
98年夏・ポーランド三部作+1
置村公男
その2: クラクフ古本や荒らしの掘り出し物
実は今夏のポーランド滞在の目的の中で映画事情探求の優先順位は低かった。ポーランド滞在の二大目的は研究の為の資料集めと知人・友人と旧交を暖める事であった。
それ故、行動表(前号参照)にある通り、図書館通い、「連帯」事務所訪問及び聴き取り調査、本屋・古本屋回りを私は精力的に行った。出発の数日前、信州で行われたポーランド史研究会の合宿で千葉大学大学院生の小沢学君(M2)から「ヴロツワフはそうでもないですが、クラクフは流石に荒らし甲斐がありますよ」と古本屋荒らしの心得などを伝授された。ポーランドの吉岡君から主要都市の本屋・古本屋事情も伺った。更にペンションの宿泊客が書き残した「宿張」(決して「宿帳」ではない。最初に記帳した人が表紙に「宿帳と書こうとして間違って「宿張」と書いてしまい、そのままそのノートのタイトルになってしまっている。)にも杉原辰雄会員をはじめ、各都市の情報が書き残されていた。
ポーランド二目目、吉岡君の案内でワルシャワ大学周辺で彼が開拓した古本屋、或いは学術書が充実している本屋を半日かけて回る。旧市街近くのPWN(辞書を出版している事で有名な会社)直営店でアダム・ミフニクやヤツェック・クーロン(今回の私の研究テーマは「知識人が『連帯』に与えた影響」で、特にミフニクを取り上げようと考えていた。)の本を何冊か購入した事から古本屋・本屋荒らしのツアーが始まった。ワルシャワ大学正門近くの本屋は3年前にもよく通いつめていたので懐かしさもあった。古新聞や古雑誌を扱う専門店では1981年発行の"Tygodnik Solidarnosc"を買った。
古本屋・本屋を回っていて気付いた事がある。新刊本も店によって価格が違うという事である。日本では大学生協書籍部が5〜15%の割引をして、一般の書店との価格の違いを特長としている他は大体どこでも本の値段は同じである。その代わり、古本の割引率は店によって異なっているが、ポーランドでは、そもそも古本屋にある本は新刊本で売られている本よりも価格的に高くなっている事が多い。「その1」で映画館の作品上映周期の短さを指摘したが、店頭に並ぶ本の周期の短さもまた然りである。従って、たとえ価格的に少々高かろうが店頭にあれば、その店で買っておく方が得策である。また、買い損なった時の方法として古本屋の利用がある。古本屋の本の価格が高めなのはそのせいでもある。
小沢君の指摘とは違い、私はヴロツワフもやはり文化都市で本屋・古本屋が充実していると思った。ここは第二次世界大戦終了までドイツ領で(ドイツ語名=プレスラウ Breslau)ドイツ史・ドイツ文学に関する古書を扱った店が多い。大学都市でもあるのでその周辺に本屋も多い。残念ながら私がヴロツワフにいたのは8月14日(金)〜16日(日)という週末・祝日であつたので本屋は全て閉まっていた。
そして、次の訪問地クラクフも荒らし甲斐のある都市であった。ヴァヴェルや織物会館には目もくれず、吉岡君が書いてくれた古本屋リストを手に一日中、旧市街を歩き回った。本好きにも色々なタイプがある。私は本屋を冷やかして回り、表紙や背表紙も眺め、手にとってバラバラめくってみるのが好きだ。東京で大学生活を送っていた頃も、暇ができると理由もなく神田や早稲田の古本屋街を冷やかしていた。その一方で熱しやすく冷めやすい私は買った本を書斎のインテリアとしてしまう事が多い。本好きの読書法にも色々あって、例えば一個の本を丁寧に読み込む「精読(せいどく)」、手当たり次第に本を読みまくる「乱読(らんどく)」、素早く読み込む「速読(そくどく)」、私の場合は「積んどく」である。
翌日吉岡君のリストにあった郊外の古本屋に遠征した。旧市街から歩いて20〜30分くらいのところにある古本屋を2、3軒回っているうちに町の風景が変わってきた。朽ち果てた町並み、入り組んだ路地、でこぽこ道、「よくもこんなところまで足をのばしてきたなあ」と感心しきりであった。(後日、彼に尋ねると、単に電話帳で古本屋をリストアップしただけであった)。ある建物を見て得心した。それは「ユダヤ文化センター」である。そこはクラクフ・カジミエシュ地区であった。
14世紀のカジミエシュ大王がポーランド国家の
土台作りで大きな役割を果たした事は有名である。
都市や法制の整備・塩坑(ヴィエリチカが有名)
開発・大学設置(現ヤギェウォ大学は中欧ではプ
ラハのカレル大学についで二番目に古い)、この
テーマを授業で扱うとき、私は必ずペスト流行に
言及する(村上陽一郎「ベスト大流行」岩波新書
を参照)。14世紀半ば、全ヨーロッパに猛威をふ
るったベストは、今世紀におけるハンセン氏病や
エイズ同様、無知と偏見によって悲劇は増幅され
た。即ち、ユダヤ人が都市の井戸に毒を流したと
いうデマが飛び交い、各地でユダヤ人虐殺が横行
した。そのような中でペストの被害を例外的に免
れたポーランド南部とボヘミア地方だけは反ユダ
ヤ主義的風潮や彼らへの虐殺もなかった(少なか
った)。カジミエシュ大王が国家整備の際に、ユ
ダヤ人をテクノクラートとして招聘したのはその
ような背景からである。従ってポーランド王国の
都クラクフでは他の中世ヨーロッパの都市とは異
なり、隔離されたゲットー(ユダヤ人地区)は形
成されなかった。勿論、既にクラクフの旧市街は
形成されていたので城(ヴァヴェル)の南側にユ
ダヤ人は集中して居住するようになった。この地
区が後に大王の名に因んでカジミエシュ地区と呼
ばれるようになる。また、大王の招聘の結果、ポ
ーランドに多数ユダヤ人が居住するようになる。
第二次世界大戦中、ポーランド国内に多数強制収
容所が造られたのも、その中でも特にアウシュビ
ッツがクラクフ近郊に造られたのも、偶然ではな
く、このような歴史の必然の結果なのである、と
私はいつも授葉で生徒に話をしている。
その私が不覚にも、自分が歩いているところが
カジミエシュ地区であるとユダヤ文化センターの
看板を見るまで気付かなかった。最近の私の研究
テーマや関心がミフニクにある事は既述したが、
彼こそは正に典型的なユダヤ系知識人である。己
の不明を恥じ入りつつ、予定を急遽変更してカジ
ミエシュ地区のユダヤ人の足跡を訪ね歩いた。数
多く残されたシナゴーグやユダヤ人墓地、歴史博
物館、旧市庁舎、どの建物もポロポロなのに、ユ
ダヤ文化センターだけは近代的である。外壁は小
綺麗に塗装しているだけであるが、建物の中に入
ると自動ドア・空調・カフェ・水洗トイレとその
他の建物との違いは歴然とする。ここにポーラン
ド・ユダヤ人社会の現状を見た思いがした。
前述の通り、大戦前のポーランドに数百万人い
たユダヤ人はナチスによる虐殺や亡命、或いは大
戦後の移住によって数万人へと激減した。そのよ
うにユダヤ人が激減した状況でなお、反ユダヤ主
義は潜在し(ヴィスワ17号の拙稿
「ワイダ映画
のユダヤ人 −『聖週間』に見るワイダの問題
意識−」を参照)、事ある毎にそれが顕在化す
る。これは1968年の三月事件(本年=1998年はア
ダム・ミッキェヴィッチ生誕200周年であるが、彼
の「父祖の祭り」を上演しようとしたところ、当
局から「反ソ的」であると圧力をかけられた事に
学生たちが抗議行動を起こし、抗議行動を当局が
弾圧した事件。この事件でミフニクもワルシャワ
大学を退学になる。)や、1990年の大統領選挙を
事例として挙げる事ができる。三月事件では特に
ユダヤ系知識人への弾圧が厳しく、数万人しかい
ないユダヤ人が更に1/3にまで減少した。また、大
統領選挙でワレサ候補がマゾヴィエツキ候補をユ
ダヤ人であると攻撃したのに対して、マゾヴィエ
ツキは自分がユダヤ人ではなくシュラフタの血筋
を受け継ぐ者であると反論して逆に反ユダヤ主義
の風潮を助長した。カジミエシュ地区も戦後、居
住人口が激減したのであろう。人が住まなくなっ
た家が朽ち果て、廃屋と化し、無気味な雰囲気を
醸し出している。その一方、在外ユダヤ人のポー
ランド在住ユダヤ人への資金的援助はやはり大き
いのであろう。その証拠が立派なユダヤ文化セン
ターである。なお、最近、藤井先生がポーランド
のユダヤ人問題について興味深い論文をお書きに
なったので参照されたい(藤井和夫「ポーランド
におけるユダヤ人間題の一層面 −19世紀ワル
シャワの同化ユダヤ人を中心に−」、『関西学
院大学人権研究』創刊号所収)。
街を歩いていると初老の婦人から声をかけられ
た。ユダヤ人の歴史に関心があり、ヨーロッパの
街を訪ねるときは必ずゲットーやシナゴーグを回
っている事を話した。ほんの2〜3分の立ち話であ
ったが、別れ際に彼女は私に「シャロン(ヘブラ
イ語で『さようなら、再会を期して』の意)」と
言ってくれた。
(『WISLA』第20号 1998年12月1日発行)