3日間行われる
金曜日から日曜日まで[注:3月26日から28日まで−K.W.]の"武器庫1993年"と題する第23回スカウト大会に、ポーランド各地から2千人を超えるスカウトが参集した。今年の大会は、"武器庫"作戦から50年ということもあり、特に盛大に行われた。(…) 記念式典は"武器庫"脇で鼓笛隊の演奏で幕を開けた。ここには、作戦を指揮したスタニスワフ・ブロニェフスキ Stanislaw Broniewski (隠密名"オルシャ"Orsza)も招かれた。若手スカウト達は3日間数度にわたって、生き残った事件の当事者から、救出作戦がいかに行なわれたかについて聞く機会を得た。
主要参考文献
Stanislaw Broniewski, Akcja pod Arsenalem, wyd. II, Warszawa 1983.
Tomasz Strzembosz, Akcje zbrojne podziemnej Warszawy 1939-1944, Warszawa 1978.
出典: Stanislaf Kopf, Lata Okupacjii. Kronika Fotograficzna walczacej Warszawy, Warszawa 1989, s.326
(わたなべ かつよし 日本ポーランド協会関西センター会報『WISLA』 第22号 1999.12.20)
