戦後ポーランドの文化を語る:
回顧と展望 コワコフスキ、ミウォシュ両氏に聞く
(聞き手 工藤幸雄)


Interview with L.Kolakowski and C. Milosz by Yukio Kudo, 1983.9.25, Tokyo


『ポーランド月報』編集部注: 本年(1983年)9月、現代ポーランドの知性を代表する2人のポーランド人がほぼ同時に来日した。哲学者のL.コワコフスキ氏と詩人のC.ミウォシュ氏である。コワコフスキ氏は、9月12〜15日、軽井沢で開催された国際シンポジウム、「20世紀とは何だったのか」(国際交流基金主催)の16人のパネリストの1人として招かれ、一方ミウォシュ氏は、9月13、14の両日大阪で開かれた国際シンポジウム、「21世紀への英知−ノーベル賞受賞者は提唱する」(大阪青年会議所、毎日新聞社他主催)に5人の報告者の1人として招待されたものである。この機会に工藤幸雄氏を交えて行われた討論の要旨を紹介する。『月報』掲載を快諾された両氏に心からお礼を申し上げたい。なお、文責はすべて編集部にある。

コワコフスキ、レシェク Kolakowski, Leszek 1927年生れ。ポーランドの哲学者。1958年からワルシャワ大学教授。スターリン死後の1954年以来、党内修正主義派の旗手。56年事件10周年にあたる1966年、ワルシャワ大学で行ったこの10年間の改革の失敗を総括する講演のため、党から除名、68年解職。イギリスに渡り、オックスフォード大学教授。KORメンバーの1人。主著『歴史と責任−知識人とマルクス主義』(勁草書房)ほか。

ミウォシュ、チェスワフ Milosz, Czeslaw 1911年、リトアニア生まれ。ポーランドの詩人、随筆家。1980年ノーベル文学賞受賞。第2次大戦中AK〔国内軍〕に加わり地下活動。戦後外交官としてワシントンとパリ(46〜50年)。スターリン体制に絶望してフランスに亡命(51年)、のちアメリカへ渡り(60年)、以後カリフォルニア大学教授。「連帯」の精神的支柱の1人で、グダンスクの70年事件記念碑の文は彼による。代表作『まひるの明かり』ほか。


終戦前後の文学者組合

工藤: 戦後のポーランド文化について話をうかがいたい。私の知るかぎりお2人友ポーランド文学者組合に在籍しておられる。

コワコフスキ: 私は文学者組合に入っていたがチェスワフ〔ミウォシュ〕はちがうのでは?

ミウォシュ: そんなことはない。1981年にポーランドに行ったとき、文学者組合のシチェパンスキ会長が会員証をくれて、「あなたはずっと前から文学者組合員でした。ただ書類が紛失してしまっているのですが・・・」と言っていた(笑)。しかし文学者組合は解散されてしまったから、われわれはもう自分の意思で組合から出ようとしても出られない。ずっと組合員のままでいることになるだろう。

工藤: 文学者組合は戦後すぐの時期は体制寄りまたはソ連寄りという印象が強い。その後しだいに性格が変わってきたようだ。

コワコフスキ: 文学者組合は1956年以降は絶えず体制の目の上のたんこぶだった。それ以来、いわゆる共産主義的な意味で「健康」な組織になったことは一度もない。

ミウォシュ: 私は戦争直後の文学者組合を覚えている。私がクラクフにいた頃で、クルプニチャ通りに支部があった。私はその第1回目の会合に出席した。1949年までは「作家労働組合」という戦前の名前だった。戦争中は組合活動は凍結されていたが、フォクサル通りの組合食堂に作家たちがよく集まり、また共済活動も活発に行われていた。戦争中にしか表面に出てこない種類の人間というものがいる。忘れられないのはジグラルスキ氏で、新聞記者だったと思うが、戦前は無名だったが戦時中、金融活動などの面で積極的に活動した。ワルシャワ市の金庫から作家たちに融資できるようにしたのは彼だ。この金を借りる時には、誰も返すことは考えていなかった。というのも、ともかく戦争がどう終わるのか誰にもわからなかったからだ。白状するが、私はバカなことをした。借りた金を戦後全部返してしまったのだ。地下で「作家の夕べ」といった催しも盛んだったし、もちろん作家本来の仕事を進められていた。戦後私はクラクフで組合幹事会を党員たちが乗っ取る過程をこの目で見た。党側に立って乗っ取り作戦を最も積極的に進めたのがカジミェシュ・ブランディスだ〔今は亡命作家となっている〕(笑)。私は当時反体制側にいた。


多くの作家が党員に

コワコフスキ: 戦争直後、多くの作家が党員だったことを忘れてはならない。それもPPR(ポーランド労働者党〔共産党〕)の党員たとえばだった。ヤストルン、アンジェイエフスキ、コット、ヴァジク。短期間だったがナウコフスカも入っていたし、マリアンとカジミェシュのブランディス兄弟も。

ミウォシュ: アンジェイエフスキがPPRとは聞いていない。少なくとも45年には絶対に入っていなかった。

コワコフスキ: 48年〔PPRとPPS(ポーランド社会党)が合同してポーランド統一労働者党が成立した年〕以前はまちがいなくPPRにいた。その他若い作家連中では、ヴィルプシャ、ヴォロシルスキ、ボヘンスキ、ポミャノフスキ、私。短期間だがアドルフ・ルドニツキも。彼は党費を納めるのがいやですぐやめた(笑)。おわかりのようにポーランド文学の大御所が全部PPRに入っていたし、また入っていなくても大部分が作家が体制に同調していた。たとえばトゥービン、スウォムニスキ、ガウチンスキ、イレナ・クシヴィツカ、それからある程度までここにいるミウォシュもそうだ。だから、「ポーランドの共産主義は知識人の支持を全く得られなかった」とは言えないし、むしろ正反対だ。

Photo:(c)『ポーランド月報』、1983 ミウォシュ: そうだ。それに運命論的なあきらめの境地で体制に同調する作家たちもいた。マリア・ドンブロフスカやスタニスワフ・ステンポフスキなどだ。ステンポフスキは45年にもう、「この汚物は世界中にまんえんするにちがいない」と私に言っていた。ドンブロフスカはある程度体制に反抗する心がまえを見せていた。

工藤: 日本でも戦後多くの作家が共産党に入ったが、だんだんやめていった。

コワコフスキ: これもひとつの社会的過程である。逆にイヴァシキエヴィチはずっと非党員だったが体制には忠実だった。

ミウォシュ: そう、イヴァシキエヴィチが戦後最初に書いた詩は、ウッチの町を描き、赤と白の旗〔ポーランド国旗〕が云々という内容だった。「ビエルート大統領への手紙」という詩も書いている。

工藤: その原因は何だったのか。冷戦?それとも戦後の希望に満ちたポーランドの建設?

コワコフスキ: この時期、思想というものが非常に大きな役割を果たしたと思う。とくに戦前からの知識人は全体として左に傾いていたと言える。新しい体制ができた時、ほとんどの人がこれは昔からのラディカルな伝統をもった社会主義運動の延長だと考えた。社会主義体制に皆が同調した大きな原因は戦前の複雑に絡みあった政治の現実に対する反感だと思う。


第2次大戦前のポーランド

工藤: 戦前のポーランドではファシズムはあったのか。

コワコフスキ: 戦前のポーランドがファッショ的だったとは言えないだろう。いくつもの合法的政党があり、中にはPPSのように巨大な力をもつものもあった。ポーランド共産党も非合法ながら1920年代から活動していて、それが解散させられたのも、ポーランドの戦前の体制によってではなく、コミンテルンによってだった。しかし、ピウスツキ元帥が亡くなっていわゆる「大佐政権」になった時、左翼的知識人が大いに不安を感じ、嫌悪感をもったのは事実だ。ミウォシュもどこかで当時の政治的雰囲気についてふれ、「われわれは戦前のポーランドを惜しいと思っていない」と書いている。何に嫌悪感を抱いたかといえば、ますますひどくなる愚鈍さ、反ユダヤ主義、影響力を強める過激な右翼に対する政権の無為・・・。一般的にいえば、バカバカしい政治だと皆が感じていた。戦後、知識人たちが社会主義支持の行動をとったのもこの影響が大きかったと思う。

工藤: 日本の場合、敗戦が民主主義をもたらしたが、ポーランドには戦前も男女同権などある程度の民主主義があった。強い労働組合もあって、労働者は有給休暇の権利を持っていた。

コワコフスキ: ポーランドの戦前の社会福祉制度や憲法は非常に進歩的だった。男女同権は完全に守られていた(フランスが男女同権になったのは戦後のことだし、スイスなどつい最近のはずだ)。国全体は貧しく、とくに農民の状態はひどかったが、法的制度は非常によかった。検閲はたしかにあったが、戦後とはちがい事後検閲で、印刷されたものは没収されたが、ものを書くこと自体は禁じられていなかった。時々白いスペースのある新聞などが出ていたが、戦後の検閲と比べれば作家にとって豪勢なものだった。


社会党と民族派の歴史的対立

ミウォシュ: ポーランド問題の理解には19世紀末のポーランドにおけるある対立を理解しなければならないと思う。すなわちPPSと民族連盟Liga Narodowa の対立のことだ。この対立が第1次大戦以後も続いた。ポーランドの初代大統領は民族派(民族連盟の流れをくむ)の男に暗殺された。PPSには色々な人がいて、社会主義者のほか、少数民族の代表者、自由主義者、フリーメーソンその他がいた。ピウスツキ元帥のクーデターを歓迎したのは彼らだった。民族派は特にピウスツキ死後活発となり、たとえば極右のボレスワフ・ピアセツキ(現在のPAX〔戦後体制との協力を旗印とするカトリック勢力の一部〕の親玉)は1937年にクーデター計画さえもっていた。結局、1939年、つまり第2次大戦前夜のポーランドを特徴づけるとすれば、非常に強い排他的民族主義ということになる。それ以来、民族narodという言葉は特定の思想ないし観念を持つ一派の独占物となった。だから私はこの言葉が嫌いである。ところでこの対立が今でも存在しているのは間違いない。たとえば、民族派にいわせればKORはトロツキストの陰謀である。

コワコフスキ: フリーメーソンとユダヤの陰謀という説もある(笑)。

ミウォシュ: 民族派で今も西側でジャーナリストをしている男に言わせれば、「KORの目的は権力を奪い、血なまぐさいトロツキスト的テロを行うことにあった」という。「連帯」にもいろいろな考えの人が入っていた。なにしろ1千万の組合員がいたのだから。そこには国民が歴史的に持っていた対立がそのまま受け継がれている。その中で民族派が相当羽根を伸ばしていたのは私もよく知っている。たとえばこの間にある本で読んだのだが、リトアニア人が「連帯」に対して非常に冷たかった。その理由は、「連帯」の中に民族主義者がおり、「ヴィルノ〔リトアニアの首都〕はポーランドのものだ」と言ったりしたことにあった。

コワコフスキ: 「連帯」内には原則派と現実派のふたつの大きな流れがあり、原則派は戦前の民族主義的伝統を受け継いでおり、現実派は戦前PPSの伝統に従い柔軟な考えを持っていたと聞いている。知識人の問題に戻るが、戦前、作家たちは大部分PPSに近い考えを持っていた。民族主義的な考えの作家は非常に少なかった。


カトリックとユダヤ人の問題

ミウォシュ: そこから戦前のポーランドにおける知識人と教会の対立が生まれた。ミフニクが書いている(『教会・左翼・対話』)ように、当時、教会は右翼のとりでと言われていた。新カトリックの作家はほとんどおらず、作家としてカトリックに親近感を示すのは非常に度胸がいった。

コワコフスキ: それはおもしろい現象だ。当時も全ポーランドがカトリックだったのはまちがいないのだから。本にも書いたことがあるが、ポーランドのカトリック教会は17世紀から非常に硬直化し、貴族社会を基盤としてあらゆる改革に抵抗、外の動きに対する能力がなかった。しかしだからこそ、つまり硬直化し、伝統を重んじ、外からの影響を受けなかったために、三国分割時代にあれほど大きな動きができた。すなわち教会は、ポーランドのあらゆる価値観の貯水池となったわけだ。サルトルも同じように言っている。

ミウォシュ: マリア・ドンブロフスカに言わせれば、17世紀の”大洪水”〔スウェーデンによる侵略〕の時にポーランドが占領されなかったのもカトリック教会があったためだ。ポーランドの東にはウクライナ、白ロシア、リトアニアといった非常に大きな国があり、そこにはポーランドと同じくカトリック教会があった。ロシア帝国、そしてのちにはソ連は、最も重要な政策としてこの地域のカトリック教会をつぶそうとした。ウクライナにはポーランド・カトリックの影響を受けたウニト教会〔ローマ教皇の首位権を認めながらギリシャ正教会の典礼、習慣を維持するウクライナあたりに独特の宗教〕というのがあって、これがウクライナ民族主義の温床になっていた。ポーランドの教会は西と東の境い目にあり、それなりの性格と役割を持たざるをえない。

コワコフスキ: ウクライナ・ウニト教会について言えば、これに対する弾圧はエカテリーナU世の時代(18世紀末)に始まり、ニコライT世の時に一番ひどかったと思う。冷酷、残虐な弾圧があった。だが帝政ロシアはこれを根絶できなかった。根絶したのはボリシェヴィキの時代になってからのソ連である。

工藤: ユダヤ人問題も今のポーランドではアクチュアルな問題ではないか。今も当局はこれを利用している。

ミウォシュ: 戦前ポーランドのユダヤ人問題を知っている人にはアクチュアルだろう。

コワコフスキ: 政府がユダヤ人問題を利用するのは昔からのやり口だ。


ポーランド文化の将来

工藤: ポーランド人作家がどんどん外国へ出ていっている。バランチャク、K・ブランディス、グウォヴァツキ・・・・。ワイダ監督も西側で仕事をしている。今のポーランド文化は19世紀文化に似てきているのではないか。当時、ポーランド作家の大部分が外国で活動していた。これからはどうなるのだろうか? ミウォシュ 非常に悲観的にならざるを得ない。戦後すぐ私は、さきに引用したステンポフスキと同じように、「この汚物が世界にまんえんする」と考えていた。ある種の運命論だ。その頃ヴァジクがクラクフで酔っぱらって私の肩をかかえながら、「おまえはポーランド最後の詩人だ」と言ったのをよく覚えている。でも、たぶん私はポーランド最後の詩人とはならないだろう。その後、当時からすると想像を絶するような事件が次々とおこった。ポーランドは否応なしにソ連化されると皆が信じていた。ポーランドはソ連の1共和国化されるのでは、と。それは根拠のない話ではなかった。もちろん、ポーランドがソ連の共和国になってしまったなら状況は非常に悪化しただろう。しかしその後の動きからはっきりしたのは、過去という要素がとくに東欧では大きな役割を果たし、歴史に圧力となってあらわれるということだ。また、論理的には絶対に生まれてくるはずのない新しい世代がポーランドには生まれてきた。もちろん、ポーランドの体制の犯罪について問えば言い尽くせないほどたくさんあるが、同時に社会変革の面でいくつかの業績があった事実も忘れてはならない。たとえば、高等教育を受けた人の数は戦前と比べものにならないほど多い。また知識人と労働者の境界がある程度消えたのも事実だ。今のポーランドでは何百万の若者が何らかの教養を持っている。それはいろいろな分野で活躍している人の苗字を見てもわかる。われわれの世代から見れば喜劇的ともいえる苗字の人〔農民などの出身者。ポーランドでは昔の貴族の血を引く苗字とそうでない平民の苗字が別れている〕が立派な役割を果たしている。これは農村出身の人たちも教育を受けられた証拠である。

コワコフスキ: 第2次大戦直後は思想的混乱があった。多くの知識人にとって共産主義は18世紀啓蒙主義の延長であり、左翼合理主義であった。それが多くの知識人が共産主義体制に合理性を認めた根拠でもあった。しかし現在はこのような共産主義観があったという痕跡すら残っていない。すなわち、思想的観点からすればこの体制は完全に死んだものである。これは楽観的要素といえる。思想的にはヤルゼルスキもラコフスキも共産主義思想をまじめに受けとめていないのは明白だ。それは死滅したのである。つまり、昔の価値観で残っているものはひとつもないし、どれひとつまじめに扱うこともできない。


崩壊するソ連共産主義体制

 共産主義体制は権力の正当性の危機を感じている。この体制はその権力の正当性の基盤をイデオロギーに置いていたからである。共産主義体制の権力は民主的選挙に基くものでも、ブルジョアの経済的力に基くものでもない。唯一の正当性の論拠は思想にあった。もちろんだからといって思想がなくなればすぐ崩壊するというものではない。ただまちがいないのは、この危機が根深く、また思想を再び活性化させるのは不可能だということである。同じことはソ連についても言える。今やソ連の権力の正当性を裏付ける思想はソ連帝国主義、国家帝国主義の論理だけだ。しかしこれはポーランドやチェコスロヴァキア、ハンガリーには通用しない。そこで、これからどうなるという問題だが、私はソ連帝国崩壊の道をたどるほかないと考えている。共産主義思想が末期症状を示している現在、体制に必要なのは新たに権力に正当性を与える思想であるが、そのような思想は存在しない。彼らは権力を維持する根拠を明確に提示できない。なぜなら、それは明らかにロシアの排他的な民族主義に立った国家帝国主義の論理でしかないが、これを明言するわけにはいかないからだ。だから彼らは今、その中間の方法を模索しているが、それは幼稚で、すぐウソと見抜けるようなしろものだ。この帝国が存在基盤を欠き、崩壊するほかない体制となったのは明らかである。残る問題はひとつ。それは、「いつ崩壊するか」ではなく、「どのように崩壊すれば世界戦争をおこさずにすむか」である。ソ連のような国は内部危機を克服するため戦争という賭けに出る可能性が非常に大きい体質だからだ。むろん彼らとて戦争は望んでいないだろうが、他に方法が一切ない状態になる可能性は十分ある。だから、ソ連をいかに戦争をともなわずに崩壊させるかが今一番大きな問題だと思う。

工藤: KORや「連帯」の活動はその試みだった。

Photo:(c)『ポーランド月報』、1983 コワコフスキ: そのとおり。「連帯」の活動は歴史過程に平和的に介入したものであり、帝国の腐食を促進させる試みだった。それは最も危険な爆発を避けるべく歴史に介入したのだ。私自身、どのような方法が良いか明確な確信はもっていないが、「連帯」がやった以外の方法はなかったのではないかと思う。

工藤: 現存社会主義についてどう考えるか。

コワコフスキ: 現存社会主義とはソ連の支配を意味する以外のなにものでもない。すなわち奴隷制である。ロシアにおいて奴隷制が形式的になくなったのは18世紀末、奴隷制が廃止されたのが1861年だった。19世紀末から20世紀初めにかけて奴隷制と農奴制は解体されつつあったが、ロシア革命で両方とも戻ってきた。すなわち、ソ連型共産主義−他の共産主義はもう死滅して意味がなくなっている。−はロシア国内における自由化と改革に対する反動である。つまり奴隷制に戻ったということである。これは歴史的過程の逆流である。

ミウォシュ: 重要なのは、ある御しがたい平行線がこの世界に存在していることだ。ヨーロッパでもアジアでもソ連の支配下にある国の国民は体制が何をしてきたかを経験で身にしみて知っている。しかしそれをポーランドのように声に出して言える国民はとても少ない。西側、たとえば南米などは、共産主義の内容をようやくこれから発見しなければならないのだが、発見した時はもう遅い。キューバのようになってしまう。キューバ国民は体制の本質を認識しただろうが何もできない。これは地球規模の大きな問題になってきたと思う。

コワコフスキ: さて、これからわれわれが果たせる役割を具体的に考えると、最も重要なのは、共産圏に住む人々に対し彼らが置かれている実態を認識させるためにラジオなどあらゆる手段を用いて情報を与えることだ。ソ連当局は、自国民がいろいろな情報に接することが何を意味するかをよく知っている。だからこそ巨費を投じて電波妨害をする。巨大な機構が西側の活字や電波が伝わってこないように日夜動いている。アメリカ人はプロパガンダという言葉を嫌うので、情報を流すことはあまり高く評価していないらしいが。反対に東側のでき事を西に伝えることも重要だと思う。ポーランド資料センターがポーランドのでき事を日本国民に伝えているのは、歴史的意味合いを持つ非常に重要な仕事である。

1983年9月20日東京にて〔訳:高橋初子/水谷驍〕



Photo:(c)『ポーランド月報』、1983


グダンスクにある70年事件犠牲者祈念塔。塔下部には、ミウォシュの次のような詩が刻まれている。

  なんじ、無辜の民を虐げ
  なお自らの悪に笑みを浮かべる者よ
  自らを安泰と思うことなかれ
  詩人はすべてを書きとめている
  詩人を殺すなら殺すがよい−−新たな詩人が
  頭をもたげ
  おこないとことばは書きのこされる


(『ポーランド月報』(ポーランド資料センター)、第20号、1983年11月5日, pp.2-7.)