2001年ポーランドの旅


置村公男





 2001年8月、2〜3年周期の定点観測の意味もあり、ポーランドに半月間滞在した。前回(1998年夏)同様、三部作として報告させていただく。


第一部: ポーランド映画近況報告


 今回も先ずはポーランドにおける映画状況から報告したい。3年前に比べて映画の「国籍」も多様化したような気がする。アメリカ映画やイギリス映画は勿論、フランス映画、スペイン映画、日本映画、そしてポーランド映画も数多く上映されていた。私が観たのは次の5本である(かっこ内は映画館名)。

@W PUSTYNI I W PUSZCZY (FEMINA)
APRZEDWIOSNIE (FEMINA)
BZYCIE JAKO SMIERTELNA CHOROBA PRZENOSZONA DROGA PLCIOWA (CINEMA1)
CSAMOTNIK (CINEMA1)
DPORANEK KOJOTA (ATLANTIC)


 @はシェンキェヴィッチ原作の活劇である。以前、奈良教育大に留学していたカロリーナ・シェブラさんによると、直前に監督がアメリカ人に代わったということで、原作の解釈も独特とのこと。

 Aはロシア革命後の時代を背景とした大河ドラマである。ダニエル・オルブリフスキやクリスティーナ・ヤンタが渋い演技を見せていた。

 Bはザヌーシ監督の作品である。題名から内省的・哲学的な内容ではないかと想像していたが、その通りであった。死を取り上げた作品である。内容理解において、@Aは娯楽性のある映像によってかなり助けられたが、Bはセリフだけが頼りであった。当然、理解度は@Aに比べて低い。

 Cはチェコ映画である。ご承知の通り、チェコ語はポーランド語と非常に似ている。しかし、上映に際してはポーランド語の字幕がつけられる。つまり、チェコ映画をポーランドの映画館で観ることはポーランド語学習上、効果絶大である。さて、この映画は飄々とした主演男優が秀逸であった。ジム・ジャームッシュ監督作品を彷彿とさせる新感覚映画で、若者受けしそうである。欧米のキッチュな若者にはサブカルチャーとして「日本風」が浸透しているのかなと思われる場面が何箇所かあった。「日本人」と漢字で大書されたTシャツを着たDJや他人のプライヴァシーまで踏み込んでビデオ撮影する日本人と彼らに日本語で説明するチェコ人女性はその好例である。

 Dはマチェイ・ストゥール主演のコメディである。マチェイ・ストゥールは名前から分かる通り、名優イエジィ・ストゥールの息子である。若手ながら、父親譲りの演技力で観客を楽しませてくれた。容姿は父親似の(元テニス選手のマッケンローにも似ている)ファニーフェイス風二枚目で、声も似ている。コメディセンスのある(愛嬌のある)二枚目ということで、将来はトム・ハンクスのような役者になるのではないかと私は期待している。

 3年間の変化として二点指摘できよう。第一に映画館事情である。映画の「国籍」の多様化はそれを上映する映画館の多様化を意味する。以前に「ヴィスワ」でも指摘したことがあるが、ワルシャワでは設備の整ったシネマコンプレックスが増えている(2)。Dを上映していたATLANTICもその一つである。対照的なのが、日本でいうミニシアターに当たる映画館である。旧市街広場の1本裏手にあるCINEMA1がその代表であろう。ここではチェコ映画の他にも黒澤明の遺作とも言える『雨上がる』を上映していた。また、私が感動したのが、Bの本編終了後、私以外の客が立ち去る中でも劇場内は明るくならず、エンディングクレジットを最後まで見届けることができたことである。ポーランドの映画館で初めての体験であった。但し、係のおっちゃんからは「はよ出ていけ」と言わんばかりの冷たい視線を浴びせられたが…。

 変化の第二の特徴としては「国民映画」の風潮が一層強くなったことである。「国民映画」というキーワードについては、今まで何度も取り上げてきた(1)。相変わらず”PAN TADEUSZ”もいくつかの劇場で公開されていた。私の観た@Aもポーランド文芸作品・大河ドラマであるから「国民映画」の範疇に入れてよかろう。私は8月27日にポーランドを離れた。後ろ髪を引かれる思いであったことがある。9月14日公開のシェンキェヴィッチ原作・カヴァレロヴィッチ監督の”QUO VADIS?”を観られなかったことである。ちょっとしたシェンキェヴィッチ・ブームのようなものがあった。@が上映されていたことも、その一つであろう。また、文化科学宮殿1階ではシェンキェヴィッチ展が開かれ、彼の生涯・作品・映画化された作品が紹介されていた。ワイダの次回作以降についても話題になっていたことは言うまでもない。この「国民映画」の風潮はポーランドにおける「歴史の見直し」ということと無関係ではなかろう(3)。奇しくも、シェンキェヴィッチ展の隣では「教科書フェアー」が催されていた。勿論、歴史だけではなく、全教科対象であったが、背景に「歴史の見直し」風潮があってのことであろう。

 最後に、ポーランドにおける日本映画紹介の動きについて触れておきたい。日本大使館が中心になって、日本映画上映会が毎年秋に行われている。2000年の上映作品リストは『北京的西瓜』『KAMIKAZE TAXI』『翔んだカップル』『はなれ瞽女おりん』『次郎物語』『異人たちとの夏』『あの夏、いちばん静かな海』『飢餓海峡』『東京上空いらっしゃいませ』『曽根崎心中』『竹山ひとり旅』『東京夜曲』の12作品である。2001年は『HA-NA-BI』『どついたるねん』『無能の人』『シコふんじゃった』『月はどっちに出ている』などである。これらの作品名を見ただけでどのような映画か分かる人は相当な映画通である。つまり、批評家受けするマイナーな作品が多いのである。大手の商業ベースにのった作品ではお金がかかるからかもしれない。スタッフの中に相当映画に詳しい方がいらして、少ない予算の中で、良質の日本映画をポーランド人に紹介すべく腐心された結果が、上記作品群である。

 スタッフの方によると、ポーランドにおける日本映画の認知度は、「KUROSAWA(黒澤)」の知名度だけは抜群である(映画ファンや知日家でない人でも)。しかし、黒澤の名前は知っていても作品を観たことはないという人が大部分である。一方、「OZU(小津安二郎)」「MIZOGUCHI(溝口健二)」といった黒澤と並ぶ日本映画界の巨匠は知名度も低い。但し、ポーランドの西欧志向を反映してか、ヨーロッパの映画祭で受賞歴のある監督(小林正樹・大島渚・今村昌平)の名前は多少知られている。当然、最近の映画ファン・知日家の間で注目されているのは北野武である。2001年の目玉作品が『HA-NA-BI』であることは言うまでもない。

 私の滞在中も『雨上がる』が上映されていたと前述したが、このような日本映画を観るのは日本学科関係者や知日家くらいだそうである。また、上映される日本映画はどうしても時代劇が多くなりがちである。日本映画上映会が上記のような作品になったのも現代の日本社会を知ってもらいたいという思いもあるそうである。

 このような地道な努力が、ポーランド人の日本理解、特に一般のポーランド人の日本理解一助になると同時に、日ポ文化交流の礎になると私は確信している。

《註》
(1) 拙稿「ワイダ、アカデミー特別賞受賞〜『国民映画』『言語文化』『文化的多元主義』私論〜」『ヴィスワ23号』所収。拙稿「第60章 国民映画の現況★映画における言語文化の発露を求めて★」渡辺克義編『ポーランドを知るための60章』明石書店、2001年所収。
(2) 拙稿、「データで見るポーランド映画事情」『ヴィスワ23号』所収。
(3) 拙稿、前掲書所収。


第二部: 歴史になった「連帯」


   ワルシャワ滞在後、グダンスクに移動した。1992年8月にウッチでお世話になったヴァンダ・バルさんが現在、グダンスクにいらして、そこに、またもやご厄介になったのである。彼女は80歳を超えていらっしゃるはずだが、相変わらず元気に一人暮らしをされていた。9年間、彼女は年をとっていないように見えた。一方で私は太り、白髪も増え、外見上の変化は私の方が大きいかもしれない。私の中で変わらないのはポーランド語能力くらいかもしれない。とはいえ、9年前にはヴァンダさんとの会話はドイツ語であったが、今回は拙いながらもポーランド語であった。ヴァンダさんの私に対する接し方も相変わらずであった。頼りない「日本の孫」のために、あれこれ世話を焼いてくれ、叱咤激励すべく、私の頭をなぜる。私は密かにヴァンダさんを「ポーランドの祖母」と呼んでいた。

 グダンスクに来た目的はヴァンダさんに会うことと、もう一つは「連帯」の現状把握である。1990年8月末から9月初旬にかけて、当時のポーランド資料センター関係者と「連帯」創設・政労協定締結10周年を記念した研修旅行に参加したことがある。その時以来のグダンスクであった。その間、「連帯」は大きく変貌した。90年当時、間近に迫った大統領選挙に向けて、「連帯」は親ワレサ派の「中央同盟」と反ワレサ派の「市民運動・民主行動」の分裂・対立が始まった頃であった。その後、ワレサも大統領職を退き、旧統一労働者党の民主左派同盟(SLD)が政権を担うなど、「連帯」を巡る政界地図は随分と様変わりをした。

 先ずは「連帯」発祥の地、グダンスク造船所に行ってみた。90年には既に「グダンスク造船所」と改名していたが、私が最初にグダンスクに来た1988年はまだ「レーニン造船所」であった。造船所内に現在、「連帯」博物館「自由への道(Droga do wolnosci)」がある。1980年の協定締結・翌年の戒厳令布告と「連帯の非合法化」・地下活動時代・「円卓会議」を巡る状況・1989年の選挙とマゾヴィエツキ政権誕生など「連帯」の歴史が屋外にパネル展示されていた。「連帯」の足跡を辿ることが文字通り、ポーランドにおける自由獲得の歴史を振り返ることであると再認識した。

 室内の展示はパソコンで、様々な写真・映像・文書を見ることができた。それらを全て見るのに私は丸1日費やした。研究上、活用できる資料もあり、係りの人にコピーできないか問い合わせたが、残念ながら不可であった。館内の演壇にワレサやヤギェルスキの等身大写真が並べてあるのを見て、私は漸く気がついた。そこは80年8月31日協定が調印された会場で、そこが現在博物館になっていたのである。

 次に「連帯」事務所にアポなしで行ってみた。建物内の中央図書室のフロアを右往左往していたら、男性が声をかけてくれ、事情を説明すると国際局に人を紹介してくれた。情報局の担当者が夏休みで不在のため、代わりに応対してくれた彼は、丁寧に説明し、ビデオや冊子・本を土産代わりに与えてくれた。色々話を聴いたが、とどのつまり「『連帯』はもはや過去の社会運動体としての『連帯』ではなく、文字通りの一労働組合でしかない」ということであった。頂戴したお土産もはるばる日本から来た珍客を手ぶらで帰すのも悪かろうということで、何かないかと探し出したものである。土産が埃を被っていたことがその証拠である。因みに国際局の彼はスカンディナヴィア地域担当のビジネスマンであった。

 「連帯」事務所を後にする時、話を聴けて嬉しくもあり、「連帯」の実情を今更ながら思い知らされて、寂しくもあった。そのような複雑な思いで街中を徘徊し、気がついた。ワルシャワでもグダンスクでも例によって本屋巡りをしていたが、「連帯」関係の本が3年前に比べて断然増えていることである。2000年が「連帯」創設20周年、2001年が戒厳令布告20周年ということもあり、学術書専門店では多くの「連帯」関係の本を手に取った。改めて20年の時の流れを感じ、テレビや新聞で見ていた「連帯」が歴史になったことを実感した8月であった。


第三部: カリーニングラードへ


   グダンスクまで来て、ちょっと色気が出てカリーニングラードに行ってみたくなった。二つの意味で興味があった。ハンザ都市・カント出生地という東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクの歴史を辿ってみたい気持ち。そして、ロシア連邦の飛地として経済特区でもあるカリーニングラードの今を肌で感じてみたい気持ち。結論から言うと、両者とも期待外れであった。

 グダンスクのロシア領事館に行く。実は認識の甘かった私は中国の深せん(シェンチェン)のように経済特区はヴィザなしでも行けると考えていた。即日発行ということで80ドル(=344ズウォチ)かかった。たまたま手持ちの344ズウォチで払うことができたが、もし現金の持ち合わせがなかったら、両替に行っている間に領事館は閉まってしまい、グダンスク滞在中のヴィザ取得ができなかったであろう。

 15時30分発のカリーニングラード行きバスに乗る。国境までは2時間余りであったが、国境通過には1時間20分かかった。ポーランドの係官が一人一人のパスポートを回収し、はんこを押す間、乗客は車外で待つ。日本人のような顔つきの人もいる。モンゴル系のロシア国籍保持者であった。ロシア入国時には係官が一人一人に事情を聴いている。私以外の乗客が手にしていたパスポートはロシアのものであった。中にはキリル文字でCCCP(エス・エス・エス・エル)、即ち「ソヴィエト社会主義共和国連邦」と書いてあるパスポートを持っている人もいる。国家体制は変換してもパスポートは変わらないのであろうか? 幸い、私は何も聴かれなかった。日本国旅券がものを言ったのかもしれないが、ロシア語で何か喋らなければ行けないなと緊張していた私は肩すかしを食らった感じであった。1997年8月、バスでサライェヴォからベオグラードに向かう途中、新ユーゴスラヴィアに入国時に感じた緊張よりも大きかった。しかし、これは序の口であった。

 深夜のロシア出国ポーランド再入国時には3時間かかった。その大部分はロシア出国に費やされた。入国時とは比較にならない程、一人一人入念に荷物を調べている。カリーニングラードは琥珀の産地であり、その持ち出しに神経質になっているのである。出国時も入国時同様、私以外の乗客は皆ロシア国籍保持者であった。パスポートコントロールの女性係官はよほど日本国旅券が珍しかったのか、私のパスポートを返してくれない。荷物検査で長く足止めを食らっていた乗客が解放されてもなお、私はパスポートを返してもらえなかった。深夜に一人取り残されちゃうのかと不安になる。幸い、運転手の一人が見守っていてくれた。国境には(特にロシア側は)多くの乗用車が列をなしていた。私の乗ったグダンスク→カリーニングラードとカリーニングラード→ワルシャワのバスの乗客は私以外皆ロシア国籍保持者であった。ロシア人がポーランドに買物や働きに来ているのである。ポーランドがNATOとEUに加盟しようとしている今、ポーランドとロシアの国境は他のヨーロッパ地域の国境とは比較にならぬ程重要な意味を持つのであろう。ともかく、社会主義時代のポーランドやソ連を思わせる国境通過の緊迫感を味わった。今更ながら体制転換のありがたさを実感した次第である。

 カリーニングラードへの二つの興味は期待外れに終わったと前述した。第一の興味、ケーニヒスベルクの残り香は第二次世界大戦でことごとく破壊され尽くしていた。わずかに街発祥地である大聖堂のある中ノ島あたりに痕跡を留めている程度である。大学前にあったカント像は、ソ連時代に造られた安っぽい感じであった。スーパーマーケットで買った「ケーニヒスベルク」と言う名前がラベルに貼られたビール(勿論、キリル文字で書いてある)はおよそドイツビールとはかけ離れた不味いビールであった。一言で言うとこの街はロシアの地方都市という雰囲気なのである。未整備のインフラ、トラムやバス、行き交う垢抜けない人々、ドイツの匂いはどこにもなく、典型的なロシアの田舎町である。それは第二の興味とも関連する。

 この街が経済特区として種々の特権や優遇措置を享受できたのは1990年代前半である。しかし飛地であることが災いしてか深せんのようには行かなかった。今では特権も剥奪され、一地方都市になっている。それは外国人の少なさ、外国語の通用する範囲の狭さ、西側通貨との両替のし難さなどで実感できる。一等地に建つホテル・カリーニングラードにわずかにドイツ人の観光客やビジネスマンを見たくらいであった。日本円が両替できる銀行も少なく、4〜5日の滞在ゆえ、ルーブルへの両替は控えめにしてクレジットカードを多用しようと思ったら、殆どのお店で使えない。VISAのシールを確認して入ったレストランではカード読取り機が故障で現金払いを求められた。物価の安いカリーニングラードの最後は残り少ないルーブルを節約しながらの極貧生活を強いられた。都市名改称の動きが報じられたことが嘗てあった。旧名ケーニヒスベルクに復するのではなく、「カントシティー」という案であった。英語名にすることで、ドイツ人だけでなく、広く世界にアピールしようと言う思惑であろうが、却って安っぽい印象を与えただけであった。大学前のカント像と同じである。

 悪い印象ばかり書き連ねてしまった。しかし、好印象を問われたならば、私は民族の多様性ゆえの居心地の良さを挙げるであろう。残念ながら今回のポーランド滞在でもスキンヘッドの若者に少々絡まれた。グダンスク旧市街のベンチで日記を書いていたら、右隣のベンチにいた2〜3人の若者が「中国人か?朝鮮人か?」と話しているのが聞こえた。「ヘイ!」「ハロー!」とかからかい気味に声をかけてきたので無視していたら、一人が私のすぐ左に座り、肩に手を回してきた。皆ニヤニヤ笑っていた。気味が悪かかったので一目散に逃げ出した。こういう輩がポーランドにいることは事実である。一方、カリーニングラードではそのようなことはなかった。無論、偶然かもしれない。しかし、前述のようにロシア国民といってもモンゴル系を初め、アジア人が多くいる。カリーニングラードのバザールに行ったが、正に人種のるつぼであった。キルギス人、ウズベク人、カザフ人、朝鮮人等々。様々な顔がそこにあった。日本人の私がそこにいても違和感がないのである。

 グダンスクから車でほんの数時間の地にこのような街がある。嘗てのポーランドの状況を思えば懐かしくもある。また、国際政治の変化で「ヨーロッパ」と「非ヨーロッパ」の境界線の外側にあるとはいえ、一面ではポーランドと同じスラヴの世界でもある。宿泊した安ホテルで映画みたいな珍妙な体験(余りに下世話で猥雑な内容ゆえ、ここには書けない。)に遭遇したカリーニングラードに奇妙な思いを抱き、ポーランドに再入国した私であった。
 なお、私と同様、国際日本文化研究センターの木村汎教授も昨夏カリーニングラードを訪ねられた。興味のある方はそちらの文章も一読をお勧めする。

参考: 木村汎「幻のロシア経済特区カリーニングラード探訪記」『世界週報』(時事通信社)2001年9月11日号所収。

(日ポ協会関西センター『WISLA』第26号 2002年1月1日発行)