医療改革の行方
抜井宏樹(E-mail:
hirokinukui@poczta.onet.pl
)
COPYRIGHT by Nukui, Hiroki 2001
この記事は抜井宏樹氏のご厚意により『ポーランドニュースレター・ワイド版』(2002年2月11日号)から特別に転載させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。
経緯
健康保険・医療改革はそもそも1997年に発足したクゼク内閣が4大改革の一つ(他に地方行政改革・教育制度改革・年金制度改革)として着手をしたもので、新制度は1999年から導入された。
それ以前の旧制度下では、
医療制度運営費は国庫が負担−国家財政の圧迫
医療費の無駄遣い
慢性的資金不足
医療の質の低下
医者、看護婦などの医療関係労働者給与の実質的目減り
賄賂の蔓延
柔軟性のないシステム
などといった社会主義の「負の特徴」が医療システムを機能不全へと追い込んでいった。
このような状態を改善すべく、根本的な医療制度の改善・近代化を目標に新制度は導入された。最大の改善点は、公的健康保険制度を敷くことにより医療制度運営費の大部分を国民が収める保険料により賄うとした点である。
その他、具体的な改善点は、
医療制度の地方分権化−各県に傷病給付金庫を設立。
資金運用の役割分担−保険料徴収は社会保障公社(ZUS)、医療費の管理・運営は傷病給付金庫、医療機関は同金庫と契約の上で費用の支給を受ける。
制度の柔軟化―ホームドクター制度導入。患者はホームドクターの選択を自由にできる。
などである。
しかし、ブゼク政権が自信を持って導入した同改革は、早くも数年で行き詰まり状態に陥っている。その主因は、改善されるはずであった資金不足である。新制度導入直後はまず、保険料を徴収し傷病給付金庫へ給付する役割を担うZUS自体の準備不足が資金運営上大きな混乱をもたらした。
その後、傷病給付金庫間で「貧富の差」が拡大。健康保険料は被保険者の給与額に対し一定率(現在7.75%)が徴収されるため、経済的に発達しており富裕層を多く抱える県では金庫により多くの資金が流入してくるものの、発展の度合いが低く失業率が高い県では慢性的資金不足に悩んでいる。しかしながら、豊かな傷病給付金庫ですら自地域内すべての医療機関でサービスのレベルを高く保てるほどの資金をZUSから受けてはおらず、各医療機関は施設の一部を賃貸するなどの商業化を進めて自助努力をしている。
しかし、商業化で収入が見込めるのも主に大都市で、発展が送れている地域では補助金によりシステムを支えるはずの地方自治体自ら資金不足に陥っており、ZUSから支給される金額しか当てにできず財政問題の安定化はまさに至難の業となっている。
現行制度の実情 医療の質は「カネ」次第
この慢性的資金不足は医療制度運営上大きな障害となっており、国民は満足のゆく治療を受けられない状況に置かされている。
病院や保険所などの公的医療機関は、各県の傷病給付金庫と契約を結ぶことにより資金を支給されている。このことは、支給される運営費用(治療費だけでなく、医師や看護婦の給与、設備投資費用なども含む)は制限されており、各医療機関は自ら収益を生まない限りは、この枠を超えた活動はできないことを意味している。このため、特に癌科や整形外科などの専門性の高い分野では毎月の患者受け入れ数の制限があり、数ヶ月先まで予約が埋まっているような状態。一般的に言っても、健康保険枠内の治療を待つと順番がなかなか回ってこないのが現実である。
ホームドクター制もあまりうまく機能していない。専門医の診察を受けるにはホームドクターの診断書が必要となっているため、これは患者サイドからみれば「2度手間」である。また医師としても、診断書作成の役割が少なからず負担になっているようで、本来の患者診察に集中できないようだ。
ところで、市民全てが実際に数ヶ月も専門医の診察待ちをしているのだろうか。答えは「NO」である。忍耐強く待っているのは、年金生活者や失業者などの経済的余裕のない市民層で、ある程度豊かな市民は専門医の個人診療所へと赴くのである。この個人診療所は傷病給付金庫とは契約しておらず、いわゆる「保険が効かない」存在で診察料金は高い(一回の診察で30から100ズロチ程度)。しかし出費は嵩むものの、登録すればその日にでも診察してもらえるという利点はやはり大きく、満足のゆく診察を受けたい人々はこの選択肢を選ぶことになる。
ここで問題なのは、傷病給付基金と契約をしていることから保険の効く公的医療機関で働いている多くの医師がこれと平行して個人診療所を経営しているという「二重構造」である。これにより、医師は収入が期待できる個人診療所での診察に重点を置き、公的医療機関での任務にはあまり意欲的ではないという傾向を生んでいる。また、入院を必要とするケースは、はじめに個人診療所に行き医師との面識(あるいはコネ)を作っておかないと、入院後に行き届いたケアが期待できないという傾向もある。言い換えれば、医師は自分の個人診療所で診察をした患者を優先的にケアするので、公的医療機関においても、各医師がそれぞれ自分の顧客を担当するという非常に偏った構図になっている所が多いようである。
当然このような傾向は賄賂を助長する。例えば、ある病院の癌科に空いたベットが無くとも、この科の主任が経営する個人診療所へ行き話をつけることで、かなり融通が利くようになるのだ。
このような状況において、市民間では「満足のゆく治療は結局カネ次第」という意識が深く浸透している。
嵩む薬代
更に市民の懐を圧迫しているのは医師が処方する薬の代金である。国内市場で販売されている薬の一部は保険の対象となっているが、対象外の物も結構多い。また最近、多少質は落ちるものの保険対象となっている国産薬よりも、保険対象外となっているが効き目の高い輸入薬を処方する医師の傾向も問題となっている。しかも、多くの医師は市販薬の処方を治療と捉えており、同時にいくつかの薬の購入を指示することも多い。この場合、ただ一度の診察で出される処方箋の薬代が50ズロチを超えることもよく起こり、例えば月400ズロチ程度の年金しか生活の糧がないお年寄りにとって、病気の治療は大きな経済的負担となっている。
尊厳を無視された看護婦
傷病給付金庫の資金不足は患者だけでなく、医療関係労働者にとっても大問題となっている。このうち特に軽視されているのは看護婦で、この劣悪な待遇は2年前に一種の社会問題にまで発展し、現在もなおその尾を引いている。
新制度導入後、傷病給付金庫発足により資金給付が制限されたことで根本的な構造改革を迫られた各医療機関は大規模なリストラを行ない(採算性が見込めないとして閉鎖された地方医療機関も少なくない)、これにより多くの看護婦が職を失うことになった。しかし、失業を逃れた看護婦にとっても状況は決してバラ色ではなく、施設内の介護人(患者の下の世話やシーツの取り替えなど、医療看護外の世話をする役職)も大量に解雇されたことからこの役割が看護婦に課された所も多く、労働条件の悪化を招いた。
ちょうどこの頃、教師や他の公務員の賃上げが相次いで話題となっており、看護婦も賃上げを要求し始めた。当初は各傷病給付金庫や地方自治体と交渉を行っていた看護婦労組であるが、両者は資金不足の責任を政府に転嫁し、賃上げの予算は無いの一点張りでこれを受け付けなかった。その後、労組は全国規模のストライキを決行し、2000年の暮れには最高潮に達した。多くの病院で看護婦はハンガーストライキを開始、また幹線道路を閉鎖するなど、政府に要求を訴えるために必死の抵抗を続けた。
これに対し、傷病給付金庫が発足し医療関係労働者の賃金が直接国庫から支払われなくなったことを理由に、政府(当時ブゼク内閣)は賃上げの交渉相手は違うとして長期に渡りこの要求を無視し続けていた。しかし、看護婦の立場を支持する世論が高まったこともあり、政府は最終的に交渉を開始。最終的に看護婦労組は月基本給203ズロチの上昇を勝ち取ることとなる。
しかし、このドラマはこれだけでは終わらなかった。その後賃上げを法的に保証された看護婦の立場は、傷病給付金庫により踏みにじられることになる。政府は看護婦との交渉終了後暫くして、賃上げ分の費用を各金庫へ援助するが、特に資金不足が深刻な地域ではこの金額が別用途に用いられ看護婦の賃上げは実施されなかったのである。その後、看護婦労組は金庫を相手取り訴訟まで起こしており、裁判所は労組の訴えを認める判決を下している。しかしながら、いくつかの県では傷病給付金庫の財政難を理由に、現在もなおこの賃上げが実現さていない。
医療関係者のサイドビジネス
しかし、薄給なのは看護婦に限ったことではなく、医師や救急部隊員などすべての公的医療機関労働者に該当する。
医師は個人診療所を経営、看護婦の一部は歯医者で歯科助手として働くなどして副収入を確保している。そして、救急隊員の一部は先日大スキャンダルとして全国を驚かせたように、葬儀業者と結ぶつくことで収入を増やしているのである。なかには、公に葬儀会社を経営している救急隊員もいること明らかになっている。
このように、各レベルにおいて医療関係者がサイドビジネスに関わる状況において、市民の健康保険料で運営されている公的医療機関におけるサービスの質は自ずと低下せざるをえない。
今回の医療システム改良案
このように、社会全体にとって障害となっている現行システムの改善は急務となっている。しかしながら、難題を抱えながらも健康保険料集約率の拡大やリストラの続行、また施設運営を商業ベースに乗せるといった各医療機関の自助努力によりようやく軌道にのりはじめてきたシステムに再度変更を加えることになる今回の改善案には反論も多い。
ワピンスキ厚生大臣は、現在地域ごとに異なる医療機関との契約基準などを統一化、全国の医療水準一律化の必要性を主張し、各県の傷病給付金庫を廃止して政府管轄となる健康保護国民基金を設立することを提案している。しかしこれは、医療機関の再中央集権化を意味しており、費用の使い道が現在以上に不透明になるのではないかという危惧を与えている。
問題の本質
国会上下両院において与党が絶対過半数を占めている現状から推測して、今回発表された健康保護国民基金設立案は恐らく現実化することになるだろう。しかし、この制度変更により資金不足が解決されたとしても、医療関係労働者の給与レベルが急激に上昇することもまずありえず、その後も公的医療機関と個人診療所という二重構造、またはサイドビジネスへの関与は確実に存続するであろう。この場合、いずれにせよ個人診療所を訪れた者の方が(公的医療機関においても)良い医療サービスを受けるという傾向は変化せず、治療機会の平等化、医療水準の均一化、更には公的医療機関におけるサービスの向上という目的は達しえない。
医師や看護婦がその仕事に見合う給与を受け、少なくとも医療制度の二重構造とサイドビジネス運営がなくなり、健康保険内の任務にのみ従事するようになれば、医療サービスの質も自ずと向上すると思われる。しかしながら、現状において高給を保証することは夢のような話である。
また、健康保険料の引き上げも解決策として考えられるが、ただでさえ給与に対する社会保険費の割合が異常に高い現状で、これは雇用者の負担を増し更に失業率の増加を招くだけで、医療制度内の実質的資金量拡大には結びつかないであろう。
結果として、この医療システムの根本的問題は莫大な費用を要する医療制度を国民の保険料を主要財源として運営してゆけるほど、ポーランド社会の経済状態が発展していないという点にあるように思える。
『PNLワイド版』(2002年2月11日号)その他の記事
政界の動向
◇政府・議会・大統領の動向
厚生省案−「傷病給付金庫」来年から「健康保護国民基金」へ
ワピンスキ厚生大臣は4日、傷病給付金庫を廃止し2003年から健康保護国民基金を導入することを主旨とした医療システム改善計画を発表した。 この計画内では、各県ごとの管轄でそれぞれが独立機関として機能している傷病給付金庫に対し厚生大臣は運営上影響力を持たないことないことや、国民に対し治療機会が均等に与えられていないことなどを現行制度の改善点として挙げられている。更に、これを改善のため、傷病給付金庫を廃止し健康保護国民基金を設立し厚生大臣の管轄下に置くことで、国内医療政策の統一化を目指すとしている。
同案に対し国内では賛否両論で、基本的に与党は賛成、野党は反対という構図になっている。この医療システム改善計画に関する討論番組は今週はじめにテレビを賑わせたが、現段階では両陣営の議論は問題の本質を突いてない。与党は例により、ブゼク前内閣が残したものは諸悪の根源という発想で傷病給付金庫の惨めな運営状態を徹底非難。これに対し野党は、同案は新システムに旧体制勢力の息がかかった人物を送り込むための政略であると反論し、基本的には左翼対右翼の感情的対立から生ずる批判・非難に終わっている。(尚、同問題に関しては「論説−医療制度の行方」を参照)
「国民の記憶協会」大幅予算カット
ミレル内閣が推進する財政緊縮政策はあらゆる方面に影響を及ぼし始めている。
6日に公的資金委員会において「国民の記憶協会」の予算を約20%削減する提案がなされたことから、政治家や文化人の大きな抵抗を招くことになった。主に右翼系の政治家や文化人約50名が共同で、同協会の予算削減反対を呼びかける意見書を下院に提出している。
同協会はナチスや旧社会主義体制によるポーランド国民に対する弾圧、迫害などの真実究明を課題としており、関係資料の収集や公開、また様々な調査活動などを行っている。
このため、右派勢力の間では、「国民の記憶協会」の活動を実質的に制限することになるこの予算削減案を社会主義体制下に政府により犯された犯罪を隠蔽するために考え出されたSLDの政略と捉える傾向もあるようだ。
ミレル首相ウクライナ訪問
ミレル首相は4日、ウクライナを訪問しクチュマ大統領やキナハ首相らと会談を行なった。また、政権交代後もポーランドのウクライナ政策は不変であることを強調し、西欧に対するウクライナのスポークスマン的役割を演じ、同国のEU加盟を支持して行くという内容の宣言を行ない、ポーランドのウクライナ支援を強烈にアピールした。
また、両国首脳は経済関係発展のため障壁を取り除くことも確認している。
◇各党の動向
PO−地方選挙における連立の可能性は地方の決定次第
市民プラットフォーム(PO)のリーダー格であるプワジンスキ議員は6日、地方選挙における他政党との連立は地方議員の選択に委ねる見解を示した。しかし、唯一のグループ内拘束として、SLDとの連立は行わないことを条件としている。
これにより、理論的には旧「連帯」系勢力の再結集は可能になったわけだが、この場合「AWSから離脱したのにまた結集」という印象を有権者に与えるのは確実で、どれほど信頼性を獲得することができるかは疑問である。
EU関連問題
◇農業補助金制限の反応
先週に発表されたEUレポート内で新規加盟国に対する2004年度の直接農業補助金をEU内レベルの25%に抑える提案がなされていることが明らかになって以来、ポーランド政界では与野党ともにEUの姿勢を厳しく批判する風潮が高まっている。特にPSLや「自衛」などの農民党はこの条件を侮辱的とまで形容し、承諾不可能という明確な立場を示している。
更に、ブッリュセルで行われたEU農業関連会議に出席した司教団はポーランドのEU加盟支持を表明しているものの、同時にEUの農業政策に不安を感じているという内容のコメントを残しており、ポーランド全体がショックに陥っていることを窺わせた。
これに対し、チモシェヴィチ外相やEU交渉団は、これはまだEUの提案にすぎないと国民をはじめ与野党政治家をも宥めている。しかし、EU高官の口からはポーランドのこのような状態を過剰反応と見て冷静な対応を促すとともに、同条件の変更は困難であることを暗示するような発言も頻発しており、今後の交渉は一層厳しさを増すことと思われる。
また、主要政治家数名が、もしEUがこの提案を実現化すればポーランドはEUからの輸入農産物に対して関税を課して自衛措置を講じる案を公にしており、これもEU高官の機嫌を少なからず損ねている
ところで、この農業補助金の行方はある事柄が明るみに出たことで新たな側面を見せつつある。ポーランドは数年前から継続的にEU農業補助金を受けているが、この資金運用の任務を担っている農業発展近代化協会が資金を不正に運用している疑が生じたのである。政府はこの件の調査を開始することを発表し、すばやい対応を取っている。これに対しEUは、もし資金の不正運用が立証されれば補助金の返還を求めるとの立場を取っている。
EUはポーランド政府に対し、農業分野に限らぬ諸分野における補助金の受け入れ態勢を早急に整えるよう継続的に要求してきたが、これは遅々として進んでいないのが現状。補助金受け入れ体制が整わなければ財政援助は与えられないとするEUと、財政難の中この整備のためにはまず自費で環境を整えなければならないポーランド政府間で認識の違いが表面化し始めている。
いずれにせよ、農業補助金の不正運用が立証されればポーランドは今後の交渉において非常に弱い立場に立たされることになり、農業補助金率25%という条件を変更するどころか、補助金受給の権利すら脅かされることにもなりかねない。
(
ぬくい ひろき
2002.02.11)
『ポーランドニュースレター・ワイド版』
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