もっと知りたいポーランド語(4)
―書評:エヴァ・リプニャツカ著(加藤洋子訳)
『ポーランド人のまっかなホント』
(マクミラン ランゲージハウス, 2000年)―(続き)


渡辺克義


 

訳書37頁に「ポーランドで自慢できるただ一つのチーズはオスツィペクである」とあります。「オスツィペク」とは何でしょうか。原書新版 (p. 27) を見ると, There is only one native cheese worthy of note: oscypek, ”とあるので, 誤訳ではなさそうです。 しかし, ポーランド人に訊いても首を傾げるだけです。 これは一体何なんでしょうか。 

 

 訳書38頁には「ポーランドでも次世代になると,ヨーロッパの他の国の若者と同様に,カレーを伝統料理だと信じて育つようになる兆しはすでに現れている」とあります。この内容もにわかには信じがたいものです。現段階では調味料としてのカレー粉の存在が知られているくらいのものでしょう。そもそも curry" という語は少し前までは外来語辞典以外では確認できない語彙だったのですから。

 

 同じページに「タラを食べたら,糞までクサい」という表現が挙げられています。このポーランド語は  Jedzcie dorzse, bo gówno gorsze です。この諺が意味するところは,「タラだって食べられる,糞食らうよりはましだろう」というものですが,転じて色々と不満・不平があっても糞よりはよかよう,つまり文句は言うなという文脈で使われるのです。テクストでは,ポーランド政府が海産物の消費量を高めようとキャンペーンを展開したが,ジョーク (dowcipy) の天才のポーランド人は  Jedzcie dorzse, bo gówno gorsze  で応じたというものです。訳者にはこの辺のことがまったくわかっていません。 

 

 訳書61頁に「1968年ワルシャワで起きた学生の反乱(三月事件)は,彼[=ミツキェヴィチ]の戯曲『乞食』の上演に端を発している」とあります。原書新版 (pp. 37-38) は“the 1968 Warsaw students' revolt started at a performance of his play Dziady.”とあります。 Dziady はポーランド人のロシア流刑体験を詠んだもので, 日本語への全訳はまだありませんが「父祖の祭」という定訳で知られています。そもそも dziady とはリトアニアやベラルーシの死者に対する弔いの儀式のことであり,この語はもっぱら複数形でしか用いられません。ではなぜ訳者は『乞食』などと訳したのでしょうか。これは白水社の辞書をそのまま写した結果でしょう。同辞典にはこうあります。

 

    dziad [ヂャト] 4 -owie; ( -y)

       (けいべつ的に) じじい, 乞食

 

 訳書65頁を見てみましょう。「この国ではめったに殺人事件は起こらないが,共有財産という考えがいまだに残っており,こそ泥は日常茶飯事だ。それに罪の意識があまりない」とあります。言語的な話題ではないのですが,これもまた現実とかみ合わないことなので一言申しあげておきます。評者が問題にするのは前半部の記述です。原書新版 (p. 46) を見てみると, こうあります。 In international crime tables, Poland features  often and high. Warasaw is now in the top ten of the murder league, gang-warfare  being the main cause, and the odd passer-by caught in the cross-fire swells the numbers." となっています。原書新版は現状に合わせているのです。それにたいし訳書はポーランド音痴が無批判に初版から訳したようです。

 

 訳書73頁にはこういう記述があります。「ポーランド人はワレサの限界を知っており,国の代表として外国に送り出すときには(中略)人差し指と中指を交差させ,幸運を祈る仕種をした」。ポーランドには「人差し指と中指を交差」させるというジェスチャーはありません。英米圏のこの仕種は良くないことが起こらないようにと願う場合に見られるものですが,ポーランド人なら似たような場面ではテーブルの下を叩くという所作をすることでしょう。

 

訳者81頁にはこうあります。「ポーランドでは,公私を問わずどこに電話をかけても「スウゥハム(聞いてるよ)」と不(ママ)愛想そな返事が返ってくる。そっちが勝手にかけてきたのだから,名前を名乗ろうが用件をいおうがどうぞご随意にという態度であり,よほどのことがないかぎり電話をかける気も起こらなくなる」。„Słucham. というのは慣用表現なのだから無愛想であるとかそうでないとかなどと評者は考えてみたこともありませんでした。そもそも実際に原書にはこんな“馬鹿な”ことが書かれているのでしょうか。p. 48 にはこうあります。Ring any number in Poland, public or private, and the  greeting is a brusque Słucham" - I am listening". Since you are the intruder, it is up to you to declare who you are and what it is up to you to declare who  you are and what you want." 訳者の無知は間違いありませんが原著者も相当なようです。英語圏に住んでいると,かくも自己中心的な見方しかできなくなってしまうものなのでしょうか。

 

 訳書84頁には「よほど教養のあるポーランド人にしかその名前が正しく読めないシュチェチン造船所が(...)」とあります。残念ながら原書新版にはこの箇所がないので真偽のほどは確認できませんが,これが誤訳であることはまず確実でしょう。ポーランド人にとって  Szczecin stocznia が難語であったり, 発音が難しいわけがないのですから。

 

 訳書87頁には次のような記述があります。「夢中で長話をしている最中に,聞き手が手を腰のあたりにあて,初めに掌を下向きにし,つづけてひっくり返してみせたら,話を聴くのに夢中になっていたら顎ヒゲがこんなに伸びてしまった,という意味である。つまり,いいかげんにしろ,ということだ」。 原文 (p. 60) と照合してみましたが,この箇所は誤訳ではなさそうです。評者は数人のポーランド人に尋ねてみたが,誰一人として原著者の意見に同意する者はいませんでした。そもそもこのようなジェスチャーは一般的ではないと考えてよいでしょう。 

 

 同頁に「ポーランド語でマウェ・ピヴォ(小さいビール)は『つまらない人間』を意味するが,これは英語も一緒 − その由来についてはわからないが。『狼』も同じで,英語にもポーランド語にも『女たらし』の意味があり..」とあります。まず,małe  piwo ですが, これには「つまらない人間」などという意味はありません。 「簡単なこと,たわいもないこと」といった意味です。英語の small beer にもそのような意味があります。後半部の原書の記述 (p. 60) “‘Wolf' is cried in the same way,...”となっています。この英文が意味するのは, 英語にもポーランド語にもイソップ物語に由来する「狼が来たと言って人を欺く」という表現があるというものです。確かにイソップ物語のこの話はポーランドでもよく知られていますが, 英語の cry wolf を直訳したような表現はポーランド語にはありません。言うまでもなく, ポーランド語の ,wilk' に「女たらし」などという意味や比喩はありません。

 

 訳書88頁には「『釈迦に説法』は(・・・) ポーランド語では『あなたのお父さんに子供の作り方を教えるな』と直接的でわかりやすい」あります。この記述は事実であり,ポーランド語の表現として記憶しておくに値します。 Nie ucz ojca, jak się dzieci robi. と言います。                                      

 同頁に次のようなことが書いてあります。「洟をたらした幼い子供がハンカチがないとき大声で叫ぶ『ソビエスキ王は口髭を生やしていた』は『洟がたれてきた,袖でふいちゃうぞ』の意味。『そして長い剣を持っていた』とつづけば『洟がとまらないよぅ,ズボンで拭いちゃうぞ』と脅かしているのだ」。この通りであるとすれば,実におもしろい表現だと思われますし,何かの機会にでも冗談で使ってみたい気がします。しかし,このような表現はポーランド語にはないのです。少なくとも一般に用いてわかってもらえるような表現ではないことは確かです。

 

 さらに同頁には次のような記述(原文 p. 60 があります。「同じ言葉を二度繰り返すことなく一時間でもののしりまくれる人がいるが,これはポーランド人の持って生まれた才能というより職業柄という場合が多い。騎兵(「騎兵のようにののしる」といえば,口汚くののしる)の意味がある,配管工,医者がその才能にたけている」。この部分の訳は間違っていませんが,内容そのものがことごとく事実に反します。罵詈雑言の名手と言えば,ポーランド人は靴職人を思い出します。kląć  jak szewc という表現があるからです。

 

  訳書91頁を見てみましょう。「「c s z の上に[「´」 記号が]つけばアクセントを弱めて発音する。 あとに i がついた場合も同様だ。 a, e にしっぽがついた ą, ę はそれぞれ an en と発音する」。これで訳者がポーランド語のイロハも知らないことが自明となりました。原文 (p. 61) はこうなっています。 A (sic!) acute  accent over an o’(ó turns it into a u, and over ac,s n or z  softens them, as does an ifollowing it. Little tails on a (ą) and e (ę)  turn them into an and en respectively." この場合の softens が「子音を軟化させる」の意味であることはポーランド語を学習したことがあるならば誰にでもわかることです。 ą ę  の基本が鼻母音で, その他の発音になることは多くないことも誰でも知っています。まして, ą  an と発音しないは,誤植だとしても, 致命的な誤りと言ってよいでしょう。原著者にたいしても訳者にたいしても, 開いた口がふさがりません。

 

 同頁ではポーランドの有名な早口言葉  Chrząszcz brzmi w trzcinie" が紹介されています。訳者は「フションシュチ・ブジュミ・ヴ・テュチナ」と全部をカナ表記で挙げています。カナ表記をするくらいなら子音の同化について調べておくべきだったでしょう。それにしてもなぜ最後の一語が主格で挙げてあるのでしょうか。原著者はそのような誤りはいくらなんでも犯していません (p. 61)。訳者が英語からの類推で前置詞の後は主格と同形と信じ,原書中の表記を誤植だと思ったのでしょう。思わず天を仰ぎたくなります!

 

 訳書94頁の記述を見てみましょう。「最近では,西側から輸入し,スラブ人らしからぬ,オーガスティンだのデイミアンだの,マーリーン,ヴァネッサなんて名前の子が増えたが,じきにポーランド語に同化され,オーグスティネック,デミアネック,マーレンカ,ヴァネスカと呼ばれるようになるだろう」。原書新版(p. 63 は次の通りです。increasing numbers of infants are now labouring under improbable and unslavonic names such as Damian, Marlene or Vanessa, rendered into Polish as Damianek, Marlenka and Waneska." 実態は, Damian, Marlena, Wanessa という非スラヴ的な命名が許容されるようになり, その子たちは愛称形の Damianek, Marlenka, Waneska という名で呼ばれているというものです。念のため申し上げておきますが, あくまでポーランド語の正書法の範囲内のことであり, 英語風の発音も認められていません。

 

 以上で2回にわたった書評を終えますが,結論を申し上げれば,ポーランド人のステレオタイプを伝える本として本書が日本の市場に現れたことはポーランド・日本両国民にとって不幸以外のなにものでもありません。ポーランドをよく知らないポーランド系英国人の一冊が,ポーランドをまったく知らない訳者により日本語に“訳された”のですから。

 

 

 (日ポ協会関西センター『WISLA』第25号 2001630日発行)