ワルシャワの道(5)
ボニフラテルスカ通り/サピェジィンスカ通り:
1943
419日、ワルシャワ・ゲットー蜂起救援作戦

 

渡辺克義


 

 

ボニフラテルスカ通りは、ワルシャワのほぼ中央で、ミョドヴァ通りの延長線上を北西に向かって走る中規模の街路です。1718世紀、パルィスフ家(Parysowowie)の耕地があったので、パルィシェフシュチズナ通り(ul. Paryszewszczyzna)またはパルィシェフスカ通り (ul. Paryszewska) と呼ばれていました。172628年、フォンタナ(J. Fontana)とソラリ (A. Solari) の設計による教会と修道院が建設されました。175660年には「慈悲の友男子修道会」病院が建てられます。ボニフラテルスカ Bonifraterska(「(カトリックの)「慈悲の友男子修道会の」の意の形容詞」)の名称はこれに由来します。18世紀末にはこの街路には煉瓦工場が2つ、シマノフスキ家宮殿(Pałac Szymanowskich) その他20余りの家屋(主として木造)がありましたが、1822年以降さらに十数戸の石造共同家屋が建てられます。19世紀にはここにユダヤ人が多数住むようになり、商業地区としての色彩を強めてゆきました。1936年、通りは拡張され、往来の激しい街路へと姿を変えてゆきます。第2次大戦による荒廃はここも例外ではなく、とりわけ1944年のワルシャワ蜂起では「慈悲の友男子修道会」病院をめぐって激しい攻防戦が展開されました。結局、ドイツ軍はここを制圧し、約300人の患者、医師を殺害しています。戦後の196769年、197678年に通りの両側に共同住宅が建てられました。現在、ボニフラテルスカ通りで威容を放っているのは、196769年に建設された中華人民共和国大使館(1番地)でしょう。

 

 サピェジィンスカ通り (ul. Sapieżyńska) はボニフラテルスカ通りと交差する街路の1つです。サピェジィンスカ通りはかつてチャルナ(「黒い」の意の形容詞)通りと呼ばれていました。これは通りが狭く、暗い谷底のように見えた時代があったからです。1656年、スウェーデンの侵略(いわゆる「大洪水」)により街路は潰滅的打撃を受けますが、18世紀前半には煉瓦工場、ビール工場のほか若干の家屋が建てられています。しかし、18世紀末でも煉瓦家屋や木造家屋の数は10足らずでした。今日の通りの名称は、近くのザクロチムスカ通り7番にあるサピェハ家宮殿(pałac Sapiehów[1731―46年、デイベル(J. Z. Deybel)の設計に基づき建立] に由来します。1920世紀の交、通りはフランチシュカィンスカ通り方向に延長され、現在のようなL字形になりました。ワルシャワ蜂起で街路は荒廃しますが、戦後復興されました。

 

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 1943年4月19日、ボニフラテルスカ通りとサピェジィンスカ通りが交差する地で、ワルシャワ・ゲットー蜂起を支援する作戦が実行に移されました。ゲットー蜂起に対して国内軍が協力した事例は数多いのですが、これはその中でも最も有名なものの1つです。作戦は、ゲットー側壁のうち、ボニフラテルスカ通りとサピェジィンスカ通りが交差するところに抜け穴を設け、内部にいる大量のユダヤ人を脱出させるというものでした。作戦は1943419日午後5時に開始が予定されていましたが、実際にはほぼ1時間遅れで始められました。しかし、ドイツ側は間もなくポーランド側の動きを察知し、機関銃で反撃に入ります。ポーランド側は不利な状況にもかかわらず果敢に戦い、ボニフラテルスカ通りに設置した地雷で側壁の一部を破壊しています。しかし、ここでドイツ側が装甲車を投入したため、ポーランド側はそれ以上作戦を継続することができなくなりました。ポーランド・ドイツ双方に死者が出ています。かくして、ゲットー蜂起支援の最初の試みは失敗に終わったのでした。

 

 さて、第2次大戦中のユダヤ人に対する援助か見殺しかという問題で思い出されるのが、アンジェイ・ワイダ監督の1995年の作品「聖週間」(原作はイェジ・アンジェイェフスキ)です。監督はユダヤ人女性イレナに対して協力姿勢を見せるポーランド人とその逆の態度をとるポーランド人の2通りを示しました。作品がもし前者のタイプのポーランド人のみを描いていたならば、それは虚構にほかならず、世界的に物議を醸し出していたことでしょう。監督はそれほど愚かな人物ではありませんが、かつて「約束の土地」(1975) がユダヤ人に否定的だとの評価を生んだこともあったので、最新の注意を払って制作に当たったにちがいありません。

 

(日ポ協会関西センター『WISLA』第26号 200211日発行)