日本ポーランド協会 関西センター主催 シンポジウム

ポーランドの貴族とその社会

―華麗なる文化と伝統の源を訪ねて―

シュラフタと馬


2002年7月20日 梅田茶屋町アプローズタワー13階にて



小山哲







 小山でございます。「シュラフタと馬」というタイトルはやや唐突な感じがするかもしれませんので、最初にお話の意図を述べさせていただきます。シュラフタについては先ほど説明がありましたようにポーランドの貴族身分全体を指す呼び名ですが、問題はなぜ「馬」なのかということです。一口にポーランドの貴族文化と言っても、いろいろな側面があります。近世のシュラフタには、少なくとも4つの顔がありました。騎士としての顔、農場を経営する領主としての顔、国王の宮廷に仕える宮廷人としての顔、そして最後に、さまざまな政治的権利を行使する市民あるいは公民としての顔です。このうち最後の政治的な顔については、あとで白木先生が詳しくお話になりますので、私はあまり触れずにすませようと思います。残るシュラフタの3つの顔、つまり騎士・領主・宮廷人としての側面を一度にお話しするのは30分という私の持ち時間のなかでは難しいことですが、馬との関わりを通して見ると、この3つの側面に少しずつではありますが触れることができます。そこで、そういう便利な切り口として馬と貴族文化の関わりを考えてみたいと思います。

 今日の日本では、競馬の好きな方を除けば、日常生活のなかで馬と接することはほとんどないと思いますが、ポーランドでは田舎に行けば今でも農作業に馬を使っているところがありますし、ワルシャワやクラクフの旧市街に行けば観光用の馬車が走っています。そういう意味ではポーランドの人たちの方が日本人よりも馬と接する機会が多いかもしれません。時代を遡れば、馬とポーランド文化との関係はさらに密接なものになります。ポーランド語には、今ではほとんど使われないような古い表現も含めて、馬の種類や毛並みを表す言葉がたいへんたくさんあります。こうした馬にかんする言語表現の豊かさも、ポーランド人と馬との関わりの深さを示しています。

 貴族と馬とのあいだには、一般の人びととはまた違った独特の強い結びつきがありました。最近ポーランドでは貴族的な生活様式や文化遺産への関心が高まっており、さまざまなシンポジウムが開かれてその成果が出版されています。そのような出版物を見てみますと、かならずと言っていいほど馬や馬車にかかわる問題が取り上げられています。もちろん馬の他にも牛・羊・豚など家畜はいろいろいるわけですが、(猟犬を除けば)馬以外の動物が貴族文化との関わりのなかで議論されることはほとんどありません。そういう意味では、馬は貴族にとって特別な家畜でした。こうした貴族と馬との密接な関係は、歴史の中で形成されてきたものです。いわゆるシュラフタ的な文化の伝統の枠組みが出来上がるのは、ルネサンスからポーランド分割にかけての時期、つまり16世紀から18世紀の終わり頃にかけての近世の時代です。この時代には、馬はシュラフタの生活にとってなくてはならない存在でした。ちょうど現代の私たちにとって自動車が不可欠の移動手段であるように、近世の人びとにとっては馬が最も重要な移動の手段でした。しかしシュラフタにとって馬の持つ意味は、それだけにとどまりませんでした。歴史家でもあり民俗学者でもあったヤン・スタニスワフ・ビストロンは「馬はシュラフタの友人であり誇りであった」と述べています。つまり、馬は貴族にとっては単なる移動の手段以上のもの、特別な心の絆で結ばれた生き物だったのです。

 近世のポーランド貴族は中世以来の騎士としての伝統を受け継いでおり、国家の危機ともなれば、武器を手にとり、馬を駆って、戦場にはせ参じる人びとでもありました。馬は戦場で戦うシュラフタにとって重要な足となるとともに、生死を共にする同志でもあり、両者の感情的な結びつきは非常に強いものがあったのです。17世紀の「大洪水」といわれる戦乱の時代を生き抜いたヤン・フリゾストム・パセクという貴族は、戦場でともに戦った愛馬の死を悼む詩を書き残しています。「お前とのあいだの親しみと愛情、それは私たちが共に育ったことによるのだ。ひとたびお前にうち跨れば、十万の敵でも少なく見えた。お前には勇気もあり、度胸も十分、命じなくても最前列に歩みでた。〔…〕私たちはこんなふうに別れたくはなかった、こんなにつらい悲しみと共にさよならを言いたくはなかった。お前は私に名誉を授けてくれたのだから、私もお前の老後をいたわるはずだったのだ。〔…〕お前のことを思い出しては重いため息をつき、心の底から泣くばかりだ。さようなら、私のさし毛よ」。戦友としての愛馬を失った痛みが伝わってくる詩です。

 このような馬との親密な関係が成り立つ背景として、もう一つ、多くのシュラフタが自分の領地で馬を育てていたことを指摘しておかなければなりません。シュラフタには騎士としての顔とは別に、農場を経営する領主としての側面もありました。馬の飼育は、麦の作付けや牛や豚や羊の飼育と並んで、領主としてのシュラフタの重要な仕事の一つでした。19世紀のロマン主義文学を代表する詩人アダム・ミツキェーヴィチの有名な長編叙事詩『パン・タデウシュ』に「飼い主の目で馬は肥える」という一節があります。主人公のタデウシュ青年の一族はシュラフタ身分の出身で、彼のおじさんである判事の家でも、羊や牛と並んで馬を放牧していました。馬の育ち具合は、農場の主人の細やかな心遣いに大きく左右されました。これは逆に言えば、馬を見ればその貴族の農場経営主としての手腕がわかる、ということでもあります。それくらい馬の飼育は領主としてのシュラフタにとって特別な意味を持つ営みであったわけです。シュラフタの所領の規模はさまざまで、中には隷属する農民を持たずに自分の手で畑を耕すような貧しい貴族もいたわけですが、そこそこの貴族であれば数頭から十数頭の馬を飼っているのが普通でした。自分の家で馬を飼っているわけですから、シュラフタは子どもの頃から馬に親しむようになります。男の子は、幼い頃から馬にまたがることを覚え、4、5歳で近所に馬で出かけるようになり、10歳を越えれば荒馬をいかに乗りこなすかを競いあうようになります。たんに馬を乗りこなすだけでなく、馬上で武器を使いこなす練習も欠かせませんでした。16世紀に刊行されたミコワイ・レイの著書のなかに貴族の子どもたちが勉強する情景を描いた木版画がありますが、そこには馬に乗って槍で紐につるした輪を突いている青年が描かれています。馬に乗ったまま槍を突き出して、槍の穂先がうまく輪の中に入れば合格というわけです。

 シュラフタの若者にとって、巧みに馬を操ることは、女性の目をひきつける条件の一つでもありました。アンナ・スタニスワフスカという18世紀のある貴族女性は、回想録のなかで、のちに夫となった男性の魅力について、彼は馬に乗る格好がとても良くてますます好きになったと書いています。もっとも馬に乗るのは男性だけではありませんでした。ポーランドの貴族女性が馬を上手に乗りこなしたことを示すエピソードが残っています。1638年にポーランド国王ヴワディスワフ4世はウィーンのハプスブルグ家の宮廷を訪れました。その訪問の折に、余興として馬を走らせながら的を射撃する競技が行われました。日本でも走る馬の上から矢を射る流鏑馬という競技がありますが、あれを銃を使ってやると考えたらいいでしょう。この競技で、ポーランド国王に付き従ってきた3名のポーランドの貴族女性が上位を独占しました。

 こんな風にシュラフタは男女を問わず生まれた時から自分の家で飼っている馬と日常的に接していたわけですが、マグナートと呼ばれる大貴族ともなると、広大な所領で数百等から時には数千頭の馬を放牧するケースもまれではありませんでした。近世のポーランド=リトアニアの領土は今日のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、さらにロシアの西部にまで広がっていましたが、大貴族による大規模な馬の放牧は、その国土の東部から東南部で行われていました。ポーランド人はときどきこの時代のポーランド=リトアニアの領土について「海から海まで」という言い方をします。これは、国土が北はバルト海から南は黒海の北岸にまで及んでいたということを表現しているのですが、このうち南の海、つまり黒海の北に広がる辺境地域では、ポーランドはイスラム世界と境を接していました。このような近世のポーランド=リトアニア国家の空間的な広がりは、シュラフタが飼育する馬の品種にも影響を及ぼしています。近世のポーランドの馬は、トルコやアラビア産の馬、あるいはハンガリー産の馬など、いわゆる東洋馬の血統の影響が強かったと言われます。これは近世を通じてポーランドが、タタールやオスマン帝国などのイスラム世界と、交易や戦争を通して接触を持つ機会が多かったことによるものです。シュラフタは東洋馬をたいへん高く評価し、イスラム教徒との戦争にさいしては相手方の馬を戦利品として非常に珍重しましたし、大貴族のなかにはイスタンブールやシリアまで種馬を買い付けに行かせる者もいました。現在でも、ポーランド語の馬や馬具にかんする用語には、トルコ語起源の単語がいくつかあります。馬だけでなく、馬具や武器、さらには服装にかんしても、シュラフタはトルコとの接触を通じて東洋的なデザインの影響を強く受けることになりました。他方で、ポーランドにはイタリア産やスペイン産などの西洋馬も輸入されており、その意味では近世のポーランドは東西の馬種の血統が混ざり合う境界地域であったと言えます。このような状態は、18世紀の終わりから19世紀にかけてイギリス産の馬が流行するようになるまで続きました。東洋馬の血をひく近世のポーランド産の馬は、やや小型ながら走りが軽快で耐久力もあり、軍馬として高い能力を発揮しました。ポーランド王権は、ポーランド産の馬の国外への流出を防ぐために、16世紀前半から17世紀半ばにかけて繰り返しポーランド産の馬の輸出禁止令を出しています。

 近世のポーランド軍は、18世紀にいたるまで騎兵が中心でしたが、これは当時のヨーロッパにおいては異色でした。近世は、ヨーロッパにおける戦争の戦い方が大きく変化した時代です。中世のヨーロッパでは、軍隊の主力は重い鎧兜に身を固めて槍を構えて突進する騎兵でした。しかし16世紀になって鉄砲が普及すると、騎兵が突進しても、歩兵が列を成して銃を構えて発砲すれば、騎兵は敵陣にたどり着く前に倒れてしまうことになります。日本でも長篠の合戦(1575年)で織田信長が足軽の鉄砲隊によって武田の騎馬軍団を粉砕しましたが、それと同じことが起こったわけです。その結果、西ヨーロッパ諸国では、中世以来の重装騎兵に代わって銃を構えた歩兵が戦力の中心となっていきました。これが歴史上、軍事革命と呼ばれる現象です。ところがポーランドは、この軍事革命の時代になっても騎兵中心の軍隊の編成を維持しました。これは、シュラフタが時代の動きに鈍感であったからというよりも、当時のポーランドが、歩兵中心のヨーロッパの軍隊だけでなくて、タタールやオスマン帝国のようなイスラムの軍隊も相手にしなければならなかったという事情があります。トルコの軍隊は騎兵が中心で、しかも広い空間に散らばって素早く移動しながら戦うのが得意でした。こういう敵と戦うためには、どうしても騎兵中心の編成を維持しなければならなかったのです。ポーランド貴族は、なによりも騎兵として戦うことを誇りにしていました。歩兵はシュラフタの価値観のなかでは一段劣る存在で、貴族にふさわしい役割とはみなされなかったのです。

 東西双方の敵と対抗するために、近世のポーランド軍は騎兵を中心とする独特の戦法を編み出しました。その中心となったのがフサリアと呼ばれる重騎兵軍団です。フサリアは16世紀に登場する新しいタイプの騎兵で、シシャクと呼ばれる兜をかぶり、鎧のうえに豹の毛皮を肩からまとい、背中に羽飾りを着けています。この羽飾りが何のためについているのか、今なお歴史家のあいだで議論があります。一説によれば、全速力で走るとこの羽が風に鳴って敵側の馬を怯えさせる効果があったとも言われます。フサリアの武器は、長さ3m半から4m半にも及ぶ長い槍と、それから各種の剣、そして小銃です。槍は木製で、軽くするために柄の部分は中空になっていました。フサリアは戦端が開かれると真っ先に全速力で敵陣に突進し、まずこの槍で相手の騎兵を馬から突き落とすか、相手の馬を突き倒すかします。槍はこの最初の一撃で折れてしまいます。そのため、今日まで完全な形で残っているフサリアの槍は3本しか知られていません。こうしてまず敵の隊形を崩しておいて、あとは剣と小銃で白兵戦に持ち込むわけです。フサリアは槍を持って突進する点では中世の重装騎兵の伝統を受け継いでいますが、フサリア騎兵の馬は軽馬種で、より身軽で機動力に富んでいました。上に乗る騎兵の装備も中世のものと比べると軽くできていましたが、それでも騎兵、馬具、武器をあわせると100 kgほどになりました。この重さに耐えながら長距離の疾走や急速な方向転換をこなしたのですから、近世のポーランド産の馬は優秀であったと言えるでしょう。

 フサリアはシュラフタの騎兵たちの中でもエリート軍団でしたから、装備も華やかでした。兜には鳥の羽を飾り、馬具にも金銀や宝石がふんだんに用いられていました。ワルシャワの王宮博物館に、フサリアの騎兵のきらびやかな姿を伝える貴重な資料が所蔵されています。「ストックホルム絵巻」と呼ばれる絵巻物で、1605年にポーランド国王ジグムント3世がオーストリアのハプスブルク家から嫁いできた王妃コンスタンツィアをクラクフに迎え入れるさいの祝典行列を描いたものです。華やかな貴族たちの行進のなかでもひときわ目を引くのが、槍の先に紅白の旗をなびかせたフサリア騎兵の一団です。軍事力としてのフサリア騎兵の最盛期は17世紀でした。1683年に国王ヤン3世ソビエスキの率いるキリスト教諸国の連合軍がウィーン郊外でオスマン帝国軍を打ち破りますが、この戦いが戦場でフサリア騎兵が威力を発揮した最後の機会となりました。18世紀になると、フサリアは軍事的な意味を失い、儀礼の場に華を添えるだけの存在となります。それでも、この翼の生えた騎兵は、ポーランドがかつて大国であった輝かしい時代を象徴する存在として、ポーランド人の記憶の中に生き続けることになりました。分割によって国を失っていた19世紀、パリに亡命したポーランド貴族たちのパーティーの情景を描いた『ショパンのポロネーズ』という絵があります。ピアノを弾くショパンの前に集まった人びとのなかに、羽飾りをつけたフサリア騎兵の格好をした男が描かれています。この絵は、かならずしも実際の光景を忠実に写し取ったものではなく、画家のイマジネーションによる部分もかなりあるようですが、祖国を失ったポーランド人のノスタルジックな気分をよく表しています。19世紀の有名な歴史画家ヤン・マテイコの大作『グルンヴァルトの戦い』にも、やはりフサリア騎兵が描かれています。グルンヴァルドの戦いは、15世紀前半(1410年)の出来事です。先ほど言ったようにフサリア軍団は16世紀に誕生したのですから、実際にこの戦場にいたはずはありません。マテイコは歴史によく通じた画家でしたから、このことを知らなかったはずはないのですが、それでもあえて時代錯誤をおかしてフサリアの姿を描きこんだのは、ポーランドのかつての軍事的栄光を強調したかったからでしょう。



 馬は、戦争以外の外交の場でも、ポーランドの大国としての威信を演出するのに一役買いました。近世のポーランドの外交使節団は、しばしば立派な馬を連ねて相手の国を訪れました。たとえば、1633年にローマに派遣されたイエジ・オッソリンスキの使節団は300人を超える大規模なもので、馬には宝石をちりばめた豪華な馬具が用いられていました。さらにそのうちの2頭には黄金の蹄鉄がはめられており、しかもそれは行進の途中ではずれるように、わざとゆるく打ちつけてありました。一行が通り過ぎたあと、黄金の蹄鉄を拾ったローマ市民が「馬の蹄鉄にも金を使うなんて、ポーランドはなんて豊かな国なんだ!」と騒いでくれれば、それでポーランドの威信が高まること間違いなし、という演出だったのです。なかなか芸が細かいですね。

 ここまでの話は直接馬に乗る話ばかりでしたが、もう一つ、馬を使った移動の手段として馬車があります。馬車も、貴族の生活と密接に関わる乗り物ですので、少し触れておきましょう。徒歩で行くのは貴族にあまりふさわしいことではないと見なされていて、シュラフタは移動のさいには馬に乗るか、馬車を用いました。どちらかといえば男性は馬に乗ることを好み、馬車は女性・子ども・老人・聖職者にふさわしい乗り物とされていたようです。シュラフタが結婚式で教会に行くときにも、しばしば新郎は馬に乗り、新婦は馬車に乗りました。先ほど紹介した「ストックホルム絵巻」でも、国王ジグムント3世は馬に乗り、王妃コンスタンツィアは豪華な8頭だての黒塗りの馬車に乗っています。王妃の馬車をひく8頭の馬は白馬で、下半身は赤い色に染められて、ちょうど現在のポーランド国旗のような色合いに化粧をほどこされていました。現代人にとって高級な自動車がステイタス・シンボルとなるように、4頭だてや6頭だての豪華な馬車は貴族の権威の象徴でした。18世紀の大貴族チャルトリスキ家は、外国に旅行に行くときには6頭だての馬車を少なくとも3、4台用意したといいます。そこまで裕福でない貴族でも、馬車で旅行するときにはせめて4頭だてくらいの車を仕立てないと格好がつかなかったようです。ただし、外国製の豪華な馬車は高くつきました。のちにポーランド国王となるヤン・ソビエスキは、王国軍最高司令官だったとき、ワルシャワで開かれる議会に行くために、自分の所領に住む職人たちを集めて馬車を作らせています。他方で、ソビエスキの奥さんのマリア・カジミエラはフランスの出身で、里帰りしたときにフランス製の馬車を買って乗っていました。ソビエスキは、フランスにいる奥さんに宛てた手紙のなかで、パリで作らせた奥さんの馬車の6分の1の費用で2倍も立派な馬車ができた、と自慢げに書いています。奥さんは高級外車を乗り回し、自分は地元の職人が作った安上がりの馬車で我慢するというのは、いかにもこの夫婦の力関係を象徴するようなお話です。

 儀礼用の馬車は、宮廷の祝典や結婚式のようなおめでたいときにだけに用いられたわけではありません。シュラフタが世を去ると、葬儀の行列でも馬車が用いられました。棺を積んだ馬車は、蹄まで届く黒や真紅の布で覆われた馬に引かれて教会に向かいました。

 このように見てきますと、近世のポーランド貴族の一生は、子どもの頃から棺に納まるまで、嬉しいときも悲しいときも、馬とともに歩む人生だったと言えるでしょう。馬はシュラフタの生活の一部であり、生死を共にする戦友であると同時に、貴族としての威信を示すシンボルでもありました。ですから、シュラフタが馬を誰かにプレゼントするということは、相手に対する最高の友情と敬意の証でもあったのです。しかし馬の重要性は、これまでお話してきたような軍事的な側面や文化的な側面にとどまりません。シュラフタは、議会が開かれたり国王選挙が行われたりするたびに、ポーランド=リトアニアの全土から馬や馬車に乗ってワルシャワに集まってきました。コミュニケーションの手段が未発達な時代に、広大な領土を、貴族身分の同意に基づいて統治するためには、こうして貴族たちが自らしばしば遠方から足を運んで、集まって協議するしかなかったわけです。このような全国規模の貴族の集会が可能であったのも、馬という移動手段があればこそでした。その意味では、近世のシュラフタ民主主義もまた、馬なくしては成立しえなかったと言えるかもしれません。この近世のシュラフタの政治の世界については、次の白木先生にお願いしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

【馬種、性質などを表すことば】
arab(アラビア種の馬), argamaki(ペルシア産馬), bachmaty(タタール産の小型で強い馬), badawia(アラビア産馬の古名), bucefal/(やくざ馬、やせ馬),chabeta(やせ馬、駄馬), drygant(種馬の古名),fryzyjski kon'(フリースラント産の重馬種), hestry(スウェーデン産の重馬種), hekta(弱った、やつれた馬), klacz(牝馬), kobyl/a(牝馬), kuc(仔馬、ポニー), lipicany(リピッツァナー種の馬), luzak(乗りこなされていない馬), mierzynek(小型のばん馬), mustang(野馬), ogier(種馬), perszron(ペルシュロン種の馬), pony(ポニー), rumak(トルコ産馬の古名), szkapa(駄馬), s'wierzopa(牝馬の古名), tarpan(南東ヨーロッパのステップ地帯の野生馬), wal/ach(去勢された牝馬), we,zel/ek(小型で強壮な馬の古名), woz'niki(馬車用の馬), z'rebak(z'rebie,)(子馬、若駒)

【毛並み(mas'c')を表すことば】
bul/any(明るい栗毛の[馬]), cisawy(栗毛の[馬]), deresz(地色が褐色などで白のさし毛のある馬), gniady(鹿毛の[馬]), izabelowaty(黄褐色の毛の[馬]), jabl/kowity(連銭葦毛の[馬]), kary(黒毛[青毛]の[馬]), kasztan(栗毛の馬), mroziasty(霧降リ毛の[馬]), myszaty(鼠色毛の[馬]), pl/owy(淡黄色の[馬]), siwy(灰色毛[葦毛]の[馬]), srokaty(まだら毛の[馬]), szpak(葦毛の馬), tarantowaty(まだら毛の[馬]), wrony(黒毛[青毛]の[馬])

<補助記号> a, (aにヒゲ);  e, (eにヒゲ);  c' (cにアクセント); l/ (lにスラッシュ); n' (nにアクセント);  o' (oにアクセント); s' (sにアクセント); z' (zにアクセント); z. (zにドット)

  


(日ポ協会関西センター『WISLA』第29号 2003年3月31日発行)