
留学体験記
COPYRIGHT 1997 by Masahiro Taguchi & Megumi Yagi, Japanese Club in Warsaw

ポロニクム夏期講座参加体験記
置村公男
1995年7月29日(土)〜8月25日(金)の約一ヶ月間、ポロニクムの夏期講座に参加した。今回のポーランド行きの目的は、大学院で修士論文を書く為に最低限必要な語学力を身につける事であり、その為の資料集めを行う事であった。当然ながら、授業料・宿舎代(ワルシャワ大学の学生寮に宿泊)は全額自分で払ったので、ポロニクム当局が用意したプログラムには全て参加するつもりでいた。月曜から金曜の午前中は語学の授業、午後は平日5日のうち3日がビデオを利用したポーランドの都市・生活風俗・歴史の授業や映画鑑賞会、土日はエクスカーション(クラクフ方面に1泊2日)・ワルシャワ市内のユダヤ人ゆかりの地を回る散歩・コンサートがあったので、ワルシャワを離れる時間的余裕は講座終了までなかった。3年前にウッジでお世話になった方々にお会いしたいと思っていたが、それが果たせなかったのは残念至極であった。その代わり、講座終了後にビドゴシュチに平田君を訪ねて、彼の友人達と楽しい一時を持つ事は出来たが…。
出発前の「勉強するぞ!」というヤル気とは裏腹に、図書館や大学の施設は8月は休館やら開館時間の短縮やらで利用しにくく、又、公式文書等の閲覧も目論でいたが、その為の面倒な手続きを出発前に何もしていなかったので、出来ずに終わってしまった。結局、自由時間はワルシャワ市内の本屋を冷やかして回ったり、ワルシャワ在住の日本人とお会いしたり、寮の部屋での読書と授業の予習復習、寮の仲間と一緒に街に出て飲んだり食べたり語り合ったりして…、という事で潰れてしまった。
そもそも夏期講座に参加している寮宿泊の学生の中には、お小遣い(奨学金)をもらって1カ月間ポーランドに遊びにきているという意識の人も少なからずいるようだ。「朱に交われば…」で、私も一回りも歳の違う学生達との草の根?の交流を勉強よりも重視するようになった。要するに一緒に遊び回ったのである。「俺は一体何をしに来たんだ!」と後に平田君と飲んだ時に嘆くと、「いやぁ、置村さん、それも青春の1コマですよ。」と慰められた次第である。
寮で私のルームメイトはイタリア人、オーストリア人、スロヴァキア人で特にイタリア人のピエロという名の青年とよく話をした。寮の仲間はオーストリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、イタリア(特に北イタリア)、スロヴェニア、クロアティアから来ている人と当初仲よくなり、その次にデンマーク、スウェーデン、フィンランドからの人たちと親しくなった。考えてみれば前者は旧ハプスブルク帝国領の出身者で、後者は環バルト海地域の出身者である。要するにポスト・コミュニズムのポーランドの国際政治上の関係が文化行政や文化交流にも影響を与えているわけである。勿論、寮には前述の国からの人たちだけでなく、ロシア、ベラルーシ、ブルガリア、トルコ、ドイツ、フランス、スペイン等、ヨーロッパ中から集まっている。ヨーロッパ以外の国からの参加者といえば私だけであった。インド系イギリス人、韓国系ベルギー人や先述したトルコ人など文化的にアジア系の人はいたが、国籍でアジアは私だけであった(トルコもNATO加盟国であるから政治的にはヨーロッパと言えるかもしれない)。
映画をポーランド文化理解の材料として見たと書いたが、実際のポーランド映画はもはやこの国の代表的文化とは言えない。ポロニクムのプログラムを別掲したが、それをご覧になってお分かりのようにポーランド映画の代表としてキェシロフスキのトリコロール三部作が上映さえた。94年のポーランド映画の代表作は『トリコロール・赤の愛』というのが一般的意見だと聞いた。「監督以外は全くポーランドとは関係ないじゃないか?」と私などは首を傾げたくなるのが、皆さんはどう思われるだろうか?
ポーランド映画の失速の原因の一つとしてワイダの元気のなさを挙げる事が出来るかもしれない。出発前日寸暇をさいてワイダの『鷲の指輪』を大阪でみたが、『灰とダイヤモンド』とは比ぶるべくもない作品であった。そのワイダが精力を傾けたのが、クラクフの「日本・美術・技術センター」で94年11月に開館した。ヤシェンスキの浮世絵コレクションを中心とした日本文化を紹介する美術館である、と言いたいが、現実は…。何故「技術センター」なのか? パンフを買ってみたら、出資した日本企業の名前がズラ〜リ並べてある。展示場の周辺部に浮世絵や掛軸を展示し、その中央部の展示スペースには日本企業の車、バイク、コンピューターなどがあるというミスマッチである。青年海外協力隊の一員として浮世絵の整理に当たっている日本人に話を聞いたが、センターの運営自体が権力の二重構造をなし、即ち、ワイダを中心とした京都クラクフ基金関係の人が運営を仕切り、現場で美術品を整理している者(彼らは職責上は国立クラクフ博物館の館員である)は完全に蚊帳の外に置かれている。誰の為のセンターなのか? 何の為のセンターなのか? 分からない状況である。
ポロニクムとは無関係のポーランド近況報告に話が流れてしまったが、先述のように当初の思惑とは異なるポーランドでの1か月を送った結果である。何せ日ポ協会で劣等生の私である。折角、ポーランド語を藤井先生に教えて頂いても全然身につかない。ポロニクムの最初のクラス(レベル)分けの試験を受けた時でも否定生格を忘れていた程である。それでも1か月もいれば何だかポーランド語が話せるようになった錯覚を覚えたものだが、その錯覚も日本に帰ってポーランド語から疎遠になると…。また元の劣等生である。
六甲学院教諭 (関西版『WISLA』第13号、1995年12月29日号より)
