ポーランド関連映画特集
渡辺克義
本稿では「戦場のピアニスト」の映像にとらわれず、原作と史実との比較検討を試みたい。映像・原作・史実間のズレについては別の機会に改めて取り上げたいと思う。以下、『ザ・ピアニスト』(佐藤泰一訳,春秋社,2000)[英語を通した重訳]; The Pianist:The Exrtraordinary Story of One Man’s
Survival in Warsaw, 1939-1945, trans. by A. Bell, London, 1999; Pianista,
Warszawskie wspomnienia 1939-1945, Kraków 2002, をそれぞれ『ピアニスト』,The Pianist, Pianista, と略記し記述を進める.

ワルシャワ蜂起(1944年8月1日―10月2日)の時、シュピルマンは首府のニェポドレグウォシチ(独立)通り(al. Niepodległości)にいた。この通りはモコトゥフ地区を南北に結ぶ幹線として1930年代前半に計画され、ステファン・スタジンスキ(Stefan Starzyński)の市長在任中(1935―39年)に完成した通りである。今日の名称は1935年以来続く。
ところで、aleja(複数主格・aleje)は「大通り」、ulicaは「通り」と訳されることが多いが、必ずしも通りの実態を正確に反映していない。たとえば、ワルシャワのプワフスカ通り(ul. Puławska)は12キロを越す長大な通りであり、ニェポドレグウォシチ通りよりもスケールが大きい。そこで、本稿では aleja も「通り」と訳すことにする。なお、aleja は単数形で用いる時には小文字で、複数で用いる時には大文字で書き始めることになっている(por. Aleje Jerozolimskie, Aleje
Ujazdowskie; aleja Racławicka, aleja Solidarności).単複の違いは通りごとに決まっている。
シュピルマンはニェポドレグウォシチ通りのどのあたりに匿われていたのであろうか。センヂョフスカ通り(ul. Sędziowska)が見渡せたとある(『ピアニスト』183頁; The Pianist, p. 157; Pianista, s. 148)ことから、ニェポドレグウォシチ通りの西側であったことは確実である。しかも、工科大学の方から来る路面電車を見ている(『ピアニスト』177頁; The Pianist, p. 151; Pianista, s. 143)ことから、“8月6日通り” (ul. 6 Sierpnia)(現,ノヴォヴィェイスカ通り(ul. Nowowiejska))との交差点のすぐそばであろう。
8月2日の状況についてシュピルマンは、「スタシック団地の平屋建ての複合住宅は給水所のところまで炎が迫っていた」(『ピアニスト』181頁)と記している。該当箇所をオリジナルと英訳で確認してみる。
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Całe osiedle piętrowych domków kolonii Staszica, aż do
Filtrów, stało się w ogniu. (s. 141) The whole
residential complex of bungalows on the Staszic estate, right up to the
waterworks, was in flames. (p. 155) |
以上からも明らかなように、スタシツ街がすでに火に包まれていたというのが実際の記述である。スタシツ街とは、アントニ・ディガト(Antoni Dygat)らの設計に基づき1922―26年にヴァヴェルスカ通り(ul. Wawelska)、センヂョフスカ通り、“8月6日通り”、スハ通り(ul. Sucha)[現、クシヴィツキ通り(ul. L. Krzywickiego)]で囲まれる一帯に建設された高級住宅街である。ここには、2階建て以上のつくりの高級邸宅が100あまり並んでいた。
スタシツ街からの住民の強制移住は蜂起開始直後に始まっている。住民は、スハ通りとヴァヴェルスカ通りの角にあった建物に集められた。ただし、フィルトロヴァ通り(ul. Filtrowa)に住んでいたマリア・サスカ(Maria Saska)の証言によれば、彼女が立ち退きを命じられたのは8月12日のことである(Ludność cywilna w powstaniu
warszawskim, t. 1’, wybrali i opracowali M. M. Drozdowski i in., Warszawa 1974, s.
228)。スタシツ街は狭い空間であるが、被害状況は多様であったと見るべきであろう。
シュピルマンはこう続けている。「何日間かが過ぎた。(…)ランギエヴィッツ通りでは、ウクライナ軍が建物の中にいる住民を焼き殺したり、別の棟の住民を射殺したりした。有名な俳優、マリウス・ムシンスキがこの地域のすぐ近くで殺された」(『ピアニスト』182−183頁)。この箇所もオリジナルと英訳を見てみよう。
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Mijały dni. (…) W jednym z domów na Langiewicza Ukraińcy
spalili mieszkańców żywcem, w
innym wszystkich zastrzelili, zaś w pobliżu zamordowano znanego aktora
Mariusza Maszyńskiego. (s. 147) The days passed by. (…) In Langiewicz Street, Ukrainians let the
inhabitants of a building burn to death in its flames, and they shot the
occupants of another block of flats. The famous actor Mariusz Mszynski (sic!)
was murdered quite close to this area. (p. 155) |
ここで言う「ウクライナ人」とは、ドイツ援軍として8月4日にワルシャワに到着したRONAを指す。RONAとは、Русская
освободительная народная армия (ロシア民族解放軍)の略称であるが、実際にはドイツに従軍するアゼルバイジャン人、トゥルクメン人、タタール人、ウクライナ人などから成っていた。彼らの関心が戦闘よりも、掠奪や強姦などに向いていたことは有名である。ランギェヴィチ通りでの殺害とは、8月6日に同通り11 / 13番地(一般家屋が病院として利用されていた)でポーランド側負傷兵5人が殺された事件を指す。RONAは手榴弾を投げ込んだ後、建物を放火したのであった。マリウシュ・マシンスキは同じ8月6日にイェショノヴァ通り(ul. Jesionowa)3番地の邸宅から妻らとともに追い出され、殺害されている。
シュピルマンがマシンスキ殺害について知った正確な日時は不明である。いずれにしても、8月7日に彼がいたところからほど近くであった事件について、回顧録ではなにも記述がない。それは、ニェポドレグウォシチ通り210番地であった殺戮(ポーランド人56名が射殺された)と同221番地であった殺戮(住民約50人が死亡。子供多数)である。したがって、シュピルマンが他者との接触をなくしたのは、8月7日前後と考えられる。
シュピルマンによると、8月11日、ニェポドレグウォシチ通りはチラシで埋まっていたという。彼は、誰が何のためにやったのかを知らない(『ピアニスト』182―183頁; The Pianist, p. 156; Pianista,
s. 148)。拙文の筆者はこの件を特定しようと努めたが、現段階では真相は不明である。考えられるケースとして、次の2つが挙げられるであろう(それ以外の可能性もあろうが)。(1)ポーランド側が士気の高揚を狙ったビラなどをまき、蜂起の継続を訴えた。(2)ドイツ側が蜂起の即時停止をポーランド側に求めるようなビラをまいた。可能性としては、(2)の方が高いだろう。オリジナルでは、ビラが航空機からまかれた(Ulice tego dnia zasypane były ulotkami
zrzuconychmi z samolotow, ale z czyich?)とあるからである(Pianista, s. 148)。(1)に関連するものとして、有名な「一発でドイツ人一人を」(Każdy pocisk jeden Niemiec)というポスター(ヴィトルト・フミェレフスキ(Witold Chmielewski)作)が8月半ば頃に市中に現れていることを指摘しておきたい。これは、ポーランド側に武器・弾薬不足が顕著であったことを示すものとして注目に値しよう。シュピルマンが言うチラシとはこの類だったのかもしれない。(2)については、日時は少しずれるが、国内軍総司令官であったタデウシュ・ブル=コモロフスキの回顧録(Tadeusz Bor-Komorowski, Armia
podziemna, wyd. 3, Londyn 1967, s. 234-235)からの次の一節を紹介しておきたい。
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8月4日だった。ドイツ軍は街にビラをまいた。私の署名のある声明という形をとっており、兵士と市民にたいし(…)戦闘を中止し、武器を置き自宅に戻るように呼びかけていた。(…)しかし、5年に及ぶ占領は市民のうちにすばやい本能を呼び起こし、騙すのは難しくなっていた。(…)ドイツ側が作成した偽のビラは幼稚なものであり、その意図するところを見破るのは簡単であった。 |
8月12日は、シュピルマンが死を覚悟し、睡眠薬まで飲み自殺を図った日である(『ピアニスト』186頁; The Pianist, p. 159; Pianista, s. 150)。拙文の筆者はこの日彼の周辺で何が起こったのか、各種文献に当たってみたが、詳細を記したものを見出せなかった。ただ言えるのは、この日がスタシツ街の住民が最終的に強制移住を求められた日であることである(既述)。8月12日の混乱はこれに伴うものではなかろうか。
8月13―30日、シュピルマンはそれまでの住居ではなく、ニェポドレグウォシチ通りの向かいの病院にいた(『ピアニスト』189-192頁; The Pianist, p. 162-164; Pianista,
s. 152-155)。この病院とは「ピウスツキ病院」(Szpital im. J. Piłsudskiego)である。現在、同病院は精神科の「ノヴォヴィェイスキ病院」(Szpital Nowowiejski)としてノヴォヴィェイスカ通り27番地にある。
シュピルマンはこのあと再び以前いた建物に戻る。そこで蜂起が終わるまでどう過ごしたか、彼はもう多くを記していない。ただ。次の記述(『ピアニスト』193頁)には注意を払いたい。
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9月18日には、空軍の飛行中隊が市の上空を飛び、パラシュートで反乱軍に補給を行なった。パラシュートで降りてきたのが人間なのか、軍事物資なのかはわからなかったが。 |
期待された空輸であったが、得るところはいくらもなかった。当時すでにポーランド側が押さえている地が極めて限定されたものであったことから、飛行士が指定された場所に物資を的確に投下できなかったのである。9月18日の空輸は蜂起の間に実施された最後にして最大のものであったが、発進された110機のうち空中投下を行えたのは107機あったが、ポーランド側の手中に落ちたのはわずかに15機からのものにすぎなかった。
ポーランド側が受けた精神的打撃について、ブル=コモロフスキはこう記している(Bór-Komorowski, op. cit.,
s. 331)。
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つい先ほどまで空を見上げて喜びに胸震えていた大衆は、航空機が飛び去って行くのを見て、悲しみのあまり頭を垂れ、地下室や防空壕に引き下がっていった。もし空輸が早期に実現されていたならば、投下物の大半を手にすることができたはずである。 実際、最初の数週間のうちに実現されていれば、当時我々が市の3分の2を掌握していたのだから、何千という物資を手にできたはずである。 |
シュピルマンは蜂起終結後もなおワルシャワに残り、赤軍が同市に入る翌1月まで身を隠していた。この間にあのホーゼンフェルト大尉との出遭いがあった。
シュピルマンは大戦下の未曾有の試練の中で幾多の幸運に恵まれた。ワルシャワ蜂起の時彼がいた場所およびその近郊でも確かに戦闘はあったが、それはワルシャワ中で最も“穏やかな”ものであった。映画「地下水道」でも明らかなように、他の地区の部隊は中央への部隊への合流を考えたほどである。市中央部は最後まで陥落しなかったのである。ともあれ、彼が戦後まで命をつなぎ、数多くの名曲を後世に残したことはポーランド人にとって実に幸いなことだったと言えるであろう。

(日ポ協会関西センター『WISLA』第30号 2003年9月31日発行)