欧州共通教科書『ヨーロッパの歴史』とポーランド


佐々木聡




1.はじめに

 みなさんは『ヨーロッパの歴史』という本をご存知ですか。大判で400ページを越えるボリュームがある代物ですから、図書館で見たことがあるという人が多いと思います。欧州共通教科書と銘打たれたこの本はフランス人フレデリック・ドルーシュを中心に集まったヨーロッパ12か国の歴史家によって完成され、1992年に発行されるとヨーロッパ各国で大きな反響を呼びました。日本語版は1994年に東京書籍から出版され、多くの図書館が同書を備えるに至りました。また、1997年には現代史を主に大幅な改訂がなされた第2版が刊行されました。
 『ヨーロッパの歴史』が大きな反響を得た背景にはヨーロッパ統合への国際的な関心があることが予想されますが、そもそもこの本はどのような経緯で編まれるようになったのでしょうか。また、この本とポーランドとの浅からぬ因縁は一体どのようなものなのでしょうか。『ヨーロッパの歴史』への反響と批判に触れ、第1版から第2版への改訂内容をポーランド関連の記述を中心に紹介していきたいと思います。


2.『ヨーロッパの歴史』の編纂とその反響

 『ヨーロッパの歴史』の編集者ドルーシュはイギリス、フランス、ノルウェーの3つの国籍を持つと自称する銀行家です。各国間の民族的対立を自らの中に抱え込んだ彼は、歴史教育はむしろ不合理な偏見を増幅させる役割をしているのではないかとの疑いを深めます。彼はナショナリズムを脱したヨーロッパ人を育てる教育の必要性を痛感し、それが強い動機となって『ヨーロッパの歴史』プロジェクトを提唱するに至りました。
 ドルーシュは1988年にEC(当時)10か国の歴史家による欧州共通教科書の編集会議を発足させ、その後、ギリシアとチェコからそれぞれ歴史者を迎えて、12か国からなる執筆体制を整えました。(この時点ではポーランド人は編集会議に参加していません。)ここでは本文と図版の割合などのレイアウトに厳密な共通性を持たせた上で、各章をそれぞれの歴史家が執筆する方針が定められました。執筆者が一同に会する会議の模様には興味が持たれるところですが、それぞれの原稿についてかなり厳しい論議が繰り広げられたようです。フランス語版へのまえがきは「各章は1人の著者によって執筆され、それぞれの章を他の11章の記述と緊密に結びつけるために、3年に及ぶ読み直しと討議か必要でした」としています。最終的に決定された章立てと、その執筆者は以下の通りです。

序章   グルーサ(チェコ)
第1章  先史時代〜前4世紀  ベンダー(デンマーク)
第2章  前6〜後5世紀  アルドベール(フランス)
第3章  6〜11世紀  ピスピリンコウ(ギリシア)
第4章  11〜13世紀  グアラキーノ(イタリア)
第5章  14〜15世紀  スミュルダース(オランダ)
第6章  15〜18世紀  ロドリゲス(ポルトガル)
第7章  16〜17世紀  サウコ(スペイン)
第8章  1700〜1815年  ミルン(アイルランド)
第9章  19世紀  アンウィン(イギリス)
第10章  1900〜45年  ティーマン(ドイツ)
第11章  1945〜90年  マッソン(ベルギー)


 3年をかけて完成した『ヨーロッパの歴史』は1991年11月のヨーロッパ評議会の歴史教員セミナーで喝采を浴び、1992年3月にフランス語版が公刊されると、同年中にドイツ語版とイタリア語版が出版されました。ドイツでは刊行と同時に完売するという大きな反響を呼びました。その後、ヨーロッパ各国で出版されましたが、そこにはポーランドなどの非EU諸国も含まれ、さらに日本語版や韓国語版も刊行されるようになりました。なお、日本では同書のフランス語版やドイツ語版の第11章が大学の語学のテキストとして使われることもあるようです。


3.『ヨーロッパの歴史』への批判

 1972年に始まったドイツ・ポーランド教科書対話は、国際教科書作成のモデルケースとして注目されてきました。この教科書対話に詳しい近藤孝弘氏(名古屋大学)は『ヨーロッパの歴史』を以下の点で批判しています。

@植民地について、支配する側であるヨーロッパ中心の史観で記述されていること。
A西ヨーロッパ中心の歴史叙述であるため、東ヨーロッパ諸国での受けとめ方に歪みが見られること。
B翻訳の段階でナショナリズムが介在してしまう傾向があること。
Cヨーロッパの普遍性というべきものが明確に規定されてこといないこと。
Dフランス革命以降の記述が全体の3分の1程度で、近現代政治史を軽視していること。

 Aの問題では、ポーランド語版に見られる意図的な修正が例証とされています。コペルニクスやポーランド分割などについて自国に有利な修正されていることは、むしろ西ヨーロッパ中心の歴史叙述の方に非があるとされています。氏の『ヨーロッパの歴史』への批判は、ドイツ・ポーランド間の教科書対話の経緯を十分踏襲せず、ドルーシュの個人的動機が優先される形で完成された点に帰結していると思います。事実、『ヨーロッパの歴史』はドイツでの教科書としての基準を満たしておらず、欧州共通教科書を称することには甚だ問題があるとも言えるでしょう。
 また、EU当局もこの欧州共通教科書の出版にはとまどい気味だったようです。日本語版の新刊紹介においては「本書はEU成立記念の文化事業の一環ではなく、EUが直接関与した企画でもない。もちろん時代の要請ではあったが、ドルーシュという実業家の夢が現実化したものである」とし、ヨーロッパでの反響をよそにかなり控えめにコメントをしています。  一方、ドルーシュはこのような批判を予想していたのでしょうか。『ヨーロッパの歴史』のフランス語へのまえがきでは「本書はまた討論の場でもあります。(中略)したがって、本質的に異論の余地がある、それどころか疑わしくすら思われる選択も、皆無とはいえないでしょう」として、これらの批判を「最初の汎ヨーロッパ的教科書」を作成する上で避けては通れないものと構えています。


4.第2版への改訂内容

 『ヨーロッパの歴史』は1997年、新たにポーランドの歴史家2名を加えて大幅に改訂されました。この改訂で、ベルギーのマッソンによって執筆された旧第11章が第11章(1945〜85年)、第12章(1986〜96年)の2つの章に分割・増補されたため、紙幅は一挙に40ページ増加しました。ヤン・キェニエヴィッチは編集顧問として改訂に携わり、第11章への加筆・修正、第12章の執筆にはヤン・クシシトフ・ビエレツキが当たったと思われます。(ビエレツキは1991年1月から1年弱、中道連合内閣の首相を勤めた人物です。)ここでは、第11、12章の改訂内容をポーランドとの関わりを中心に紹介していこうと思います。
 まず、第11章は扱う年代が5年分縮小されていますが、多くの箇所の加筆されているため、章全体のページ数に変化はありません。

(1)第2次世界大戦の惨禍について
 ポーランドの被害とそこに形成されていたユダヤ人共同体の犠牲、スラヴ人捕虜やユダヤ人の運命、そしてニュルンベルク裁判での判決についての記述が加えられています。確かに第1版ではナチスの戦争犯罪についての記述が意外なほど少なかったといえます。転じて、ソヴィエト国内での強制移住にも触れ、スターリンが少数民族にもたらした犠牲にも厳しい批判を加えています。ポーランド人らしい史観が反映しているともいえる部分でしょう。

(2)大戦直後の東西の分裂について
 第2版では東側の市民の視点が盛り込まれています。「東側でも、民主的生活が可能であると思われていただけに、多くの人々は、ナチズムとの闘いから生まれた連帯が永続に続くものと信じようとしていた」(354ページ)という文は好例です。また、1948年のプラハでの共産主義クーデターの写真も新たに差し込まれています。一方、西ヨーロッパが協調を模索し始めた1940年代後半、その背景にアメリカの影響力が働いていたことに対して批判的な評価をしています。現在のEUにつながる端緒ですから注目すべき点です。

(3)ヨーロッパ植民地の独立について
 この部分の記述は、植民地を喪失する側のヨーロッパ主体から、独立する側の植民地主体へと全面的に改められました。例えば、第1版では「イギリスは」「オランダは」という主語で植民地を宗主国別に分類しようとしているのに対し、第2版ではアラブ世界、インド、アフリカなどの地域で植民地の事情を説明しています。また、これら植民地独立の動きに対する米ソの姿勢を「両国はそれぞれ、ヨーロッパの力を殺いで、自らの影響圏を拡大したいと望んでいた」(357ページ)と冷静に指摘する記述も興味深いところです。

(4)ソヴィエト型社会主義の輸出について
 第2版は、1956年のブダペスト事件など東ヨーロッパ側の拒否反応よりも、パステルナークの『ドクトル・ジバコ』に代表されるソヴィエト型社会主義そのものが持っていた問題点を際立たせようとしています。スターリン批判の演説を行なうフルシチョフの写真が差し込まれたのも、この文脈に則ったものだと思われます。また、1950年代の中頃、ポーランドでヴィシンスキー枢機卿が拘禁された事件は宗教弾圧の一例として加筆されています。

(5)1950年代のヨーロッパ建設について
 ヨーロッパ統合の動きの源流であるため、いきおい十分に加筆されています。ヨーロッパはアメリカのマーシャル・プランを受動的に受け入れたのではなく、戦災から復興するために自ら政治統合の道を選択したのだという見方がなされ、イギリスのナショナリストの代表者チャーチルでさえ「ヨーロッパ合衆国」を構想したとして、その演説内容が紹介されています。一方、フランス・ナショナリストたるド・ゴールがECの結成に否定的役割を示したことに強い調子で非難を加えています。彼の姿勢を今後の政治統合への抵抗になぞらえて描くことに意味を持たせたのかも知れません。

(6)ブレジネフ政権下の東側について
 ソルジェニーツィンなど反体制派に対するソ連での弾圧、1968年の「プラハの春」とその挫折、1970年のポーランド・グダニスクでの労働者デモの発生などについては、その記述が一新されました。また、1968年にポーランドで勃興した反ユダヤ主義についても付記されています。西ドイツ首相ブラントが展開した東方外交や、1975年のヘルシンキ協定がソ連が与えたジレンマについて本文で詳しく解説を加えるとともに、教皇ヨハネ=パウロ2世のポーランド訪問の写真(1979年)をユダヤ人慰霊碑で跪くブラントの姿(1969年)と対照させています。

(7)第12章について
 新しく起こされたこの章は「統合ヨーロッパに向けて?」と題されています。本文はほとんどが新たに書き下ろされたもので、29ページからなる記述は、ヨーロッパ統合の進展と東ヨーロッパの自由化にその多くを割いています。1980年代後半の単一ヨーロッパ経済圏建設への動きと東欧革命の熱狂、90年代の始まりを象徴したドイツ再統一とソヴィエト連邦の崩壊、旧ユーゴスラヴィアでの内戦、1993年のEU(ヨーロッパ連合)の成立、東ヨーロッパ諸国の歩みと「ヨーロッパ拡大」の可能性が網羅的に論じられています。ポーランドでの政権交代はこの間の変化を象徴しており、ワレサ、マゾヴィエツキ、クワシニエフスキの3人の写真は業績を解説する文を伴って掲載されています。

 以上、第2版への改訂内容を紹介してきましたが、その目的は第1版出版後に沸き上がった2つの大きな流れ、つまりヨーロッパ統合の劇的な進展、東側諸国の政治的変化を本文に盛り込むことであったのでしょう。それが第12章の新設にあたります。また、第1版に加えられた批判に答える性格が含まれているにもお気づきでしょう。それが第11章への加筆・修正です。しかし、翻訳の問題は厄介であり、EU拡大の気運によりヨーロッパの普遍性はよりあいまいなものとなっています。第2版にしても欧州共通教科書として適格ではなく、ドイツ・ポーランド教科書対話の成果を踏まえていない点にはなお批判が留保されています。


5.むすびにかえて

 実際に『ヨーロッパの歴史』を歴史教育の場で使用するとなると、なお多くの問題が予想されます。まず、15〜16歳(日本では高校1年)対象にしては記述が難しいこと。次に内容の精選がいわれる昨今の教育において、400ページを越える分量はいかにも過多であること。しかし、偏狭なナショナリズムを越えた国際教科書の存在は今後の歴史教育に不可欠な存在であると思われます。ドルーシュが言うように『ヨーロッパの歴史』は「討論の場」を与えたと言えます。

<参考文献>


(日ポ協会関西センター『WISLA』第24号 2000年12月発行)