ショパンの故国 ポーランドを訪ねて&ウィーンでオペラ 3
石井よしみ
5月4日(日)

今回のHaneで一番 訪ねたかった所はアウシュビッツでした。
93年のスピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」で衝撃を受け涙しました。
そして、昨年 映画祭で「戦場のピアニスト」をみて「必ず行こう。」と思ったの。
映像にすぐ感化されるたちなのね。
以下は「地球の歩き方」に載ってる、アウシュビッツの日本人ガイドの中谷さんのコメントです。
「若い人たちにもたくさん来てもらいたいです。日本人旅行者の大半はお年寄りの方々ですが
外国人旅行者は幅広い年齢層の人たちがここを訪れます。
歴史は繰り返すと言います。
これからの世代の人たちにも、この事実を直視してほしいです。」
私にもきちんと見つめることができるかしら?
と思いつつこの場所に立ちました。
あの時代 普通の人が普通のことのように狂気の行動をとるようになりました。
あの時代 普通の人々が普通に暮らしていて殺され続けました。
20世紀 狂気の手法は大量殺戮を可能にしました。
独裁者がいたのは確かですが、狂気の行動を実行したのは、普通の人でした。
ヨーロッパでもアジアでも取り返しのつかないことをしてきました。
第二次世界大戦が終わって、私たちは平和な世界になったと思いながら暮らしていても、
地球上では各地で争いが絶えたことはなく、新しい世紀になってもミサイル、弾丸が降り注いでいる現実。
人間はいつでもこんなにも醜いことをすることが出来る存在なのだから、
しっかりとこの場所の意味を考え続けなければ。。。。
これからうさぎが見てきた、アウシュビッツを一緒に見てね。

9時のバスはオシフィエンチムの駅ではなく、
アウシュビッツ博物館の前まで来ました。
レンガ造りの建物がインフォメーションです。
ガイドツアーなどの申し込みはここでします。
各国のガイドブックがあって、日本語のも売っています。3ズロチ。
アウシュビッツ収容所は第二次世界大戦中五年間にもおよび、
ナチス・ドイツによって占領された国の国民に恐怖を与え続けました。
1939年9月の戦闘のあと、オシフィエンチム市を含むその一帯は
ドイツ第三国の一部に加えられ、
ナチスは名前をアウシュヴィッツに変更しました。
人類の負の遺産 アウシュビッツの入口です。
「ARBEIT MACHT FREI 働けば自由になる」
という文字がかかげられています。
この言葉を信じすがった人が多くいたことでしょう。
ドイツ第三国は様々な宗教・政治思想の人、捕虜と一般市民、
強制退去させた町や村の住民、偶然手入れの時に捕まえた人、
そして人種として滅亡させつ予定だった人々をアウシュヴィッツ収容所に送り込みました。
不完全ながら存在資料の研究からアウシュヴィッツでは
約150万人が殺害されたといわれています。
ブジェジンカで収集された人間に灰が器に入れられて、
殺害された人々の存在は示しています。
オソフィエンチム(アウシュヴィッツ1号)とぶブジェジンカ(アウシュヴィッツ2号)の収容所は
現在、特別に保管され、見学が出来ます。戦争以来、そのまま保管されている
「死のブロック」第一焼却炉、そしてブジェジンカの4軒の焼却炉とガス室の跡などは、
ナチスの犯罪のゆるがすことの出来ない証拠になっています。

ユダヤの人々はヨーロッパ中から集められてきました。
その図も展示されています。
うさぎが前に二度訪れたアムステルダムのアンネの隠れ家から
フランク一家はここに送られてきたのね。
SS司令官ハインリッヒ・ヒムラーは、
アウシュヴィッツ収容所をユダヤ人の絶滅センターに選びました。
1944年からは、ブジェジンカに特別に設けられた鉄道引き込み線(積み降ろし場)に着いた。
ここでSS将校とSS医師が選別を行った。労働出来そうな人たちはガス室へ行かされた。
ルドルフ・ヘス元所長の証言によると、運ばれて来た人間の
70から75パーセントがガス室に送られていたという。


ガス室では、人々にシャワーを浴びさせると命令され、
地下の脱衣室に入り、服を脱がされ、地下の部屋まで歩かされた。
シャワー室にみせかけた、天井には水が出たことのないシャワーが取りつけられています。
210平方メートル(約636坪)の部屋に、約2000人が押し込められました。
(1平方メートルに10人!)
そして扉を閉じてから、天井の穴からSSの衛生兵がそのなかへチクロンBを投入しました。
なかに入った人間は、15分から20分の間に窒息して死にました。
その後、死体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪とピアスが取られます。
そして死体は一階にあった焼却炉へ、そして死体が多すぎる時には、
一時 積み上げるために外へ運ばれました。

部屋の壁には、ある囚人が1944年に密かに撮影した写真が展示されています。
骨と皮だけの格好で立ち尽くしている子供たちの写真が数多くあります。
モノクロの「シンドラーのリスト」に出てくるパートカラーの
赤い服の少女はこの子たちの象徴なのね。
チクロンBという毒薬は、ゲデッシュ社が生産し、1941年から1944年の間にそれだけで
1942年から1943年の間に2万キログラムのチクロンBが使用された。
ヘス元所長の証言によると約1500人を殺すのに6から7キログラムの毒ガスが必要だった。
開放後、収容所の倉庫には使用されたチクロンBの缶の山が残り中身の入った缶もあった。

アウシュヴィツが開放された時、ソ連軍は倉庫内に袋に入った約7トンの髪の毛を発見しました。
それは本来ならば収容所管理局がドイツ本国にあった工場へ送って加工し、利益と得ようとしたものだった。
専門家による髪の毛の検査によると、その中にはチクロン化合物に毒性をもたらす
シアンが発見され人脂で石鹸を作ったの。
そしてその髪の毛を使って、ドイツの会社はマットレスと布地などを作っていたそうです。
左の写真は、収容所に送られた人たちのトランクです。

第10と第11ブロックの中庭は、両側から高い壁で区切られていました。
左の写真は「死の壁」。この前でSS隊員が、数千人の囚人たち、主にポーランド人を銃殺しました。

夏季(5月〜11月)のみ、アウシュヴィッツからビルケナウまでバスが運行されています。
1時間に1本で、料金は2ズロチ。
うさぎは12:30分のバスに乗りました。
広大な敷地を占めるビルケナウは、面積1.75平方キロメートル、300棟以上のバラックが
並んでいたアウシュヴィッツよりもさらに大規模な強制収容所であり、一大殺人工場でした。
1941年に建設が開始され、1945年にソ連軍によって解放されるまでに
百数十万人の命が奪われました。
見渡す限り草の茂った広大な敷地に、点々と木造のバラックが建っています。

死の門をくぐって鉄道の引き込み線がまっすぐ敷地内に入り込んでいます。
線路の先に国際慰霊碑が建っているとのことでしたが、
帰りのバスの時間が13時だったので、あまりゆっくりは見ることが出来ませんでした。

バラックによっては、内部が使用されていた当時のままに保存されているものがあります。
冬なんかは、どんなに寒かったでしょう。。

これらが「完全システム化された人種抹殺工場」の跡地です。
ほんの半世紀ほど前の出来事です。

13時のバスで博物館に戻ります。ビルケナウへのバスは5月〜11月で、
1時間に一本しかないの。歩ける距離ではないので、あとはタクシーになります。
クラクフに帰るバスも14:00発のものは、 博物館の前から出ます。
まだちょっと時間があったので レストランで食事をすることに しました。
ジューレックとパンケーキにツナを包んで 揚げたみたいなものとポテトで10ズロチ。
14:00以外の普通のバスは、 インフォメーションの建物を出て
駐車場を抜けて、柵に沿って 右に200mぐらい行った 通りを渡った所にあります。

(2003.07.21)