日ポ協会関西センター会報『ヴィスワ』28号、p.29-32の続きです: 前号で申し上げた通り、昨夏のポーランド旅行のノートは相変わらず行方不明である。センター試験前後に体調を崩したこともあり、『ヴィスワ』前号の記事の続き(関西センター本隊に合流する前1週間のポーランド滞在記)を原稿締切り直前に一まとめにして再現している次第である。
■ ビドゴーシチとトルンの間
8月14日から2泊3日でビドゴーシチ(Bydgoszcz)在住のピアニスト平田隆行会員のもとを訪ねた。彼は7月のシンポジウムの折に婚約者のアーニャを連れて来ていたが、彼女の体調不良により、早退してしまい、ゆっくりと話をすることが出来なかった。そこで翌月の訪波時の再会を約束していたのである。私にとってビドゴーシチは7年前のポロニクム終了後に訪ねて以来である(『ヴィスワ』第13号、拙稿「ポロニクム夏期講座参加体験記」参照)。
平田君は彼女の家や勤務先の音楽学校があるトルン(Torun)とビドゴーシチを往復することが多いらしく、トルンで待ち合わせをすることになった。ワルシャワから午後の列車に乗り、トルン中央駅に着いた。ホームに平田君が迎えに来てくれていた。ワルシャワ〜トルン〜ビドゴーシチを列車で往来するのは少数派であると指摘された。駅や車内の治安の問題・運賃・フリークェントサービス(便数の多さ)でバスは列車を圧倒しているらしい。彼の愛車ルノーで先ずはアーニャ宅へ向う。彼女は自動車学校に行き、不在であったが、勝手知った家らしく、というか平田君はもはや家族の一員という感じで彼女のご両親やお祖母様と接していた。私も簡単な挨拶程度の話をしたが、「ポーランド語を話せません」と言うと「思ったよりポーランド語を話すじゃない」と言われてしまった。ご家族は流石に日本人慣れしているようである。
続いて平田君の自宅へ向う。両市の距離は50qくらいだと思う。トルン市街を出ると道はヴィスワ川右岸の森の中に続く。彼の愛車は優に100q/hを出している。言うまでもないが1車線の一般道であり、路肩を人が歩いていることもある。黄昏時で、そのような人の存在に気づくのが遅れた時にはハッとすることもあるという。車の追い越しも盛んで、ルノーも100数十q/hで追い越し、追い越されしている。当地で運転免許を取得した平田君の運転の迫力もポーランド流である。列車で1時間かかる両市を40分で駆け抜けた。
彼のアパートで一息入れた後は郊外のハイパーマーケットに出かけた。1994年頃から都市近郊にアメリカやフランス資本のハイパーマーケットが出来ていることはよく知っていた。しかし、いつもポーランドの大都市中心部で映画館や本屋や図書館をうろつき、食事は安いBarで済ませることが多く、車という足のない私が郊外のハイパーマーケットに行く機会はなかった。その巨大さ、特に天井の高さに驚く一方、レジでの行列、即ちその要領の悪さは社会主義時代と変わらぬ印象も受けた。
聖母被昇天祭というカトリックの祝日である。お店は閉まっていると思いきや近所のパン屋さんは営業していた。ポーランドも日本同様祝日営業の店が増えたことを思い知らされた。同時に今日は「ヴィスワの奇跡」の祝典行事が各地で行われる日でもある。前年のワルシャワのサスキ公園は人で溢れかえり、祝典をじっくり見る余裕などなかった。しかし、そこは地方都市のビドゴーシチ。昼前に旧市街に行っても人でごったかえすということもなく、1時間半ほどの行事の一部始終を見ることが出来た。平田君は退屈そうにしていたが、祝典行事を彩る軍楽隊の中にビドゴーシチのオーケストラなどの知り合いを見つけることが多かったようである。京都の葵祭や時代祭を見に行き、行列の中にバイト姿の友人を見つけたような感じであろう。
森や緑の多いビドゴーシチは「大いなる田舎」と言われる。人口約40万人でポーランド第8位の都市である。しかし、音楽関係以外は見どころが少ない。同市へは7年前にも来ているということもあり、コペルニクス生地としても有名で、観光スポットの多いトルンへ行くことになった。午後3時前にアーニャの自宅に寄り、彼女をピックアップした後、トルン旧市街を3人で散策する。私にとってトルン観光は、12年前にポーランド資料センター一行と「連帯」10周年記念式典を見るためにバスでグダンスクに向う途中、昼食休憩で2〜3時間滞在して以来であった。あちこちで記念写真を撮った。帰国後、それらの写真を現像してみるとアーニャは私と写っている時よりも平田君と写っている時の方が断然かわいい。特に平田君を見つめる目が…。当然と言えば当然であるが、写真を見ながら何だか妬けてきた私であった。そんなアツアツの二人もビックリしたことがあった。トルン観光の締めとしてヴィスワ川の遊覧船に乗った時のこと。デッキ最後部のカップルが激しいラブシーンを演じている。それを見たアーニャは思わず顔を背け、赤らめてしまった。日本人二人は笑いながらチラッチラッと盗み見をしていた。女性のスカートが殆どめくり上げられていたように記憶している(*^_^*)(思い出し笑い)。
彼女の部屋で色々歓談(後述)した後、男二人はビドゴーシチへ戻った。途中レンタルDVDで平田君イチオシのマフルスキ(Juliusz Machulski)監督の”SEKSMISJA”を借りた。真夜中のKino Hirata。TYSKIEなどのポーランドビールとチップスを手にしながら、日本語同時通訳付きで”SEKSMISJA”を楽しむ。マフルスキは『ヴィスワ』第19号、拙稿「98年夏・ポーランド最新映画事情」でも紹介した確実に興行的に当てる監督である。7月に京都のアダム会員の事務所で行われた「京都でポーランド映画を見る会」でも、同監督の”KINGSAJZ”を見た。驚くべきは、これらの作品が80年代の民主化前に撮られ、公開されていることである(”SEKSMISJA” が1984年、”KINGSAJZ”は1988年である)。随所に見られる社会批判(”SEKSMISJA”ならばジェンダー批判)、それでいてお色気や笑いもふんだんに散りばめられ、見る者を飽きさせない。やはり両作品ともイェジー・ストゥール(Jerzy Stuhl)が重要な役を演じている。同監督作品にはなくてはならぬ名優である。
アーニャというポーランド人の一家、そして平田君というポーランドに骨を埋めつつある日本人と極めてポーランド風の休暇を過ごした3日間はあっという間に過ぎ去った。
■■ グダンスク協定とノーベル平和賞の間
8月15日夕方、トルン観光を終えた我々3人はアーニャの部屋で色々と話をした。二人のなれそめ、将来、私の本業や専攻(ゴムウカ、ヴィシンスキ、「連帯」)、趣味(ワイダ、キェシロフスキ)等々。驚いたのはアーニャの年齢である。平田君とかなり年齢差があるようには思っていたが(彼は30歳)、彼女の年齢を聞いてビックリ、20歳であった。なぜこのような話になったかというと、本職高校世界史教師の私が「現在のポーランドの高校歴史教科書がどのようなものか知りたい」と発言したからである。「去年まで使っていた」と彼女が言うので「まさか」と私も思った。聞けば、彼女のお祖母様がヴィシンスキ(Stefan Wyszynski、戦後のポーランドカトリック教会を支えた聖職者)を支持し、彼に関する記事をスクラップしていた。ヴィシンスキの死からちょうど1年後に生まれたのがアーニャであった。お祖母様からはヴィシンスキの生まれ変わりと言われたこともあるそうである。
翌16日は私の39回目の誕生日であった。午前中、例によってアーニャ宅に寄ると親戚が集まっており、皆から「誕生日おめでとう」の言葉を頂戴する。16日はアーニャのお祖母様の誕生日でもあったのだ。お祖母様のバースデーケーキを私もいただいた。アーニャからはバースデープレゼントを頂戴した。こんな時、気の利いたポーランド語でお返しの言葉を言えばよかったのであろうが、ポーランド語ボキャ貧の私は言葉を失ってしまった。しかし、考えてみると、アーニャは友人の彼女と言うより、自分の娘に近い年齢である。前述の通り、ヴィシンスキの死の翌年に生まれた人と自分の友人が結婚するという事実に改めて時の流れを感じたのである。
実は今回、滞在中に出会った人の年齢によって己とポーランドとの歳月を思い知らされることが何度かあった。ポーランド到着後、最初に宿泊したHOTEL HERAはワルシャワ大学留学生の寮でもある。そこにいた日本人留学生二人と飲む機会があったが、一人は学習院大4年生で政労交渉(グダンスク協定)後の生まれであった。「協定後に生まれた人がポーランドに留学しているなんて」と驚いたのであるが、これなどは序の口であった。無論、アーニャのヴィシンスキ死の翌年誕生もまだ序の口である。
16日夕刻、トルンからバスでワルシャワに戻った私は投宿後、ワルシャワに短期留学中の家本博一先生(名古屋学院大学、日本ポーランド協会名古屋センター)のお宅を訪ねた。新市街の近くにあるお住まいには奥様と音楽留学中のお嬢様もご一緒であった。当方としても研究上のご相談を申し上げようとの考えもあったのだが、夕食時、酒が入るとご夫妻との話題は私の勤務校へと脱線してしまった。家本先生は私の勤務校六甲高校の卒業生である。私の上司や先輩にあたる諸先生の思い出とご夫妻が学生時代を過ごされた神戸の話で盛り上がってしまった。続いてお嬢様の話を聞くと、こちらはポロニクムの話題で盛り上がった。私と同じ先生に習っているとのこと。彼女は日本の高校を卒業して来波してまだ3〜4か月である。つまり、彼女は戒厳令が解除され、ワレサがノーベル平和賞を受賞した(と言っても当時、自宅軟禁中の彼に代わり、夫人が授賞式に出席)1983年頃の生まれということになる。その当時のポーランド情勢と自身の立場を思い起こすと1980年・82年・83年なんて、ついこの間のことのように思えるのに…。一方で、彼女達のポーランド語に比べ、己のポーランド語能力の貧困さを思うと、空しくなる歳月でもある。
何だか老人の繰り言のようになってしまった。もっと古くからポーランドと関わりを持たれている諸先輩からは「高々20年で何を驚いている」とお叱りを受けるもしれない。しかし、考えてみれば、ポーランドで誕生日を迎えるのも、はや5回目となっていた。
■■■ 日本人とポーランド人の間
平田君がポーランドに音楽留学のため出発したのが1993年秋である。今や彼のポーランド語はポーランド人が聞いても、ポーランドの若者が話していると思う程、自然なポーランド語である。生活の基盤もビドゴーシチやトルンにあり、婚約者一家の中にいても、家族として完全に溶け込んでいる。正に彼はポーランドに骨を埋めつつあるように思えた。そんな彼から意外な言葉を聞いた。「所詮、僕は外国人ですから…。」
彼も昔、夜のワルシャワを歩いていて、いきなり殴りかかられた経験を持っている。ポーランド人婚約者一家と家族同然に扱ってもらいつつも、職場の音楽学校の教職員会議でポーランド人教員と机を並べて議論しつつも、どこかに違和感のようなものを感じているらしい。今回の旅行中で非常にお世話になったポーランド在住36年という松本照男氏とのお話からも、似たような印象を受けた。お二人に共通するのはポーランド人女性と結婚し、ポーランドに生活基盤を置いていることである。そして、どこか冷めた目でポーランドとご自身を見ていることである。岡目八目ではないが、異邦人であるが故に見えてくるものがあるのかも知れない。この点、我々日本人以上に日本の伝統文化に精通しているアダム会員(彼の場合は平田君や松本氏と全く逆の立場である)のご意見(=日本観・ご自身のアイデンティティなど)を一度お伺いしてみたいものである。
平田君との話の中で、そのような内実をよく知る「よそ者」の視点からポーランド情報を日本ポーランド協会関西センターに送りたいという旨の申し出があった。私も「書く」という作業は振り返りや癒しの効果もあるからと大いに勧めた。「次号の『ヴィスワ』には”ビドゴーシチ通信”が掲載されますよ」と話をしていたが、残念ながら『ヴィスワ』前号にそのような記事はなかった。仕事が忙しく、ビドゴーシチとトルンを往復し、家にいないのかも知れない。或いはポーランドやビドゴーシチへのアンヴィヴァレントな思いから筆が進まずにいるのかも知れない。平田君の”ビドゴーシチ通信”が届く日を待ち望んでいる。

(日ポ協会関西センター『WISLA』第29号 2003年3月31日発行)