もっと知りたいポーランド語(1) 命名について


渡辺克義



 藤子・F・不二雄『ドラえもん』第32巻(小学館,1985) に「本はおいしくよもう」という一話がある。勉強嫌いののび太がドラえもんが取り出した、どんな本でもおもしろく読めるという「本の味の素」を電話帳に振りかけると、ハラハラドキドキ読み耽ってしまうという箇所が出て来る (156頁)。筆者などは人名にも大いに関心があるので、「本の味の素」などなくても電話帳は十分におもしろい。蔵書には日本のものに加え、ワルシャワとヘルシンキの電話帳があり、時々取り出しては名前の世界を旅して楽しんでいる。初回の今回は命名について述べてみたいと思う。

 最近我が国で上梓された加東研・弘中ミエ子著『世界に通じるこどもの名前−日本初! 国際化時代の「名づけ」の決定版−』(青春出版社, 1999) についてまず紹介したい。同書は冒頭で、これからは国際化時代だから海外で通用する名前をつけようと提案している。ただしむやみにエリザベスだとかデルフィーナと命名せよというのではなく、日本人の名で国際的に通用するものがあるのだと主張する(6-8頁)。著者は読みにくい日本の名前は大損だとし、具体例として「慎一郎」を挙げ、この名では外国人に一度で覚えてもらうことは望めず、Shinichiro と綴れば「シニチロー」と発音され、「シン」(Shin)という愛称も英語圏では「牛スネ肉」という意味になるという(12-13頁)。そこで、国外に通じる名前として、まず愛称形が海外で通用するか否かを考えよと勧める。 例えば、「研一郎」 という純日本的な名前であっても、その愛称形の Ken は国際的だからOKなのだという。場合によっては、ミドルネーム(例:「スカーレット彩香」。ただし戸籍上はこれでフルネームとなる)をつけるという手もあると教えている(14-22頁)。さらに著者は、海外で笑われる名前の例として、男性名では 「かつお」(イタリア語の cazzo は男性性器を意味)、「こん」 (フランス語で con は女性性器を意味)、女性名では「まりこ」、「まりか」(スペイン語でmaricon, marica は同性愛者を意味)を挙げ、日本ではこれが「普通の名前として通用しているから始末が悪い」という(23頁)。

 加東・弘中両氏はこの程度では納得せず、さらに読者自身とその子の改名をも勧めている。通称として永年(10年以上)使用したという既成事実に基づき、家庭裁判所に「名の変更の許可」を申し立てるのだという(36-40頁)。 改名が認められるケースの1つに、 名前が「外国人と紛らわしい」というのがあるので,「海外で通用しない名前だから」を理由にしても家庭裁判所は認めないとも助言している。著者は、旅券の表記でヘボン式表記が義務づけられていることに対しては(従って、マイケルは Michael ではなく Maikeru になる)、生地主義をとっているアメリカなどでの出産を勧めている。両親が共に日本人で日本で登録を済ます場合には、少なくとも旅券の所持人自署の欄にはヘボン式に捕らわれずに,各自が主張する綴りでサインしたらよいとしている(40-45頁)。

 拙文の筆者などは『世界に通じるこどもの名前』を見て、日本の「外国かぶれ」(「白人コンプレックス」というべきか)もついに来るところまで来たなと感ぜざるを得ない。著者が「これらの名前は、絶対に間違いのない、世界中どこでも通用する名前です。日本人向きの、世界のベストネームです。この中から子供の名前を選んでもらえれば、大きくなった子供から絶対に感謝されるはずです」(71頁) と豪語するが、その中には「亜璃須,有寿, 安里洲」(Alice)、「伽糸,伽思,喜也詩」(Cathy, Kathy)、「折波,織羽,織葉」 (Oliver) などがある (86, 113-114, 228頁)。LとR、THとS(SH)、BとVなどの違いを著者はどう考えているのだろうか。また、世界には最低でも3千の言語が存在すると言われるが、そのどの言語においても滑稽に響かない名前などあろうはずがない。フィンランドの女性名 Aniki などは日本語の「兄貴」を連想させるが、そんなことは大方のフィンランド人にとってはどうでもいいことにちがいない。加東・弘中両氏は男性名の1つに「乃賀,之我」(Noga) を挙げ、「『光り, 輝き』を意味するヘブライ語に由来する名前です。旧約聖書ではダビデ王の息子の名前して登場します」(293頁)と説明しているが、この名前を聞いて、身体の一部を連想しないポーランド人がいるだろうか。 筆者の場合、自分に上のような名前が付けられていたなら、きっと親に感謝するどころか恨むことだろう。

 最近の日本では難読で変わった名前が多い。文字を見ただけでは性別もわからないことが少なくない。しかし、今から650年以上もの昔、兼好は『徒然草』(第116段)でいみじくも「人の名も、目なれぬ文字をつかんとする、益なき事なり。 何事もめづらしき事をもとめ、異説を好むは、 浅才の人の必ずある事なりとぞ」と言っているのである。拙文の筆者なら、世界で通じる(と思い込んでる)宛字だらけの名前よりは、たとえ或る言語で滑稽に響こうともまずは日本で通用する純和風の名前の方がいい。

 宛字といえば、漢字にラ行とアを示すものが少ない一方でこれらの音が人気のために、「梨」、「亜」などがしばしば人名に用いられているが,たとえ画数という問題を考えに入れたとしても(これもまた愚かなことだと思うが)、なぜこれほどまでにこれらの文字に愛着を示す人が多いのか、 筆者などには理解できない。漢字とは本来表意文字のはずである。従って、好むと好まざるとにかかわらず、意味を連想してしまうものである。欧米文化に媚びることが国際化では決してないはずである。国際化時代であるからこそ、日本人としてのアイデンティティが問われよう。それにしても、『世界に通じるこどもの名前』の著者が他人に改名まで勧めておきながら、「ミエ子」という日本的な自らの名を"世界に通じる"名前に改めていないのはまったく解せない。

 かなりの紙幅を費やして一冊の本のことを論じて来たが、この辺で本題に入りたい。 筆者の手元に Wladyslaw Kupiszewski, Dlaczego Agnieszka a nie Ines? Wybierz imie dla swego dziecka, Warszawa 1991, という本がある。この一冊は人名の語源について記しているが、タイトルがポーランドの人名の何たるかを物語っている。ポーランドの女性名のAgnieszka に相当するスペイン語圏での名前はInesである。ポーランドの女性名で -aで終わらないものが皆無のため、両親が共にポーランド人の場合、その子に Ines と名付けることには無理がある。また、ポーランド人の名が創造的なものではなく、有限で選択すべきものであることを示している。このことは、日本人の名が音構造と記述の許容範囲内で創造的で無限であることと際立った対照を成す。日本では、「悪魔」や「寿限無寿限無〜長久命の長助」は少なくとも理論的には命名可能となるが、ポーランドではそうは行かない。Jerzy Bubak, Wykaz imion w Polskiej Rzeczypospolitej Ludowej, Jezyk Polski, z.1-2,1983,によれば、その幅は女性名521例、男性名655例である(現在、この数はいくらか拡大傾向にあるが、大幅に許容件数が増えているわけではない)。

 ここにポーランドの命名に関する論文(Edward Breza, Motywy wyboru imion dla dzieci urodzonych w Bydgoszczy w roku 1966 i 1976, Socjolingwistyka, nr 6, 1987)がある。やや古いデータだが、ポーランドで1966年と1976年に行われた調査によれば、子への命名理由は次の通りであった。



 ポーランドでは一部の名前を除いて愛称形を用いることが普通であり、日本語の「〜ちゃん」とは異なり、成人後も用いられる。よって、この判断基準が上位を占めることは驚くにあたらない。「苗字とのバランス」とは、 例えば Krzysztof Komorowski のように出だしをKで揃えること、苗字が比較的長い場合には名を短くする、またはその逆、などを意味する。「親族の名前」とは、 例えば祖父の名を孫娘に与える事例などである。ポーランド語では、男女の名が明確に分けられており両性に共通する名が存在しないため、実際には祖父から孫娘への場合は Aleksander → Aleksandra のような男女両性の対応する形が存在するものに限定されてしまう。日本では漢字の一部を後代に伝えることが少なくないが、それと似たケースといえるであろう.「命名日」 (imienimy)は、聖人の日が暦で決まっているが、単にそれに合わせるというものである。「本・映画・ラジオ・テレビの影響」は実際にはもっと多いのではと推察される。「その他」は、世話になった医師の名であるとか、家族の願いを込めてなど、文字通り千差万別である。

  「ブーム」 と関係するが、名前を見ればおおむね世代がわかるというのは日本とポーランドに共通して見られる現象である。例えば、Genowefaという名のポーランド人女性は1994年4月現在で166,585名いたが、1921-30年に51,392人に付けられたこの名も1981-90年にはわずか64人にしか付けられていない (Kazimierz Rymut, Slownik imion wspolczesnie w Polsce uzywanych, Krakow 1995)。他人事ながら思うが、もっと語源が重視される傾向にあってもいいのではなかろうか。筆者などは,Monikaなる人物を紹介されると、兄弟姉妹はいますかと思わず尋ねてしまうが、「はい、います。私は次女です」などと答えられると、思わず苦笑してしまう。 Monika の語源は「一人っ子」だからである。 次男坊の「太郎」のようなものであろうか。

 最後に、1981-90年にポーランドの新生児に付けられたポピュラーな上位10の名前を以下に挙げる(Krystyna Nowik, Zmiany frekwencyjne w zasobie imion w Polsce powojennej, [w:] Najnowsze przemiany nazewnicze, pod red. E. Jakus-Borkowej i K.Nowik, Warszawa 1998). これを見れば、いかにポーランド人に同名の人が多いかがわかろう。



(わたなべ かつよし 日本ポーランド協会関西センター会報『WISLA』 第22号 1999.12.20)