ポーランド体制改革10年の軌跡

 

田口雅弘(岡山大学経済学部)

COPYRIGHT 1999 by Masahiro Taguchi

 

以下は、19991113日、名古屋学院大学エクステンションセンターで行われた「中欧ポーランドの歴史と文化 ─シンポジウムと音楽の夕べ─」での田口報告レジュメである。

 

 

ポーランド体制転換と移行期の特徴

 

ポーランド体制転換の特徴:

(1)       円卓会議の開催など、フォーラム的・平和的な中東欧体制転換のさきがけとなったこと。

(2)       体制転換の開始時点において経済不均衡がきわめて深刻であったこと。

(3)       体制転換プログラムが際だってラジカルであったこと(「ショック療法」)。

(4)       転換不況が深刻であったこと。

(5)       政治的には不安定ながら、比較的一貫した経済政策が実施されたこと。

(6)       転換不況を乗り切った後、きわめて早いスピードで経済が成長していること。

 

 

新しい時代の幕開け 非共産党政権の成立

 ポーランドにおける1989年の非共産党政権の樹立は、その後の劇的な冷戦体制崩壊の幕開けであった。これは、国民が自分たちの力で国家を大きく変革できることを証明し、世界の多くの人々に希望と勇気を与えた歴史的出来事であった。この「革命」はまた一滴の血も流さず平和裏に進行し、ポーランド人の理性と英知を内外に示した。新政権は早速、バルツェロヴィチ副首相兼蔵相を先頭に新しい経済プログラムを策定し、精力的に経済体制転換に取り組んだ。

 

(解説)

1980年代後半には、ポーランド統一労働者党(共産党)主導による社会主義経済運営が行き詰まり、19888月、当時の内相キシチャクは状況打開を目指して、教会、反体制グループも含むすべての社会勢力を一堂に会した円卓会議を提案した。

円卓会議は、19892月から4月にかけておこなわれた。政治改革に関しては、政治的複数主義の導入、言論の自由、自由選挙を柱とした国家権力機関の代表選出手続き民主化、司法の独立と司法機関の権限強化、地方自治の拡大、さらには一部自由選挙の実施と上院の新設、大統領制の導入などで社会的合意が形成された。社会・経済政策、システム改革に関しては、国家予算規模の大幅縮小による国家経済介入の制限、価格体系見直しと市場を通じた価格形成原理の導入、所有形態の多元化、自主管理の強化、等々が合意された。このほか、労働組合複数主義の導入、環境保護対策など、多くの課題で合意が形成された。

この円卓会議の合意にもとづいておこなわれた19896月の総選挙(一部自由選挙)では、下院の35%自由選挙枠のすべてを、また新しく新設された上院の99%を「連帯」が獲得した(上院の残りの1議席は無所属系が獲得)。一方、ポーランド統一労働者党は事前に確保してある議席を除き、自由選挙枠では1議席も獲得できなかった。総選挙以降ポーランド統一労働者党はレジティマシィを完全に失い、また政権担当能力も喪失していく。一方、「連帯」側にとっても予想外の勝利で、政権担当の準備は全くなかった。同年7月、諸勢力の暗黙の妥協によりヤルゼルスキが大統領に就任した。国会では、新首相には内相のキシチャクが氏名されたが組閣に失敗、8月末に「連帯」顧問のマゾヴィエツキが新たに首相に指名された。

19899月、「連帯」系閣僚を中心とした新内閣の閣僚リストが承認され、ここに東欧初の非共産党政権が誕生した。新政府は、10月にラジカルな経済市場化を目指した「政府経済プログラム」を発表、12月に憲法を改正し社会主義を放棄、さらに翌1990年には旧共産党系閣僚を一掃するなど、急速に脱社会主義化を進めた。199012月には、大統領選でワレサ氏が勝利した。

 

苦難の転換期

 しかしながら、自由化の道は決して平坦ではなかった。累積債務問題、急速な自由化によるハイパーインフレ、金融引き締めに伴う景気後退と失業問題、非効率な国営企業の民営化、石炭・鉄鋼・造船などを中心とした古い産業のリストラなど、困難な課題は山積みであった。とりわけ、「ショック・セラピー」の名で知られる価格自由化と強力な金融引き締め政策柱とした経済政策を採用したことが、経済に大きな負担をかけた。この政策の副作用として、一時的にハイパーインフレとなり、また、資金不足に陥った赤字企業の倒産、それに伴う失業の拡大など、深刻な経済状況に陥った。加えて、コメコン市場の崩壊、金融制度の未成熟なども重なり、いわゆる「転換リセッション」に見舞われて、経済は他の中欧諸国より大きく落ち込んだ。

 

(解説)

新しく発足したマゾヴィエツキ政権は、レシェク・バルツェロヴィチ(Leszek Balcerowicz)を副首相兼大蔵大臣に据え、198910月、新しい政府経済プログラムを発表した。このプログラムは通称「バルツェロヴィチ・プラン」(Plan Balcerowicza)と呼ばれ、ポーランド体制転換戦略の基礎となった。これは、社会主義から資本主義への道筋を描いた最初のプログラムとして、世界中の注目を集めた。

バルツェロヴィチ・プランの特徴は、「ショック療法」の名で知られる、短期的な厳しい総需要抑制策を軸とした新古典派的マクロ経済安定化政策の採用と、長期的なシステム論・制度論的アプローチの2本の柱があることである 。「プラン」ではまず出発点として、「高度に発展した国々に普く存在する市場システムと同様のシステムを作り上げる」ことを目標とし、これを短期間に実施するとしている。プログラムは1990年から着手され、行動経路として第一に経済の安定化、とくにインフレにブレーキをかけるための経路、第二に経済システム転換のための経路、という二つの経路が提示されている。

プログラムではまず、経済安定化プログラムを成功裏に実施することが、システム変革を実施可能なものとする前提条件であるとして、インフレ防止、物価の引き下げ、財政赤字削減を優先課題に据えている。システムの変革においては、西側先進諸国で十分にテストされた市場経済制度の導入を図るとして、所有制度の変更、反独占政策、通貨の交換性回復、租税・銀行制度改革、資本市場創出、労働市場創出、などを実施項目として掲げている。経済システムの変革に伴う社会政策に関しては、市場メカニズム導入とラジカルな安定化措置の副作用によって生ずる社会的摩擦に対処するため、社会政策目標を押し進める別個のメカニズムが必要となるとしている。

さらに、このプログラムに対する国民の支持、国際金融機関の支援、外国資本の導入、プログラムを成功させるための条件となると強調している。また、改革のスピードに関しては、変革は社会にとって重荷になる過渡期を極力短縮するために、ラジカルな諸活動を通じて急速におこなわれなければならないとしている。

このプランにもとづき、199011日より価格の自由化、生産、貿易の自由化、国営企業における超過賃金税(賃上げ率に対する累進課税)の導入等を通じた賃金コントロール、財政均衡化のための国家支出削減(補助金・課税減免措置の削減等)と増税、強力な金融引き締め、通貨の大幅切り下げなど、一連の政策が実施された。

この政策の結果、1989年に1000%近かったハイパー・インフレは、19901月には78.6%(対前年比、以下同様)、2月−23.9%3月−4.7%と急速に鎮静化に向かい、8月には最低の1.8%を記録した。一方で、強力な金融引き締めの結果、需要が冷え込み、景気は大幅に後退した。1990年第1四半期の生産は、食品工業で前年同月比マイナス40.8%、軽工業−マイナス37.3%、燃料・エネルギー産業−マイナス20.3%、化学工業−マイナス22.7%と、とりわけ消費財部門での落ち込みが激しかった。また、失業も急速に増大し、1990315日現在で登録失業者数216000人、4月30日−351000人、628日−511000人となり、12月現在で110120万人を記録している。

強力な金融引き締めを柱とした「ショック療法」に倒産、失業、生活水準の引き下げなどの副作用が伴うことは、もともとプログラムの中に織り込み済みであった。ところが、「ショック療法」を選択したポーランドの「転換不況」がプログラム策定者の予想を上回るほど深刻で、失業や生活水準の低下といった国民へのしわ寄せが大きかったため、「ショック療法以外の選択肢はなかったのか?」という疑問や、「そもそもショック療法的アプローチは有効か?」、「グラジュアルな政策を採れば採用すれば、不況や失業といった体制転換の副作用はもっと緩和されたのではないか?」という疑問が呈されるようになった。しかし、政策選択の幅は狭かった。当時、累積債務利子は雪だるま式に増加しており、国際的にはこの懸案事項の解決が何よりも緊急性を帯びていた。政府はこうした事情のもと、まず何よりも経済安定化政策を優先させる必要があった。この安定化政策には国際金融機関の支援は不可欠で、国際金融機関の新古典派的なマクロ安定化に関するサジェスチョンを極力取り入れざるを得なかった。政府はIMFのコンディショナリティのハードルをクリアーするために多大な労力を割き、結果的にこのことが社会的混乱を招き、199112月のバルツェロヴィチの辞任につながった。他方、政治面では「連帯」の分裂と未熟な民主化により政治諸勢力が乱立し、また混乱しながらも民主主義的手続きを重視する議会と強力なイニシアティブをもって国家運営にあたりたい大統領との対立も深刻化した。こうした分裂と混乱の中、1991年の総選挙では、下院で議席を獲得した政党数が29となり、第一党の民主同盟(UD)でさえ定員460議席のうち62議席(全体の13.5%)を占めるにとどまった。

 

(解説 国営企業民営化)

マクロ経済安定化と並んで体制転換プログラムの大きな柱になっているのは、既存の経済システム解体、新しく創出される市場経済の制度的枠組み、および経済活動の新しいルールづくりである。新しい経済システムを形成する前提となるのは、国営企業の民営化である。

国営企業民営化は、国営企業民営化に関する法律(1990713日付)によって開始され、1990年末に8440件あった国営企業のうち、1995年末までには5224件が民営化されるか、または民営化手続きが開始された。

国営企業の民営化の方法は、大きく分けて「資本民営化」、「清算による民営化」の方法がある。 

 資本民営化とは、国営企業をまず国庫が100%株式を所有する会社に転換して、市場形態に対応できる組織・経営形態に改組し(商業化)、さらに国家がこの株を放出することによって民営化する方法である。この方法は主に中堅・大企業に適用される。優良企業の場合は、ワルシャワ証券取引所に上場される。1996年末までに168件がこの方法で民営化された。 

清算による民営化は、主に小規模の国営企業に適用され、「売却」による方法や「リース」による方法などがある。売却による方法は、企業資産を公開競売にかける方法である。リースによる方法とは、清算された企業の従業員によって設立された新会社が、国庫から企業資産のリースを受ける方法で、清算による民営化の道を選択した企業のうち約70%は、この方法を採用している。支払いが終了し資産が新会社の所有になったあと、会社ごと外国企業に売却されるケースもある。

個別に民営化されなかった国営企業の一部は大規模民営化と呼ばれる国家投資基金 (NFI) を通じた民営化プログラムに参加している。これはまず、国庫が100%株式を所有する第1から第15までの国家投資基金を設立し、参加企業を各基金に割り振る。各基金は入札で選ばれたファンドマネージャー通し業務活動をおこない、保有する株式の株価上昇を目指す。一方、1994年末までに18歳に達した国民は、基金の株式と交換できる証書を安価で取得できる。この証書は、1998年末を期限として、基金の株式と交換できる、というものである。

農業部門では、すべての国営農場(PGR)が民営化の対象となり、「国有農地庁」により原則としてすべての国営農場が国庫全株所有会社に転換された。このうちほとんどが資産売却、賃貸などにより清算された。

当初は、経営の行き詰まった国営企業が、商業化することによって国家の保護下に入ろうとするなどの弊害も見られた。また、不況下で思ったように外資導入が進まず、戦略投資家も思うように見つけることができなかった。しかし、経済の好転とともに、民営化は再び活発化してきている。政府は、EU加盟を視野に入れて、外国資本への売却を軸に民営化にドライブをかけたい意向だが、とくに基幹産業(エネルギー、石油化学、アルコール、通信)の民営化や銀行・保険の外国資本への売却をめぐっては賛否の論議が絶えない。

 

新しい制度確立と経済構造改革

 国民への重い負担を覚悟で断行した経済政策の成果は、1994年頃からようやく果実となってあらわれてきた。不採算部門のリストラと民間部門の力強い成長により、国内総生産(GDP)は1994年以降年率5%以上の伸びを示している。国際金融機関の経済再建へ向けた厳しい指導のもと、貿易赤字は縮小し、国家財政赤字のGDP比も1993年には2.8%と、マーストリヒト条約が要求する3%のハードルをすでにクリアーしてた。長引いた累積債務交渉も成功裏に終わった。1991年にEU連合協定を結んだのを皮切りに、1995年にWTOに加盟、さらに1996年には念願のOECD入りを果たし、完全に国際社会へ復帰した。

遅れ気味になっていた制度改革は、1994年発表された「ポーランドのための戦略」で中期的展望が与えられた。ここでは、改革の社会的コストをもっと減らすことができるとして、労働争議における中央レベルの一括的協議型紛争処理メカニズム確立、社会保障制度の拡充、地域振興、人的資本の育成、金融システムの強化など、制度面を強化する政策をより鮮明に打ち出している。これらの諸改革は、1999年から始まった四大改革(地方行政改革、医療保険制度改革、年金改革、教育改革)でさらに加速された。

 

(解説 金融制度改革

 制度改革の中で重要な位置を占めるのは、金融制度改革である。この改革の中心に位置するのが銀行統廃合である。1988年まで、企業向け融資の約90%はポーランド国立銀行(NBP)によっておこなわれていた。1989年の銀行法によってポーランド国立銀行の独占体制が解体され、ポーランド国立銀行は中央銀行としての本来の姿に戻った。一方、全国に約400あったポーランド国立銀行の支店は、ポーランドの金融界をリードする9行の地域商業銀行として再出発した。また、銀行業の認可が簡単におりるようになったため、民間の銀行設立が相次ぎ、1993年までには79行が営業をおこなっている。1990年代に入って、国内の主要銀行は国際金融機関、西側金融機関の支援を受け、銀行業務システムの近代化や新しい金融商品の開発に積極的に取り組んできた。外資系銀行のポーランド市場進出も活発化してきている。現在、20行以上の外資系商業銀行がポーランドで活動しており、商業銀行の総資産全体に占める外資の比率は20%弱となっている。近年、銀行業への国内業者新規参入の波は一段落し、むしろ欧州連合(EU)への正式加盟を視野に入れた銀行の統合が新しい波になっている。1990年代前半は銀行制度構築の時期で、旧体制時代から引き継いだ国営企業不良債権の回収・処理、ルールを巡る論争、一部銀行の倒産など、多くの問題を抱えていた。とくに、体制転換初期においては、銀行は収益性の悪い企業より国債への投資に積極的で、かりに融資を受けられたとしても銀行貸付利子が高く、ほとんどの企業にとって返済は困難であった。1990年代中葉になって銀行制度の整備がおおむね終了し、銀行セクターが安定するとともに、国民経済におけるその役割は一段と増大した。とくに、銀行の企業への資本参加が容易になったため、銀行が企業リストラや国家投資基金などにおいて戦略的投資家として重要な役割を果たすようになった。その一方で、中期的課題はEU正式加盟を視野に入れ、今後さらなる銀行の再編が必要となってきており、EUの中での生き残りを図る大手銀行は、証券業務などを取り込みユニバーサル・バンク化するなどの対応を迫られている。

金融制度改革のもうひとつの柱は、証券市場の整備である。ポーランドの証券市場は中欧最大規模で、経済のダイナミックな成長とともに、急速な発展を続けている。ワルシャワ証券取引所(WSE)1991416日に開設(正式開設は72日)され以来、開設当時5社だった上場企業は、1997年には70社以上に増加した。一日の売買代金は現在15,000万ズウォティ〜2億ズウォティ(5,000万〜7,000万ドル)にのぼっている。1994年には、ワルシャワ証券取引所は中欧で最初の国際証券取引所連盟(FIBV)正会員になった。ポーランドでは、基本的に体力のある企業から証券市場に上場しており、株取引はおおむね健全におこなわわれているといえる。バウチャー民営化の歪みで、多くの株が証券市場外で取引さえているチェコとは対照的である。

税制改革では、当初いくつかの課題があった。まず何よりも、国家財政均衡化を図るため、税収の確保が最優先課題としてあげられたが、転換不況により税収は伸び悩んだ。また、民間セクターの急速な拡大にともなう事業者の増加に対し徴税制度整備が遅れ、このことが脱税やグレーゾーンの拡大に拍車をかけた。限られた予算制約の中で効率的な税制改革をおこなうためには、複雑な税制を単純化し、より多くの課税対象を捕捉できる間接税の比重を高める必要があった。1993年には、社会主義体制の遺物である取引税にかわり付加価値税(VAT))が導入され、その後取引税は一部残ったものの段階的に廃止された。税収に占める間接税の割合は、1993年の48.0%(うち付加価値税13.9%)から、1997年には56.0%(うち付加価値税37.4%)に比重を高め、一方、法人所得税は16.9%1993年)から13.4%1997年)に縮小した。1996年にはコウォトコ副首相によって「パッケージ2000」が発表され、さらなる税制改革への道が示されるとともに、個人所得税率をはじめとした課税率の段階的引き下げが提示された。

 

(解説 中央省庁の再編)

これまで一貫して省庁の整理・統廃合が実施されてきたが、1996年から1997年にかけて、さらに行政の効率化を目指して中央省庁の再編がおこなわれた。まず閣僚会議府が廃止され首相府、欧州統合委員会が新設された。つぎに、中央計画局が廃止され、政府戦略研究センターが発足した。大蔵省(財務省)、商工省、対外経済協力省、民営化省、国土経済・建設省、内務省が分割または廃止され、新たに(新)大蔵省、国有財産省、民営化庁、経済省、住宅都市開発庁、内務・行政省が発足して、新しい時代に対応した行政機構の基礎が形成された。

 

(解説 地方行政改革)

1998725日、ポーランド下院は全国を16の県(Województwo)に区分する法律を可決した。ポーランドには元々17県あり、この行政区分が伝統的、社会的、経済的にみておおむね妥当と思われる地域区分となっていたが、197561日から49県に分割されていた。これは、当時の共産党政権が、地方の権力を封じ込め中央の支配を強化するために県を細分化したと言われている。体制転換以降、地方自治を拡大するための制度整備が進められてきたが、この改革で地方自治の基礎単位を全国2489のグミナ(gmina)とし、それをまとめた全国308の郡(powiat)および都市、さらに16の県という三層構造が確立した。

 

(解説 年金改革)

この改革の柱は、これまで国がプールしていた年金積立金の一部を民間機関を通じて運用できるようになったことである。国民にとってみれば年金資金運用でこれを大きく膨らませ、市場にとって見れば大量の年金資金が市場に流れ込むことによって投資が活性化する可能性が生まれることになる。しかし、市場経済化からわずか10年足らずでの新制度導入で、制度を良く理解していない国民も多く、国民の間で不安の声も聞かれる。
 新制度では、年金は3つの柱(Filar)に分かれる。第1の柱(I Filar)は、従来どおり企業と従業員(または個人)が社会保障公社(Zakład Ubezpieczeń Społecznych: ZUS)に払い込む、いわゆる確定給付型の部分である。第2の柱(II Filar)は、21社ある普通年金協会(Powszechne Towarzystwo Emerytalne: PTE)のうち1社を選択して年金資金の一部(Otwarty Fundusz Emerytalny: OFE)の運用を委託する、いわゆる確定拠出型の部分である。第3の柱(III Filar)は、自由加入型の年金プランで、日本の生命保険会社等が行っている年金保険に相当する。この制度のモデルはスウェーデンが199911日から導入したシステムであるが、チリ、アルゼンチン、メキシコなど中南米諸国の制度も参考にしている。第3の柱は米国のシステムがモデルとなっている。
 普通年金協会運用分にどのくらいの配当がつくかは各普通年金協会の実力次第で、将来同じ年金積立をしたのに受け取る年金額が大きく違うということも起こってくる。普通年金協会が運用に失敗して倒産した場合は、共同で設立した保障機構が年金積立額を保障することになっている。
 従来の年金制度は財源が枯渇しており、将来年金支給が行き詰まるのは時間の問題であった。新制度の導入はこれを解決する画期的制度として期待される。ポーランドでは現在、年金受給年齢が男性65歳、女性60歳となっているが、国営企業民営化やリストラに関連した早期退職制度などの影響で、実際には平均で男性59歳、女性55歳となっている。年金基金を運用するシステムの導入で、この受給年齢を引き上げることができるとの期待もある。

(解説 教育制度改革

 1999年に始まった教育改革により、秋の新学期より「8(小学校)+4(高校))制にかわって「6(小学校)+3(中学校)+3(高校)」制がスタートする。
 この改革は、社会主義時代から続いていたソ連型の教育制度を抜本的に改革するもので、同時に学校の統廃合も進められる。小学校を8年生から6年生にすることによって、これまでより2年早く、より専門性の高いカリキュラムに移行することができる。また、これまで一部の大学に進学する予定の生徒だけが普通高校に通い、多くの生徒が小学校卒業後、職業学校で職業教育を受けていたが、新たな制度の導入により、より多くの生徒が普通高校で教育を受けられるようになる。これにより、大学進学率の上昇、高校卒業後の専門学校教育の高度化を目指す。これは、より多くの高度専門知識を持った労働者を必要とする新しい時代の要請に応えるものである。
 しかし、大半の国民・教師が現在の教育制度に満足していないものの、教育改革が充分国民の間で協議されずに急速に推し進められ、充分な予算措置がなされていないことから、国民・教師の不満、反発は大きい。特に当面の課題は、旧制度と新制度の過渡期にはまってしまった生徒の救済問題、新しい教科書の作成と入手にかかる問題、学校の統廃合による通学の問題、教師の労働条件・給与低下の問題などである。この改革によってポーランドの教育が目覚しく改善されると期待する国民が非常に少ない中での出発だが、政府はこれまでの制度をを早く改善することが重要と、強い姿勢で改革に取り組んでいる。

 

EUへの道

ポーランドの体制転換は、経済安定化、経済自由化段階が一段落し、制度改革を軸としたあらたな移行局面に入っている。ポーランドは中期的にはEUへの参加を目標としており、1991年にECと連合協定に調印して以来(これをもって通常「準加盟」と見なされる)、ほとんどの制度整備作業はこのことを前提として進んでいるといってよい。1997年のEUアムステルダム会議では、ポーランドを拡大EUの加盟交渉国第一陣に加えることが決定された。現在は、2002-2010年頃をめどに加入に向けた制度面でのEUスタンダード化が本格化してきたが、交渉が具体的になるにつれて、ポーランドの伝統的制度や慣習とEUの制度との摩擦が顕著化してきている。

 

(解説)

ポーランドは、966年にカトリックに帰依し、宗教とともにラテン文化を受け入れている。また、法文化もローマ法を基礎としており、EU加盟において根本的な価値観の相違はみられない。しかし、経済構造などの面では、EUとの摩擦も少なくない。

まず、基幹産業の民営化をいかに進めるかという問題がある。所有形態が国営企業のまま安定した経営を行っている基幹産業部門の企業は数多くあり、現在の所有形態別構成でも国民経済全体として比較的安定しているように見えるが、EUに加盟するためには一層の民営化を進めなければならない。そのためには、基幹産業部門国営企業の外資への売却を軸にして民営化を加速する必要がある。こうした動きに対して、外資によるポーランド基幹産業の掌握を懸念する声もあるが、かりに基幹産業部門国営企業が国内資本に支えられたポーランド企業として残ったとしても、EUの中では中規模企業でしかなく、グローバルな競争下で生き残っていくのはきわめて困難であるといわなければならない。

また、経済構造の問題もある。ポーランドの貿易総額にしめるEUの割合は、輸出入とも全体の約65%に達しており、EUとの経済関係は着実に強まっているといえる。しかし、EU加盟に向けてポーランドと共同歩調をとるチェコ、ハンガリーとも対EU貿易では競合しており、ポーランドがいかに輸出競争力を持った特徴的な産業を育てていくかが大きな課題となっている。また、農産物がだぶつき気味のEUと、農産物輸出を促進したいポーランドの間に摩擦は絶えない。ポーランドのEU向け輸出総額にしめる農産物の割合は10%に満たないが、未だ多くの国民が農村で生活していることを考えると、農業の振興は貿易の領域のみならず、社会的にも重要であるといわなければならない。

EU自体が米国主導のグローバル競争に巻き込まれていく中、ポーランドも当面この方向に引きずられて行かざるを得ない。しかし、徹底した個人主義や自由な競争よりも、カトリック的な社会扶助や平等という価値観により親近感をいだく国民層の間で、現在の方向に対する不安が広がってきており、その不安の増大が旧共産党系勢力の支持拡大という皮肉な結果を生んでいる。中・長期的にはこうした価値観のせめぎ合いを繰り返しながら、新たなポーランドの政治・社会・経済体制を模索していくことになるだろう。

 

経済安定化の社会的コスト
 経済的成果が上がる一方、バルツェロヴィチ・プランをはじめとする政府の諸政策が国民生活に大きな犠牲を強いたことは紛れもない事実であり、そのことに対する国民の反発も決して小さくなかった。19939月の国会選挙では、経済低迷に対する国民の強い不満を受けて旧共産党系の民主左派連合が勝利をおさめ第一党になり、中道連合に変わって左翼・農民党連合が誕生した。また、1995年の大統領選挙では旧共産党系のクファシニェフスキがワレサを破って大統領に選ばれた。強力な経済政策を堅持するための政治的コスト、社会的コストはきわめて大きかったといえる。

 

(解説 根強い左翼支持 政府への不満)

 世論調査センター(OBOP)19993月に「もし4月の第1日曜に選挙が行われたとしたら?」という設問で調査を行った。結果は、民主左派連合(SLD)30%でトップ、続いて「連帯」選挙行動(AWS)が第2党(24%)、民主同盟(UW)は第3位だった(13%)。このほか、ポーランド農民党(PSL)と労働同盟(UP)がそれぞれ6%を獲得、またポーランド復興運動(ROP)5%獲得して、足切りの5%条項をクリアーして議席を獲得できることになる。一方、『ポリティカ』誌は、もうひとつの世論調査センター(CBOS)が3月行った「政治家支持率ランキング」調査の結果を掲載している。それによると、第1位は数ヶ月間安定してクファシニェフスキ(Aleksander Kwaśniewski)大統領が占めている(73%)。第2位はクーロン(Jacek Kuroń)下院議員−67%、第3位はグロンキェヴィチ=ヴァルツ(Hanna Gronkiewicz-Waltz)国立銀行総裁−61%、第4位はゲレメク(Bronisław Geremek)外相−42%、第5位はブゼク(Jerzy Buzek)首相 、ミルレル(Leszek Miller)民主左翼連合議長、レッペル(Andrzej Lepper)農民組合「自衛」議長−各41%、であった。過激な示威行動で話題を呼んでいるレッペル農民組合「自衛」議長は、2月にランキングに初登場して以来、急速に支持率を上げている。

 921日に新聞紙上で公表された支持率調査では、「ブゼク政府は解散すべきだ」が45%で、「続けるべきだ」の24%を大きく上回った。

 

(解説 2000年大統領選で左翼優勢)

2000年の大統領選を前に、各派の動きが早くも活発化してきた。民主左派連合(SLD)を軸とした左派は、現職のクファシニェフスキ(Kwaśniewski)大統領支持でまとまりそうだが、それに対抗する勢力の間では、様々な候補予定者の名前があがっている。筆頭は、「連帯」選挙行動(AWS)のリーダーであるクシャクレフスキ(Krzaklewski)で、自らが現政権の首相にならなかったのも、大統領選をにらんでのことといわれる。このほか、ワレサ(Wałęsa)元大統領(ポーランド第三共和国キリスト教民主党: ChDIIIRP)が出馬の意向を表明している。また、ポーランド復興運動(ROP)は、党首のオルシェフスキ(Olszewski)を担ぎ出したいと考えている。
 大統領は5年の任期で、国民の直接投票で選出される。1990年の大統領選では、「連帯」が推すワレサが大統領になったが、1995年の大統領選では、旧共産党の流れを汲むクファシニェフスキがワレサを破って大統領に就任し、その後も高い支持率を維持している。2000年の大統領選では、現職クファシニェフスキの支持層に、中道・右派がどれだけ食い込めるかが勝負となる。

 

(解説 抗議行動の増大)

924日、ワルシャワで大規模な反政府デモが行われ3万人が参加した。この抗議行動は、「全ポーランド労働組合連合(OPZZ)」、「80