日本ポーランド協会 関西センター主催 シンポジウム
ポーランドの貴族とその社会
―華麗なる文化と伝統の源を訪ねて―
質疑応答
2002年7月20日 梅田茶屋町アプローズタワー13階にて
<藤井>
それでは、お疲れだと思いますが時間があまり残っておりませんので、早速質疑を進めていきたいと思います。
<Q1>
シュラフタという身分を誰が保証したのでしょうか。自分で勝手にやったわけですか、それとも、誰かが「お前はシュラフタだ」と保証したわけですか。
<小山>
シュラフタというのは中世の騎士身分が起源なんですね。この騎士身分の法律的な位置付けは、14世紀頃から徐々に定まってきて、大体その規準に合うような人たちがシュラフタ身分になるわけです。その後、例えば戦場で功績をあげたりして平民だった人が貴族になるというケースが出てくるんですが、だいたい16世紀の後半ぐらいまでは、例えば国王が貴族の地位を与えるということがしばしばありました。それから都市民出身のシュラフタというのもたくさんいたんです。ところが、時期によって変わってくるわけで、今日白木先生のお話にもありましたように、貴族の特権というものがかなり積み重なってきますと、議会の力が非常に強くなってきて貴族身分の重要な権限は国王の手から議会の方に移っていきます。16世紀の終わりから17世紀以降になりますと、議会の承認のもとでないと貴族にできなくなくなるんですね。そうなると、議会を動かしているのは貴族身分の人たちですので、自分たちで認めた人にしか貴族身分を認めないという形になって、貴族という身分が非常に閉鎖的な身分になってきます。それがもう一回開かれるのが18世紀後半の改革の時代なんですが、その後まもなく分割で国がなくなってしまいます。
<Q2>
一つ教えていただきたいんですが、シュラフタというのは元々はその中ではあまり階層の区分がなくて割に等質的な集団であるが、しかし土地を持ってたり持ってなかったり、経済的に豊かな人もいればそうでない人もいる、ということのようなんですが、例えばシュラフタで土地を持ってたり裕福なグループの人たちは、例えば投資家としていわゆる産業活動に投資をしたりとか、あるいは企業家になったというようなケースはあるんでしょうか。
<藤井>
おそらくは、他の国の場合と比べてポーランドの場合少なかったと思います。例えば、マニュファクチュアという産業革命で本格的な工場ができる前の状態というのはポーランドでもロシアやフランスと同じ状況で、シュラフタの領地の中にガラス工場や織物工場ができるんですが、それが育っていって工業になるということは結局ポーランドではほとんどなかったですね。その理由というのはいろいろあると思いますが、シュラフタというのは、今日お話しいただいたいろんな絵等をご覧になるとお分かりのように、改革的であったものがだんだん保守的なメンタリティになっていって、土地に密接に結びついたいわば農村的・地方的な存在なんですね。ですから積極的に近代的なものに変わるという性格を持たなかったんじゃないかと私は理解しています。もちろんそれにはいろんな理由があり、単なるメンタリテイーの問題だけじゃなく制度上の問題もあるとは思いますが。
<田口>
少し別な点から補足しますと、1830年と1863年に2回ポーランドで蜂起が起こってます。11月蜂起と1月蜂起です。11月蜂起は軍事的な蜂起で、力で一揆を起こしてポーランドの独立を勝ち取ろうという運動でしたが、結果的には敗北で終わりました。この11月蜂起の後、社会の雰囲気が変わるんですね。つまり、われわれの力でいくら力の武力蜂起を起こしたってどうせもう勝てない。相手は列強だ。武力でロシアを相手にしても勝てない。そこで出てくるのが、有機的労働という考え方です。歴史研究者の阪東宏先生は「実業」と訳していますが、これは名訳ですね。つまり軍隊を地下で養って政治的な蜂起の時期を待つというのではなく、もっと社会の基盤に根ざして例えばポーランド人の教育を充実させたり、ポーランド人相互の商業関係をもっと活発にしたり、そういうところで民族のネットワークを作って、国際社会の受け皿が大きく変わる時期を待とうという思想です。そのときに、一部のシュラフタが、自分たちのところでいろいろそういう文筆家だとか芸術家だとか教育者を養ったり、自らがそういう新しい知識人層に足を踏み入れていったりしていくわけです。その中で育っていった人たちをみると、一方ではロマン主義的な流れに、つまりシュラフタの昔の過去の古き良き時代の伝統を讃えるような方向に行く人もいれば、ポジティリズムという、それを批判して新しい社会を作っていくような芸術家や知識人も現れてきました。こういう両方の方向が出てくるんですね。こうしたことが,ポーランドの企業家精神の形成に様々な形で影響を及ぼしていると思います。現代でも、様々な社会運動が起こったときに、昔のシュラフタの家の人たちが背後で財政的支援をすることもあります。このようなところにもシュラフタの伝統を垣間見ることができます。
<Q3>
ポーランドはカトリックの国というイメージがあるんですけれども、きょうのお話の中にほとんど宗教の話が関わってきませんでした。シュラフタと、カトリックあるいはキリスト教というものが何か結び付きや関わりあい、あるいは影響が双方にあったのかなかったのか、きょうのお話のようにまったく触れなくてもいい程度の関係であったのか、その辺について、非常に漠たる質問で恐縮ですけれども何かお答えをいただければと思います。
<小山>
大変重要な問題をご指摘いただいたと思います。きょうの報告者全員が確かに反省をしなければならないような問題です。
これは、時代によってかなり、シュラフタとカトリックの関係は変わってくるような気がするんですけれども、きょう私がお話をした16〜17世紀のポーランド=リトアニア共和国は多民族多宗教多言語国家なんですね。宗教に限ってお話をしますと、住民全体の中でカトリックの信徒っていうのは半数を切っていたと思います。後は東方正教会ですね、それから宗教改革の影響が16世紀にポーランドにも及んできますので、プロテスタントに改宗した人たちっていうのが2割弱ぐらい出てきて、しかもその中にルター派やカルヴァン派だけでなくいろいろな宗派があります。非常に寛容な国だったので、西ヨーロッパで迫害された非常に急進的なセクトの人たちがポーランドに逃げて来ます。ですからプロテスタントの中も非常に多様でありました。それから先ほど田口先生が触れられましたけれど、ユダヤ教の信徒がいるわけですね。さらにアルメニア教会の信徒もおります。それから少数ですけれどもイスラム教徒もおりますね。リトアニアにはいくつかイスラムの礼拝施設があったわけです。ですからそういう意味では、近世のポーランド=リトアニアはカトリック世界の辺境に位置していたと同時に、キリスト教世界の辺境にも位置していたわけですね。
その中でじゃあシュラフタは宗教的に見るとどうだったかというと、基本的にキリスト教徒なんです。カトリックはやはり多数派を占めてはいますが、しかしプロテスタントに改宗した貴族もいたし、正教徒の貴族もたくさんいたわけですね。政治的な権利という点で言うと、宗派の区別なく平等でした。ただ、やはりカトリックは支配的な宗教としていくつかの特権を持っています。近世のポーランドの議会は上下両院に分かれているんですけれども、上院の元老院の議席はカトリック教会の司教たちと世俗の国家の官職の保有者からなっているんですね。他の宗教の教会の関係者は議席を持っていません。そういう意味ではやはりカトリックは特権的だし、国王も基本的にカトリックでなければなりませんでした。
また16世紀の終わりぐらいからだんだんとカトリック側の宗教改革に対抗する運動が活発になってきました。カウンターリフォーメーションという、反宗教改革とか対抗宗教改革と訳される運動ですけれど、ポーランドでは非常に成果を挙げて、17世紀以降それまでずっとカトリックじゃなかった多くのシュラフタがカトリックに改宗していくんですね。プロテスタントにいったん改宗したものがカトリックに戻ってくる、あるいは正教会の信徒であったシュラフタの家がカトリックに改宗する、というようなことが非常によく行われるようになって、全体にシュラフタの社会がカトリック的なものになっていくという現象が確かに見られます。その一つの背景は17世紀が戦乱の時代でポーランドは非常に多くの国と戦争をするんですけれども、その相手がことごとくカトリック以外の国なんですね。スウェーデンはルター派ですし、ロシアは正教会ですし、オスマン帝国はイスラムですね。そういったカトリック以外の国との戦争を重ねる中で、ポーランドの国を守るということとカトリックの信仰を守るということがだんだんと重ね合わされてとらえられるようになっていった。そういったことも19世紀以降のポーランド民族意識とカトリシズムとの非常に密接な結びつきというものが形成される下地になっていると思います。ですから、いわゆるポーランド意識とカトリック意識が密接に結びついていくのは19世紀以降のことで、ただその背景は17世紀半ばからあったと、そんなふうに考えたらいいんじゃないでしょうか。
<白木>
今、小山先生がおっしゃったとおりと思いますが、もう一つ、時代的に近代の19世紀になるちょっと前の段階ですね、今お話に出ましたいわゆる17世紀半ばの大洪水の時代以降、まわりの国とポーランドの宗教的な関係を見ますと、どうしてもポーランド人がカトリックの意識を強く持たざるを得ないような状況が非常に強まってくるんではないかと思います。例えば18世紀になりますと、ポーランドの王様というものがロシアとかプロイセンとか周りの意思によって選ばれるということが非常に強まってきます。そういう時に、自分たちはポーランド人であって周りの国とは違うカトリックなんだという意識を持たざるを得ないということが出てくると思います。例えば先ほどお話をしました1791年の憲法は11条から成っていますが、その憲法の第1条が宗教に関するもので、ローマ・カトリックというものがポーランドにおける支配宗教であるという言い方をしています。他方で、宗教的に他の宗派を全く認めないということは言わないんですけれども、カトリックから他の宗教に移った者は、これはいわゆる宗教を捨てた者とみなすという仕方で、やはりカトリックをかなり優位に置いた憲法になっています。ですから先ほど小山先生がおっしゃった流れの中で、18世紀末というのはカトリック的なものが強まりつつもあくまでも寛容的なものがまだ残っている、ちょっとコンフューズな時期なのかなというふうに思いました。
<田口>
大事な問題ですが、確かにさきほどの話の中でふれていなかったので、一言だけ述べさせていただきます。
ヨーロッパ精神の基礎の一つに、間違いなくキリスト教があるのですが、シュラフタがカトリックであるということは非常に重要で、ヨーロッパの中で貴族同士の血縁関係を強めていく上では非常に大きな、役割を果たしているといえます。こうした話は主に西欧諸国との関係で語られる場合が多いのですが、おもしろいケースもあります。例えばシュラフタ・オグロドーヴィと言って、いわゆるロシア正教のシュラフタのグループがいて、この人たちはウクライナに残ってしまうんです。普通は宗教が違ってウクライナに残ればもうポーランドや西欧社会と縁は切れてしまうのですが、この場合、同じシュラフタの仲間だということでその後もいろいろいろんな形で交渉が続くんです。ポーランドとウクライナは戦争をしたり仲が悪くなったりするんですが、そういう中で一つの連絡網を形成していきます。宗教が違っても同じ血でつながっているのだと言う連帯感が残るのですね。ですからいろんな形で複雑に宗教とは絡んでいると言えると思います。
<藤井>
時間のない時に、私からも一言だけ言わせて下さい。
ひとつは、19世紀にポーランドがなくなったときに民族教育などは禁止されます。そのときにカトリックの教会が大きな役割を果たすんですね。先ほどおっしゃったように、そういう時代には、ポーランド=カトリックという、そういうことが非常に強く出てくるということになったと思います。
それからもう1点は、それより遡って16世紀がポーランドの一番の黄金時代と呼ばれるんですけれども、ポーランドの一番のすばらしい時代の16世紀というのがどういう時代であったかというと、一つはルネッサンスの文化が花開く時代、それからシュラフタが完全に自分たちの権利を持って一番強い力を持った時代、それがうまく機能した時代だったんですね。同時に平和であって、しかも宗教的に寛容であった時代だったんです。ですから今申し上げたポーランドの黄金期というのが、ポーランド文化の一つのルーツであろうと私は思いますが、そこでは宗教的な寛容というものがポーランドの特徴をなしていたと思います。
<Q4>
ポーランドはカトリックの国だいうことでその関連で教えてもらえたらと思うのですが、ハムを食べていたら昔のハムは美味しかったと言われ、第2次大戦の前の時代は良かったということをお年寄りから伺ったとお教えしてもらったんですけれども、その背景にはシュラフタとそこに住んでいる農民たちとの間に家父長的な温情的関係があったからだということを指摘されたのですが、それを作り出していた根底的なものは、今ご説明いただいたカトリシズムが背景として繋がっていたと理解していいんでしょうか。
それからもう一つ、ポーランドの国旗なんですが、赤と白で、白が上で赤が下になっていますが、シュラフタと馬のご説明で馬がお化粧して下のほうを赤で塗っていたということを知って、もしかしたらポーランドの旗のルーツはここにあるんじゃないかと思ったんですが、そうなんでしょうか。
<田口>
私に対する質問は、シュラフタと農民の関係は拡張的で、その背景にカトリックというものがあったのではと言うことだと思いますが、これは非常に難しい問題で、はっきり言って私はわかりません。というのは、カトリックが農村にしっかりと根付くのはかなり後のことです。それまでは、アニミズム的、土着的な宗教の雰囲気が農村に残っていました。もちろん、早くから農村に教会はありましたし、10世紀から国教はカトリックですが、本当にシュラフタの意識の中に、または農民の意識の中にカトリックがしっかり根付くというのは意外とごく最近で、しっかりと根付いたのは19世紀あたりのことではないか、というのが私の個人的な印象です。逆に言うと、間違っているかもしれませんが、シュラフタと農民の関係の基礎は、必ずしもカトリックだけではない印象を持っています。
<白木>
田口先生のおっしゃることは確かにそうなのですが、貴族の人たちの生活観というものの中には、さっき小山先生がおっしゃったように、やはり地主的な性格というものがかなりのウェイトを占めていたと思いますが、その中で農民との間の私的なコンタクトというものは、おそらくカトリックやあるいは別の宗派の宗教的なものも含めて、農村社会の中の人と人のつながりという面がかなり大きいんではないでしょうか。16世紀から18世紀の時代においても、シュラフタと農民との間の私的な面でのいろんな結びつきというものが社会の重要な部分を形作っていたんではないかなと思います。
<小山>
赤と白の問題ですけれども、何で赤と白という組み合わせがポーランドの国旗になったのかというと、ちょっと私勉強不足なんですけれども、一つの起源はポーランド王家の紋章の色だと思うんですね。ポーランド王家の紋章は白鷲で、赤地に白鷲なんです。ですからそこからおそらくこの2色の組み合わせが来てるんだと思うんですけれども。ただあの馬が、下半身赤で上が白なのが国旗の起源なのかといわれると、それは多分、そうじゃないだろうと思います。赤と白の色の組み合わせというものが既にこの時代から定着していたということだろうと思います。
<Q5>
19世紀頃からカトリックが根付いてきたというお話でしたけれども、19世紀というのは非常に新しい時代ですね。その根付くきっかけっていうのは何かあったのでしょうか?
<藤井>
いろいろあると思いますが、一つは先ほど言われましたように17世紀頃の戦争がカトリック以外の国を相手にしたものだったために、カトリックのポーランドとそれ以外の宗教の国という形で戦争というものを宗教的な対立として感じ取っていたということと、それから先ほど申し上げたように、19世紀にポーランドが滅びてしまって国が無いときに、カトリックの教会が唯一ポーランド語を自由に話せて、ポーランドの文化や伝統や歴史を語れる場だったんですね。そうすると、その教会というものが結局ポーランドの民族性とか伝統とかということと一体化したようなものになって、ポーランド=カトリックと、そういうことになっていったんだと思います。
<藤井>
他にもまだいろいろ質問がおありかと思いますが、いよいよ時間がなくなりました。日本ポーランド協会では時々こういうシンポジウムをやります。また何年か後にはすると思いますのでまたそのときもお集まりいただきたいと思います。本日は皆様どうもありがとうございました。
(日ポ協会関西センター『WISLA』第30号 2003年9月31日発行)