クラクフと近郊(続)


中島邦彦





 「ポリ公め、おれの5ドルを自分のポケットにいれやがった。あいつは警察という名の強盗だ。」ビルケナウ収容所からクラクフに近いビエリチカに 向かう途中、自タクの運転手は、ヤミ交換で得たドル札を没収した警官のことを悪し様に言い、ぼやき続けた。交換現場を押さえられたのは、私が 収容所を見学していた間だから、知らない振りをしていた。

 ビエリチカの岩塩坑前で自タクを待たして、見学の受付に行くと、どこの国からきたのかとたずねられた。ポーランドに滞在している日本人だと 答えたら、それじゃあと、ポーランド人のグループに加えられた。もう一つのグループはロシア人だった。ここはその昔、岩塩を採掘していたとこ ろで、観光の名所となっている。鍾乳洞に入った経験もなかったので、多少の不安はあったが、ポーランド人達と一緒に工事用のようなエレベータ に乗り、百数十米(メートル)の地下に降りた。坑木で天井を支えられた坑道にはたくさんの分岐があり、うっかり迷い込むと帰れなくなりそうだ。 案内人の先導で進むと、地下水のたまった塩水潮があり小舟まで浮かんでいた。往事の坑夫の作業状況を示した人形や木製の巻き上げ機、無数の塩 の結晶でおおわれた古いほうきなどが展示された部屋があったが、圧巻はなんと言っても礼拝堂であった。いくつかあるうち最大のものは地下101 mにあり、この巨大な塩坑を発見したと伝えられる聖女キンガが祀られていて、大きさは1万平方メートルの堂々たる地底の大殿堂である。天井から 下がるシャンデリア、壁際にたたずむ聖人の像や聖書の場面を表すレリーフはいうにおよばず、堂全体が岩塩の彫刻である。試しに像の台座をなめ てみたが、確かに塩辛かった。地下211mには、塩水を利用したサナトリウムまであり、実際に使用されていると説明していた。

 700年の間に掘り進んだ坑道の全長は320kmというからその規模は想像を絶する。観光客が2時間半のコースで回るのはほんの3kmあまりだそう だ。ユネスコ指定の世界文化遺産のなかでは十指に入る価値のものだろう。

 ジュール・ベルヌの小説にでも出てきそうな別世界から、エレべーターで地上に戻ると、自タク氏が待ちくたびれて運転席で眠っていた。車の窓 ガラスをたたくと、ぴくっとして起きすぐにエンジンをかけた。映画「大理石の男」で見たノバフタ製鉄所を経由してホテルまで送らせ、降りると きに約束の15ドルに5ドルを追加して渡すと、運転手はなにか別のことをいおうとしたようだったが、私の顔を見て「ジェンクイエン、バルゾ(どう も有りがう)」とうれしそうに受け取った。

 クラクフから東南ヘバスに乗り50kmあまり行くと、ザコパネというところがある。タトリ山地の麓に位置する山とスキーのセンターであり、 「ポーランドの冬の首都」とあだ名される町である。年間2百万もの人がやってくるとのことであるが、訪れた5月のはじめは、ピークを過ぎたのか、 さほど混雑している様子はなかった。クラクフでザコバネのホテルの予約が出来なかったので、まず宿を探すことにした。バスを降りてほかの客 の歩く方向に行こうとしたとき、道の真ん中に赤ら顔の大きな男が仁王のように立っていた。人待ち顔をしているので、地元の人間だろうと見当を つけて「ホテルはないか」とたずねると、男は一緒にこいという風に手招きして、歩き出した。<案内してくれるのか。ありがたい>とついてい くと、男はバスの客たちとは別の道を大股で下っていく。しばらく歩くと、道巾はだんだん狭くなり農家風の民家の庭についた。

 怪訝に思って「ホテル?」というと、男は庭にある小屋の戸を開いた。中には粗末なベッドと椅子が見えた。<なーんだ民宿だったのか、どうせ 寝るだけだからここでもいいや>と考え宿賃を聞くと、一晩200ズウォティという。当時の交換レートは1ドルが33ズウォティだから、6ドルほ どである。<へー、民宿は安いんだなー>と札入れを取り出しズウォティ札で前払いしようとすると、男は目ざとく札入れにあったドル札を見つけて、こっちの方がいいという。当方としてはどちらで も良いので、何ドルだ、ときくと、2ドルと答えた。1ドル100ズウォティの立派なヤミドル・レー卜である。4ドル払って2泊することにしたむ。あとにも さきにも、2ドルの宿に泊まったのはここだけである。比較にはならないが、ワルシャワのヴィクトリアホテルは素泊まり100ドルだった。 男は小屋の外 の蛇口で琺瑯を引いたミルク缶ほどの入れものに洗顔用の水を満たし、ベッドの脇に運んでくれ母屋に引っ込んだ。小屋の内壁には一部が剥げた鏡と キリストを抱いた聖母マリアの絵がかかっていた。

 町の中心部へ出てあちこちを散策するとザコバネ地方独特の木造の民家がおもしろかった。市場で夕食用に若干の食料を仕入れた。そのときにビ タミン源をさがしたところ、太さはセロリの茎ほど、長さは大きな蕗くらいで、少し赤みがかった緑色の野菜を見つけたので、生で食べられるだろ うと一緒に買って小屋に戻った。小さな台の上に旅行用のナイフとフォークを並べインスタント紅茶をつくった。ポーランドで最高といわれるジー ベッツの地ビールとキューバサ(ポーランドのソーセージ)がうまかった。ところがセロリの親戚だとおもって買つた野菜は、そのまま囓ってみる とまるでスカンポのようにすりばくすっぱく、とてもいただけるような代物ではなかった。ポーランド人はこんな物を食っているのかと驚いた。ラー バーバーと呼ばれ、砂糖と煮て、ジャムにしたりケーキの材料に使われる野菜であることを知ったのは帰国してからである。

 翌日はロープウェイでタトリ山脈の大カスプロヴィ山(1985m)にのぼった。山頂から滑降するコースがあるらしくゴンドラの客は殆ど全員がス キーを担いでいる。久しぶりで滑ってみたいが長期出張先の異国で骨折でもすれば会社に大迷惑をかけてしまうのであきらめるはかはない。ゴンド ラがぐんぐん登ってゆくと、下界は霧で見えなくなった。2本日のロープウェイの終点が頂上であり、客たちは喜々としてスキーに履き替え、滑り 降りていってしまった。5月とはいえコートに短靴では雪の山を歩くことはできない。所在ないことこの上なかったが、駅舎に隣接したレストラン を見つけ、薫製の鶏とビールで少しばかり時間をつぶした。あとは下りのゴンドラに乗って降りるしかなかった。すれ違うゴンドラは、なお続々とや ってくるスキー客でどれも満員だが、こちらは、一人だけであり、なんとも格好の付かないことであった。町をぶらついてから民宿にもどる と母屋のお上さんがきて、夕食に招待してくれた。いま考えると、小屋の中を掃除した際、前夜の食事の跡をみて、哀れに思ったのかもしれない。  母屋の二階に上がると宿の夫婦のほかに若いカップルがいた。近くにすむ息子夫婦で、珍しい国の客が来ているからと、呼びよせられたようだっ た。夕食はサラダとピーナツバターやチーズを乗せた簡単なカナッペと紅茶で、食後はウォッカをすすめられた。こちらが多少ポーランド語を解す ると思って、いろいろたずねてくるが、この地方の方言もあるのか半分もわからず、全部は答えられなかった。最後に名前くらいは聞いておこうと、 手帳とボールペンを渡したが、大男が書いてくれた字がこれまたわからなかった。若夫婦に綴りを確かめて分かったのが「スムロコヴァ通り23番 地のスタニスワフ・トロイヤック」だった。昭和55年のことだったからいまはどうしているだろうか。

 私は旅で珍しい風物を見るだけでなく、いろんな人に巡り会うのが好きだ。広い地球の上でたまたま出会い、同じ場所で同じ時を過ごして互いの 人生の片鱗にふれ、そして別れた後に時折ふと思い出す。それが旅の余録だと思う。(おわり)

(『WISLA』第21号 1999年6月1日発行)