クラクフと近郊


中島邦彦





 ポーランド南部にクラクフという都市がある。 14から16世紀におけるポーランドの首都であった。 世界大戦で壊滅状態になったワルシャワと違って、 中世の建造物が今なお数多く残っており、日本の 京都にたとえられる。

 ポーランドがまだ社会主義陣営に属していた頃、 仕事で北部のトルンという小都市に足かけ3年の間 滞在したが最初の年の5月に、短い休暇を利用して クラクフとその近郊へ出かけた。

 トルンから夜行列車で400キロあまり南下するの だが、その間トンネルが一つもない。「ポルスカ (ポーランド名)」という国名は「平野」に由来 するのも、むべなるかなである。この国には良質 の無煙炭を産出する露天掘りの炭鉱があるからか、 現在も蒸気機関車が走っている。予約していたホ テル・クラコヴィアはバベル城のすぐ近くにあっ た。ヴィスワ河を望む岡の上に建ついにしえの国 王の居域は荘厳なシルエットを見せている。まだ 朝が早かったからか、他に見物人はいなかった。 拝観料もいらないので、遠慮なくはいって行くと、 城壁の内部には王侯の住まいの他に大きな教会ま で建てられているのが見えた。地下室には歴代の 王侯の棺が置かれているということを後日知った が、がらんとした教会の中に一人で立っていると、 思わず身が引き締まった。むかしここで礼拝をし た王や王妃達の霊にじっと見られていたのかも知 れない。

 その昔、クラクフを外敵が襲ったとき、守神の 竜が火を吐いて町を守ったという伝説がある。そ の竜の像は岡の中腹にあり、今も目を光らせてい る。ホテルのそばから路面電車に乗ると市の中心 にある大きな広場まで行ける。広場の真ん中には、 スッケニッツアと呼ばれる市場が建っていて土産 物などの店が入っているが、これは昔織物商が集 まり取引をしていた所である。スッケニッツアに 並んで建つ塔の地下には、ピールやワインを飲め る店があった。薄暗い電灯の下に、何百年も使わ れているような厚い木のテーブルが並び、奥の小 さな舞台では、3・4人のジプシーの楽団が独特の 甘く切ないメロディを演奏していた。ハンガリー のワインを飲んでいると、バイオリンを持った男 がそばに来て、リクエストは無いかと聞いた。と っさに思いつかなかったので「君の得意なのをや ってくれ」といったが、チップを欲しかったに違 いない。

 広場の一角には聖マリア教会が建っている。教 会の塔には毎時ラッパ手が登り時報を知らせる。 塔の窓からラッパを覗かせ、四方に向かって一度 ずつ吹き鳴らす。もの悲しい調べの短い曲は4回と も同じで、最後の音節で不自然に急に止まる。こ れは、13世紀にタタール(モンゴール)人が来襲 したときに、クラクフ市民に急を知らせていたラ ッパ手ののどが敵の矢に射抜かれたという故事を 再現していると聞く。毎日正午にはこのラッパの 時報がラジオで全ポーランドにも流されるという。 700年以上昔の怨念を、今なお呼び覚ましているわ けである。

 聖マリア教会の横を通って広場を出て、フロリ アンスカ通りに出るとヤマ・ミハリカというカフ ェがある。ここは19世紀のポーランド芸術家達の たまり場であった。内部は今もなお当時の雰囲気 を残していることで知られている。劇作家として も画家としても有名なヴィスピャンスキイの描い た絵があると聞いていたので、勇気を出して店に 入った。シャンデリアの明かりは暗めで、たばこ で煙っている。まるで古い映画の一場面に迷い込 んだような気がした。壁には沢山の絵が架けられ ているが、どれがヴィスピャンスキイのものかわ からない。年増のウェイトレスがきびきびとテー ブルの間を歩いていたので、コーヒーを注文がて ら恐る恐るたずねてみた。彼女は、この東洋人は なんにも知らないんだな、とでも言いたそうな軽 蔑のまなざしで近くの絵をあごで示した。その時 の極まり悪さを覚えているが、ヴィスピャンスキ イの絵のモチーフは記憶から消えている。

 翌日はクラクフ郊外を見物した。クラクフのバ スターミナルで時刻表を見ていると、中年の男が 近づいてきて、どこに行くんだと聞いた。オシビ エンチムとピエリチカというと、俺は車を持って いるが20ドルでどうだという。15ドルならと値切 ると応じたので合意した。いわば白タクである。 オシビエンチムはポーランド名である。ドイツ領 時代はアウシュビッツと呼ばれた町で、ナチによ るユダヤ人のホロコースト(大虐殺)が行われた 収容所がある。第1収容所は「アルバイト・マハ ト・フライ」(働けば自由になる)の標示で有名 である。記録映画を見せる管理センターがあった が、時間待ちだったので残念ながらパスし、車を 待たせて、煉瓦づくりの収容棟を順に見学した。 ここは常時1万8千人のユダヤ人が収容されていた ところである。廊下にずらりと貼られた写真に見 られる囚人服姿の老若男女は、ナチに殺された 150万人と言われるユダヤ人のほんの一部である。 順路を進むと一部屋毎に、犠牲者の残した髪の毛 眼鏡、鞄、靴それに義足までが展示されている。 身につけられていた遺品それぞれが持ち主を偲ば せて胸を痛める。確か子供の玩具や人形などもあ ったと思う。建物の間には弾痕の無数に残ってい る銃殺の場所があり、いくつかの花束が置かれて いた。見学者は説明を聞きながら声も出なかった。  第2収容所ビルケナウ(ポーランド名プジェジ ンカ)は3キロはど離れた場所にある。煉瓦づくり の建物の真ん中にユダヤ人を運び込んだ鉄道の引 込線の通る門が開いている。一緒に来ないかと誘 うと、白タク氏は「ここで待っている」と身震い して断った。

 門をくぐると、引込線は収容所の囲いの奥まで 延びている。列車止めのところに鎮魂の火がとも され、その近くには、崩されたガス室の跡があっ た。線路の両側には収容所のバラックが整然と並 んでいた。かつては250以上のバラックがあり、最 高時には14万人のユダヤ人が収容されていたとい うことだ。ガス室のあたりに立って見ていると、 急に空が曇ってきて大粒の雨が降ってきた。振り 返ると、門まではかなり距離があり、走っても行 き着くまでにはずぶ濡れになる。とっさに近くの バラックに飛び込んだ。がらんとした屋内の薄暗 さに目が慣れると、木製の粗末な三段ベッドが並び、 壁にはユダヤ人が書き残した落書きが見え思 わず寒気がした。外を見ると、何人かいた見学者 の影も無くなっていた。幸い通り雨だったのか数 分でやんだが、あのときほ長く感じたことはな い。ようようの思いで門を出ると、白タク氏が、 べそをかかんばかりにしおれている。

 駐車中に通りかかったアメリカ人見学者相手に ポーランド通貨と米ドルのヤミ交換をしていると ころを運悪く警官に見つかったらしい。尋問を受 け名前を控えられたうえ交換で手にした5ドルを取 り上げられたという。少し可哀想になったが、そ のときは「さあ、ピエリチカに行こう」と促した。

(『WISLA』第20号 1998年12月1日発行)