日本ポーランド協会 関西センター主催 シンポジウム
ポーランドの貴族とその社会
―華麗なる文化と伝統の源を訪ねて―
現代に息づく貴族の伝統
2002年7月20日 梅田茶屋町アプローズタワー13階にて
田口雅弘
岡山大学の田口です。私のテーマは、現代に息づく貴族の伝統というテーマです。ポーランド・シュラフタについてのシンポジウム自体は大変おもしろい企画で、つい気軽に引き受けたのですが、準備を始めてみると、二つの大きな困難が出てきました。一つは、現代――「現代」というのは通常第一次世界大戦以降を指すのですが――はいうまでもなくシュラフタ制度が廃止されていて、シュラフタ制度がない時代のシュラフタの話しをどのように組み立てたらよいのか迷った点です。もう一つは、シュラフタの「伝統」についてですが、具体的に現代に息づく伝統を整理してみようと思ったらこれがなかなかうまくいかないわけです。結果的に、かなり雑駁な話になってしまうかもしれませんがお許し下さい。
シュラフタの現代に生きづく伝統というのはいったい何だろうかと、いろいろ考えてみました。例えば、ポーランド人やポーランド・シュラフタの特徴として良く取り上げられる「愛国心」というのはそうだろうか。しかし、愛国心というものはどこの国でも、貴族のみの伝統というわけではないわけですね。しかも、シュラフタの愛国心はいろいろな方向を向いていたり、また屈折した形で表現される場合もある。また、単に愛国心を問題にするのであればフランス人も愛国心持っている。それではポーランド的、シュラフタ的な愛国心というのはいったいどういうものだろう。そもそもポーランドは国がなかったわけだから、愛国心といっても、そこに存在しているポーランド民族が愛しているのは社会なのか土地なのか、または将来の国家なのか、これが判らないわけです。ある詩の中にこういう一節があります: ポーランド人たちが「ポーランド! ポーランド!(Polska! Polska!)」と叫びながら歩いていたところ、草むらの陰から神さまが現れてこう尋ねる――「どんな? (Jaka?)」。団結して独立を要求しているポーランド人たちのひとりひとりが描いているポーランドは実は様々なんですね。それでは、いったい「愛国心」ということでシュラフタの伝統を語れるのかというと、これはどうも難しいということになります。
また、シュラフタは民族の歴史に対して非常に大きな責任を負っている、そういう点からシュラフタの伝統を語れないだろうかとも考えてみました。けれども、1921年の三月憲法で貴族制度が廃止されています。そうすると元シュラフタたちが民族に対して、またその民族の歴史に対してどういう形で責任を負ってくるのか、またいけるのだろうか、という問題が出てきます。これもどうもよくわからない。
そこで切り口を少し変えてみました。1921年に憲法で貴族制度が廃止されましたが、その後シュラフタでなくなった人たちは、いったいどうしたのだろうか。どういう職業について何を始めたのだろうか。社会の中にどういうふうに溶け込んでいったのだろうか。それを追うことによって、何か彼らが社会に残した痕跡が見えてこないだろうかと、こういうふうに問題を立ててみました。

まず、図1を見て下さい。これは、19世紀ポーランドにおける社会階層の成立の過程を示しています。つまり、現代につながる社会階層がどのような人々によって形成されてきたかを示しています。線がいっぱい描いてあって複雑に見えますが、逆にいえば、昔の社会グループがいろんな階層に入り込んで混ざり合ったのだと、そういうふうに理解していただければわかりやすいと思います。この図をもう少し詳しく見ながら、昔のシュラフタはどこに行ってしまったのだろうか、ということを見ていきたいと思います。
図には右と左の社会構成区分がありますが、左が1791年の社会構成です。それから右が1900年の社会構成です。封建時代の人たちが、近代的社会の中でどのように仕事を変えていったのか、また看板を変えていったのか、という図であります。まず1791年を見てみますと、シュラフタ階層が大体国民の10%程度を占めています。豊かなシュラフタはマグナート(magnaci)といって非常に豊かな大きな領地を持って、ある意味では国家のように振舞っていました。一方で土地も持たない貧しいシュラフタ(drobna szlachta)もいました。そして、若干の聖職者(duchowien'stwo)がいました。それから、工業はあまり発達していなかったという話が藤井先生からもありましたけれども、いわゆるギルド職人(rzemies'lnicy cechowi)ですとか、都市住民(miejski plebs)などのブルジョアジー(mieszczanie)が若干いました。その中にドイツ人をはじめとする外国人も含まれていました。さらに、ユダヤ人(z.ydzi)が一つ大きなグル−プを作っていました。ポーランドは元々多民族国家で、いろんな民族が混じっているのですが、とりわけ伝統的にユダヤ人を多く受け入れてきました。例えば皆さんよくご存知のアウシュビッツ博物館があるオシフェンチムという町があります。アウシュビッツ博物館は町のはずれにありますから直接アウシュビッツ博物館に行きますと町の全体が見えませんけれども、ずっと奥の方に入って町の方に行きますと、非常に特徴のある町が現れます。オシフェンチムには大体ユダヤ人が50%いました。ですから町の人口のふたりにひとりがユダヤ人だったわけです。そういう町、または村がポーランドにはたくさんありました。そして国民の圧倒的な部分を占めるのが農民(chl/opi)です。わずかに自由農民(wolni chl/opi)がいましたけれども、大部分はシュラフタ領ですとか教会領、王領で働いているいわゆる農奴(chl/opi pan'szczyz'niani)です。彼らは、もちろん土地も持っていませんけれども、土地を離れること自体も許されていませんでした。それから、土地を借りて耕している小作人がわずかにいました。大まかにはこういう社会構成でした。
これが現代、つまりこの図でいいますと右側に移るときに、様々な社会グループに属していた人たちがどんな階層に流れ込んでいったのかということです。シュラフをみると、広大な土地を持っていた領主たちがシュラフタ制度廃止後、いわゆる大土地所有者(wielcy wl/as'ciciele ziemscy, obszarnicy)となっていきます。しかし、第一次世界大戦以降だんだんそうした農地経営が非効率で採算が合わないものになっていきますと、彼らも土地を手放していきます。両大戦間期に二回ほど大きな農地改革が行われて、彼らはだんだんだんだんそうした土地を手放していきます。
それから一部の裕福なシュラフタは、官僚・政治家(urze,dnicy pan'stwowi, politycy)に転身していきます。しかしこれは、シュラフタ制度廃止で突然官僚や政治家になったということではなく、大体19世紀あたりからそういう傾向はどんどんどん強まっていきます。ワルシャワ公国、ワルシャワ王国時代にかなりのシュラフタがそうした国の役職ですとか、地方の役職を握っていきます。先ほど白木先生からお話があったように、シュラフタはシュラフタという身分しかないのですが、しかし彼らのステータスを分けるのは、どういう官職についているか、どのぐらいの広さの土地を持っているのか、どのぐらいの資金力があるのかということでした。
もう一つは、知識人階層(inteligencja)に多く流れ込んでいきます。先ほど触れたように、シュラフタは国民の10%近い部分を占めていましたけれども、彼らの中には、自分たちがポーランド人気質やポーランド性、またポーランド民族、または社会の価値観を担っているのだという自負があります。そうした自負が一つは官僚という方向に向かわせていったわけですけれども、もう一つは弁護士、医者、著述業、芸術という自由業(wolne zawody)の方向に流れていって、新しいポーランド社会、ポーランド人の意識を支えていく役割を果たすようになります。
さらに、シュラフタは基本的には土地を持っているわけですから、その土地を耕して生活していくというシュラフタのグループがいます。そうした人たちが、いわゆる農場経営者(gospodarze)になっていく。さらに、シュラフタでも土地を持たないシュラフタがいます。こういうシュラフタが没落して、大土地所有者のところで働かせてもらういわゆる農業労働者(robotnicy rolni)になる場合もありました。
このように、シュラフタはいろんな階層に流れ込んでいくわけです。これが、一つの大きな特徴です。それではこうした現代の諸変化が、ポーランドの農村・農業にどういう影響を与えていったのでしょうか。
ポーランドの農村の人口は1921年で65%、1938年、つまり第二次世界大戦の直前でも61%、つまり6割以上が農村人口でした。したがって、ポーランドの生産の中心、生活・文化の中心は基本的に農村にあったわけです。その農村の生活はどういう状態だったのでしょうか。約25年まで、私がまだポーランドの学生だった頃、ポーランドで一から歴史教育を受けました。当時習った両大戦間期の歴史では、とにかく両大戦間期がいかに貧しかったのかということをさんざん教えられました。例えば、工業が発達していませんから自給自足状態の農村が広く存在したのですが、そのことが強く印象に残る教育を受けてきました。農民は、現金収入がなく布が買えないから庭で作った麻を自分で編んで服にする。塩を買うお金がないので、ジャガイモを沸かした塩水は1週間ぐらい繰り返し使った。工業製品であるマッチがめったに買えないから、貴重なマッチは縦に四つに切って4回にわけて使う、などです。
ところで余談ですが、社会主義時代に受けた現代経済史の講義の中で、マッチを縦に四つに切って使う話が出たら、突然講義室がザワついて、あちこちからクスクスと笑い声が聞こえてきました。両大戦間期はスウェーデン製のマッチでしたが、さすがスウェーデン製で縦に四つに割ってもちゃんと火がついたのだな、社会主義時代になってからのマッチは1本でもなかなか火がつかない、といって笑ったわけです。学生は正直ですからね。
話をもどしますと、ともかく両大戦間期がいかに貧しいかという話を聞かされてきたわけです。ところが、どうも腑に落ちない事がありました。学校ではこのように習います。ところが老人と話していると全く違う話が出てくるのです。例えば夕食などを食べている時に、「このハムはまずい」とか「この肉は硬くてまずい」とかいろいろ不満をいうのですが、そのときよく出てくるのは、戦前の肉はどんなに美味しかったかという話です。老人のノスタルジーかなとか、おいしい肉を食べられた人が現在まで生きられたのかな、と勝手に解釈してその時は聞き流していましたが、どうも大学で聞く両大戦間期のイメージと、老人から聞くイメージが重ならないのです。大土地所有者の搾取に貧しい農民が苦しんでいるという、いわゆる唯物史観の図式は、どうも違和感がありました。もっとも、後の政権にとってみれば、大土地所有者に搾取される貧しい国民を解放したのは、第二次世界大戦後の社会主義政権であるということになりますから、両大戦間期を貧しく描けば描くほど、戦後の政権の存在意義が高まるわけです。
こうした学校で習っている歴史と実体験のギャップが解消されたのは1989年の体制変革以降です。新しい歴史観、社会主義的でない歴史観が入ってきて、歴史の見直しが始まってみると、どうも両大戦間期は貧しいことは確かに貧しかった。しかし違う部分、光が当てられていない部分もたくさんあるということがわかってきたわけです。例えば、確かに領主が名前だけ変わって大土地所有者になったかもしれない、けれども彼らが貧しい農民を虐げていただけではなく、その地域を支える責任者として懸命に面倒見ていたところもある。また、領主経営がだんだん非効率になって没落していったところもありますが、近代的な農法を取り入れて、高い生産性をあげたところもあります。そうしたところが、その地域に近代的農法を広める役割を果たしていったわけです。さらに、大土地所有者がたくさんの税金を納めています。1929年において、農地の14%を占める大土地所有者が、国の税収総額の23%を支払っていました。国家財政を支える大きな柱になっていたわけです。
一方都市では、シュラフタが官僚や政治家となって新しい社会に流れ込んでいきました。これが現代につながる伝統を醸造していくわけですけれども、これもまた複雑な伝統を作るわけです。というのは、シュラフタは農村では領主だったわけで、そういう人たちが近代国家の中枢を担っていくことになるわけです。一部の啓蒙的なシュラフタは民主化運動の先頭に立つわけですけれども、圧倒的なシュラフタというのはどちらかというと非常に保守的であるわけです。第一次世界大戦後にできた社会は非常に脆弱な社会でした。隣にはロシアとドイツという大国がある。これらの諸国と対峙していかなければならない。そうした国際環境下で、フランスの第三共和制を模倣して作った「民主的な」議会では非常に弱いわけです。様々な勢力が議論だけ繰り返し、それが前向きの国家建設になかなか結びついていかない。そういう中でピウスツキという強力で独裁的な指導者が出てくると、多くの政治家はピウスツキを支持していくわけです。こういう風土は、社会の雰囲気ですとか、政治を担っていた人たちの体質と非常に強く結びつくわけです。
このようにみてきますと、シュラフタがポーランド現代史に与えた影響が少しずつ見えてきます。例えば、フランス革命などでは第三身分といわれる農民や都市市民が立ち上がって貴族の支配を打ち破っていく。ところがポーランドは違うのですね。シュラフタが知識人、官僚、執筆家、医者や法律家として国民の啓蒙を行う、そして一部のシュラフタは農民を育てながらポーランド社会を守っていく、こういう関係が見えてくるわけです。つまりシュラフタが農民と拡張的な関係にあるわけですね。また、人口の1割を占めるシュラフタは、農民と非常に近い、顔の見えるところで生活していて、農村社会をコントロールしている。これが一つの伝統となって生きてきていると感じます。しかし、一方で啓蒙的な役割を果たしながら、古い体質も現代に引き継いでいる。それが、国家運営の混乱や独裁下の土壌になっていくという負の面も忘れてはなりません。
ポーランドでは、シュラフタという一つのしっかりした身分制度がありながら、しかし国家がないという時代があったわけです。それでは、国家が存在しない中でシュラフタが支えていた社会というのはどういうものかというと、それはポーランド人がお互いに精神的に支え合い、または場合によっては生活そのものを支えあうような一つの共同体だったわけです。これはスポウェチェンストフォ(spol/eczen'stwo)という言葉に体現されます。直訳してしまうと「社会」という言葉ですが、英語のソサエティ(society)よりはもうちょっと濃い、泥臭い社会です。そういうスポウェチェンストフォの中で一つの合意を作っていくときに、まったく形式化した議論ではなく、洗練された民主主義的方法でもなく、長い歴史の中でいわば伝統としてポーランド社会に根ざした方法で社会的合意を作っていくわけです。例えばパクタ・コンベンタ(pacta conventa)という合意の形があります。これは基本的には王とシュラフタの一つの合意形成というような形でとらえることができると思います。そのパクタ・コンベンタと言う言葉が例えば連帯運動の中で出てくるんですね。「連帯」はいわば自然発生的に出てきた社会的組織であって、それが公式の政権と対等に議論するわけです。そういう議論を通じて社会の方向を決めてしまうような重要な合意を作ってしまう。1989年の円卓会議もそうです。円卓会議というのは国家が憲法で決めた話し合いの場ではありません。ところが国会ではなく円卓会議という、法律のどこにも書かれていないフォーラム的会議を開いて国家の行く末を決めてしまうわけです。こういう話し合いの仕方、合意の仕方は他の近代社会ではなかなか見られないものです。これも、ある意味ではシュラフタの伝統かもしれません。このようにシュラフタが、現代ポーランド社会のいろんな階層の中にいろんな形で入り込んで、それが伝統といいますか、脈々と引き継がれているシュラフタの息吹といったものを現代に与えているということができると思います。ちょうど時間になりましたので、ここでで終わりたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
<補助記号> a, (aにヒゲ); e, (eにヒゲ); c' (cにアクセント); l/ (lにスラッシュ); n' (nにアクセント); o' (oにアクセント); s' (sにアクセント); z' (zにアクセント); z. (zにドット)
(日ポ協会関西センター『WISLA』第30号 2003年9月31日発行)
