ワルシャワの道(6)
―ロマン・サングシュコ通り1番:1944年8月2日,21−28日,PWPW攻防戦―
渡辺克義

「新市街(ノヴェ・ミャスト)」の北の一画に「ロマン・サングシュコ通り」(ul.
Romana Sanguszki) はあります。「コンヴィクトルスカ通り」から「グダィンスク沿岸道」に緩やかに傾斜する、鉤状の数百メートルの短い通りです。この通りがどのような歴史を持つのか筆者は永らく関心を抱いていました。これまでにさまざまな関係史料に当たってきましたが、現段階では詳しいことはわかっていません。1991年に復刻された1893年刊の『我々の曾祖父母の代のワルシャワ ――イラスト入りワルシャワおよびその近郊のガイド――』や,1985年に復刻された1922年刊の『イラスト入りワルシャワ小ガイド』を見る限りでは、サングシュコ通りはまだ存在しておらず、現在のその場所は空き地だったようです。1935年当時のワルシャワの地図にはサングシュコ通りは示されていますが、コンヴィクトルスカ通りにつながる直線状の通りとして描かれています。
通りのパトロンであるロマン・サングシュコは、1800年4月24日,現ウクライナのアントニヌィ (Antoniny) に生まれました。11月蜂起に参加したかどで逮捕され、最初は死刑判決を受けましたが、キエフの軍法会議は減刑の措置をとり、保釈金を払うことで釈放を認めました。しかし、サングシュコは蜂起参加の理由を問われると、「確信から」と返答したために、シベリア流刑に処せられたのです。その後カフカスへも送られましたが、数年後祖国に戻り、スワヴタ(Sławuta)に定住し、同地の経済発展に貢献しました。1881年3月26日、スワヴタにて死去。
現在、サングシュコ通り1番には「有価証券印刷所」(Państwowa
Wytwornia Papierow Wartościowych,略称PWPW) があります。PWPWの歴史は1919年にまで遡ることができますが、当初はイェロゾリムスキェ通りに位置していました。1926−29年,アントニ・ディガト
(Antoni Dygat) の設計による新社屋がサングシュコ通りに建てられました。おそらく、このPWPWの新社屋の建設にともない、コンヴィクトルスカ通りが東側に延長され、今日のサングシュコ通りの基礎が整ったのでしょう。ただし,ユリウシュ・クレシャ著『PWPW小堡塁』(Juliusz Kulesza, Reduta PWPW, Warszawa, 1989) によれば,当初はステファン・オクシェヤ通りという名称だったようです。現在、オクシェヤ通りはプラガ地区にあります(私が留学していた頃は、そこに査証の更新を行う役所の機関がありました)。遅くも1935年までにはサングシュコ通りに改名されているはずですが、筆者の現段階の調査ではその時期を特定できないでいます。PWPWには1938年現在約680名の従業員がいましたが、このうち596名が新社屋に勤務していました。第2次大戦中は、食糧配給券もここで印刷されていました。
PWPW攻防戦はワルシャワ蜂起の中でも最も重要な局面の一つをなしますが、以下でこの事件を見ていくことにしましょう。
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PWPW奪取は蜂起緒戦、シルドミェシチェ北部における最も顕著なポーランド側の成功例です。この建造物はドイツ人憲兵46人により守りが固められていました。1944年8月2日午前11時、ポーランド側の作戦は開始されます。建物の内と外の2方向への作戦が実施されました。内部へは裏の「ヴイトフスカ通り」から梯子を用いて潜入。一方外部へは正面玄関に向けて手投げ弾による攻撃が試みられました。5時間にわたる攻防戦の結果,PWPWは蜂起軍側の制圧下に入りました。
ドイツ側の本格的攻撃は8月下旬に実施されます。21日、ドイツ軍はPWPWに対して爆撃、砲撃のほか無人戦車を用いて破壊活動に出ました。翌22日にはほぼ四方から攻撃しています。26日、ドイツ軍は猛攻に入り、PWPWの主要部分を掌握しました。 一方、蜂起軍は一階部分の防衛を断念し、PWPW東側の高層階に避難しました。27日にはドイツ軍の攻撃は見られませんでしたが、これは最後の一斉攻撃に備えるためでした。28日未明、ドイツ軍は攻撃を再開しますが、これがポーランド側には奇襲戦となってしまいました。このような状況下、PWPWはドイツ軍に完全に押さえられ、蜂起軍の新たな防衛拠点は「コシチェルナ通り」に組織されたのでした。
蜂起軍がほぼ一ヵ月にわたってPWPWを死守したことの戦略意義は大きいものでした。PWPWは蜂起軍の堅固な要塞として機能し、ドイツ軍はこのため「旧市街(スタレ・ミャスト)」への道を阻まれ、同地への効果的な作戦が実行できなかったからです。

(日ポ協会関西センター『WISLA』第27号 2002年6月30日発行)