イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民

勝瞬ノ介



 今からちょうど60年前、ポーランド北東部の小さな町、イェドヴァブネで、ユダヤ人の大量虐殺が行われた。約1600人のユダヤ人が、生きたまま焼き殺されたのである。これまで、この虐殺はナチスドイツ軍によって計画され、実行されたとされてきた。 ところが最近になって、実際に手を下したのは、ドイツ軍ではなく地元のポーランド住民だったと言う説が浮上した。このニュースはポーランド中に強い衝撃を与え、その後激しい議論を巻き起こした。

 ポーランド人たちは自分たちを、大国のエゴの犠牲者、蹂躙されてきた被害者として捕らえている。彼らに加害者としての意識はない。今回の報道は、この彼らの認識を覆しかねないものであった。

 またこれは、今まで目を向けようとしてこなかった、ポーランド社会の片隅に吹き溜まる嫌ユダヤ感情についても、ライトを当てることになった。

 イェドヴァブネについては、まだ結論を出すには早すぎる。早すぎるけれど、一体何が起こったのか、ポーランド人たちは今回の一件をどう受け止めているのかを、簡単に紹介したい。


●発端

 イェドヴァブネの地元住民たちの間では、1941年のユダヤ人虐殺にポーランド人がかかわっていた、という事実はある程度伝えられていた。しかし、ポーランド社会では一部の人を除いてそれを知る人は少なかった。それが、なぜ急に注目を浴びるようになったか。

 発端は、ニューヨーク在住のポーランド人歴史学者で社会学者、そして政治学者でもあるヤン・トマシュ・グロス教授が2000年2月に発表した、短い報告書であった。タイトルは、『1941年夏のイェドヴァブネ―第二次世界大戦中のユダヤ人絶滅への地元社会の参加に関する研究の補足的資料』というものであった。

 これを受けて、ポーランドのメジャー新聞社である『ジェチュポスポリタ』紙の記者、アンジェイ・カチンスキが、イェドヴァブネに関する記事を書いた。2000年5月5日のことである。この記事は、ポーランド国内における一連のイェドヴァブネ報道としては最初のものであり、これがその後、巨大な反応を国内にもたらすこととなった。

 そのすぐ後、2000年5月末にはイェドヴァブネ事件の詳細を描いたグロス教授の『隣人―ユダヤ人の町の絶滅の歴史』と言う本がポーランドで出版され、さらに大きな注目を集めるようになった。この本は、2001年4月に米国でも出版された。


●イェドヴァブネ事件当時の歴史的背景

 グロス教授の主張のほとんどは、事件当時イェドヴァブネに住んでいたユダヤ人、シュムール・ヴァセルシュタインと言う男の証言に基づいている。ヴァセルシュタインは、1945年にビャウィストック(町名)のユダヤ歴史委員会の前で、1941年7月10日の出来事についての証言を行った。

 彼の証言を記した文書は、他のユダヤ人たちの証言と一緒に、ワルシャワのユダヤ歴史インスティテュートに保存されている。

 このヴァセルシュタインの証言内容に移る前に、当時のポーランドの歴史的背景についてごく簡単に触れておこう。

 ドイツとソ連の密約によって、ポーランドの東半分がドイツに、西半分がソ連に分割されたのは、第二次世界大戦勃発直後の1939年9月のことである。北東部のイェドヴァブネはこのとき、ソ連の支配下に置かれた。

 イェドヴァブネには当時多くのユダヤ人が暮らしていたが、ユダヤ人はソ連軍に対して協力的な態度をとったという。これは、他のポーランド住民にユダヤ人に対する激しい憎しみを抱かせる原因ともなった。

 それから20ヵ月後の1941年6月22日、今度はナチスドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連支配下のポーランドに攻め込んだ。翌6月23日には、問題のイェドヴァブネにもナチスドイツ軍が侵入した。

 そしてそれから約2週間後に、ユダヤ人住民の大虐殺が行われた。


●イェドヴァブネ事件の経緯の概略

 ヴァセルシュタインをはじめとする、当時の事件を知る人、及び自らが虐殺を逃れた人の証言では、事件の概略は以下の通りである。

 地元ポーランド人がユダヤ人住民に対して略奪行為と暴行を開始したのは、イェドヴァブネがナチスドイツ軍によって侵略されてから二日後の、6月25日のことであった。ヴァセルシュタインはその日、ポーランド人の手によって殺されるユダヤ人を目にした。

 「ヤクブ・カッツは、レンガで殴り殺されました。エリアシュ・クラヴィエツキは、ナイフで刺された後、目玉をくりぬかれ、舌を斬られました。彼はその後、12時間苦しんで、そして死にました」

 「同じ日に、ハヤ・クブジャニスカとバーシャ・ビンシュテインと言う二人の女性が、殺されるよりは溺れたほうがましだと言って、赤ん坊を抱いて池に向かいました。子供たちを水の中に投げ捨て、自分の手で溺れさせ、自分たちもその後飛び込みました。一人はすぐに死にましたが、もう一人は数時間苦しんで死にました」(ただし、この証言については、別のユダヤ人の証言とやや食い違う。)

 このような残虐行為は一日中続いた。やがてポーランド人の神父が、後はドイツ軍が何とかするだろう、と言ってそれを止めさせた。ヴァセルシュタインによると、暴徒たちはこのような残虐行為を見て喜んでいたと言う。

 7月10日、ユダヤ人たちは全員、町の広場に集まるように言われた。彼らは広場の掃除と草むしりをさせられた。

 若い屈強なユダヤ人たちが数名選ばれ、広場のレーニン像を降ろすように命じられた。彼らは像を担いだまま広場の周りを歩かされた。そしてその間、ロシアの歌を歌って、この戦争は我々のせいだ、と叫ぶよう命じられた。その後彼らは、像を町外れの墓地まで運ぶよう言われた。そして穴を掘って像を捨てるよう命じられた。像を運んだユダヤ人たちは、その場で同じ穴に埋められた。

 その間、他のユダヤ人たちは女性も子供も老人もラビも例外なく、炎天下の中で広場に立たされたままだった。水さえ飲むことを許されず、殴られ、辱められた。

 夕方になると彼らは穀物倉に行かされ、中に閉じ込められた。入り口には、逃げ出そうとするユダヤ人を殺すために、斧を持ったポーランド人が立った。倉には燃えやすいように液体がかけられ、そして火がつけられた。倉の中のユダヤ人たちは、生きたまま焼き殺された・・。


●ポーランド人のかかわり

 イェドヴァブネだけではなく、他のラジウフやヴォウソシ、ヴィズナなどの町でも、ユダヤ人の集団虐殺は行われたらしい。

 ヴァセルシュタイン及びその他の難を逃れたユダヤ人の証言によると、多くの地元ポーランド人がユダヤ人の殺害に加わっていた。ポーランド人の目撃者もこれに関しては明確に否定していない。

 さらに、残酷な方法で実際にユダヤ人の殺害に手を下したのはイェドヴァブネやその周辺に住むポーランド人だけであった、という証言もある。彼らの話によると、ドイツ人たちはユダヤ人を全員殺すように命じたかもしれないが、実行には全く参加しなかったか、参加したとしても消極的であった。

 また、別の証言によると、二人のドイツ軍将校がユダヤ人の中でも役に立ちそうな仕立て屋や靴屋などの職人を救おうとした。しかしポーランド人たちは、たとえ一人でもユダヤ人を残すなどとんでもない、キリスト教徒の中にも優れた職人は多い、とそれを拒否したと言う。

 さて、現在ポーランドで問題になっているのは、この部分である。つまり、命令を下したのはナチスだとしても、実際に手を下したのは誰なのか、そして地元ポーランド住民たちは、虐殺の過程でどのような役割を果たしたのか。

 ユダヤ側の証言では、地元ポーランド住民は自らの意志で虐殺に加わったように取れるが、当然ながら、と言うべきか、ポーランドではこれに対して反対の声をあげる人も多い。


● ポーランド側の主張

 一方、ポーランド側の資料では、虐殺はそのほとんどがドイツの警察、または憲兵隊の手によってのみ、行われたことになっている。ポーランド人の参加については、ほとんどなかったとされているか、または否定されている。

 ポーランド人シモン・ダトネルは、1966年にユダヤ歴史インスティテュート公報に発表した学術論文の中で、大虐殺の責任はドイツの特殊警察部隊にあると主張した。ドイツ人たちは、地元のごろつきポーランド人や犯罪者に指示を出し、武器を与え、殺害には直接手を出さなかったと。

 また、ドイツ人たちは、嫌ユダヤ感情を持っているのが自分たちだけではないことを後日証拠するため、ポーランド人による暴行の写真を撮っていたと言う。しかし、ダトネルはイェドヴァブネの一件に関しては、実際に誰が手を下したかについて明言しなかった。

 同じくポーランド人でナチス犯罪研究委員会の検事であるモンキエヴィッチは、イェドヴァブネの事件についてポーランド国内で最も詳細な研究調査をしている人物である。彼は1989年に、ビャウィストックの大学の誌上である発表をした。

 それによると、ドイツ軍は7月10日にトラックでイェドヴァブネにやってきて、そこのユダヤ人住民900人を穀物倉に押し込め、倉にベンジンをかけた上で火をつけたことになっている。

 さらにモンキエヴィッチ検事は、このときの同じドイツ軍がさらに二日後、ラジウフの町のユダヤ人をほぼ全員殺害したとも書いた。しかしながら、他の多くの証言では、ラジウフの虐殺は7月7日、つまりイェドヴァブネの前に行われていたことになっている。モンキエヴィッチ検事の主張の信憑性がぐらつく部分である。


  ●調査

 去年、イェドヴァブネの一件が注目されて以来、多くの雑誌がこの問題を取り上げた。そして政治家や歴史学者、カトリック教会などを巻き込んだ議論が展開された。ユダヤ人虐殺にポーランド人が参加したという意見を認めるものもあれば、参加を否定するものも、参加を弁明するものもあった。グロス教授の本の内容が偏っていると批判する人も多くいた。

 とうとう、国家記銘院(1998年に設立された、国家機関。ナチスドイツの侵略と、社会主義時代に国家安全保障に関する文書を収集、保管している)をはじめとするいくつかの団体が、この件の真相解明のための調査を開始した。虐殺現場の実地調査だけでなく、ドイツやロシアでの資料調査も始まった。

 ドイツで資料調査を行っていた国家記銘院は、イェドヴァブネにおけるユダヤ人虐殺はナチスの指揮下で行われた可能性が高いことを示す資料を発見した。しかし、それぞれの調査結果が必ずしも一致するものではないこと、また、証言や資料の間に食い違いなどもあることから、更なる調査の必要性が認識された。

 そして今年の6月には、犠牲者の遺体発掘調査が行われた。多くのユダヤ人たちは宗教上の理由から反対したものの、ポーランド法務省と国家記銘院は遺体調査が事件の真相究明に不可欠だと主張し、実行される運びとなった。

 その結果、約250体の遺体が発見され、それらは焼かれた後で銃殺されたことが判明した。しかしそれ以外に大きな収穫はなく、また、他に遺体が埋められている可能性も低いことから、従来の1600人と言う数字が極めて信憑性の低いものであることが分かった。

 そもそも、個々の殺害に関する目撃証言ははっきりしているのに、穀物倉での焼殺に関する証言となるとあいまいな部分が多いし、食い違いも大きい。研究者の中には、ヴァセルシュタインたちは直接その光景を目撃したわけではない、そんなことは不可能だった、と指摘する者もいる。ユダヤ人側の証言をそのまま鵜呑みにするのは誤りだという研究者もいる。

 そんな中、ポーランドのカトリック教会はイェドヴァブネの犠牲者の冥福を祈る特別ミサを行い、ポーランド人の加わった残虐行為に対する許しを神に請った。


●国の反応

 イェドヴァブネには二つの戦争記念碑があった。ひとつは1939年から1956年にかけて、ソビエト、ドイツ、そしてポーランドの共産主義政権によって命を奪われた180名のため、そしてもうひとつは1941年7月10日に殺されたユダヤ人のためのものだ。この二つ目の慰霊碑には、「この地で1600人のユダヤ人が生きたまま焼き殺された」と言う文字が刻まれていた。しかしこの春、この石碑は撤去され、新しい記念碑が置かれた。

 2001年7月10日、イェドヴァブネユダヤ人虐殺60周年の式典に参加したポーランドのクファシニェフスキ大統領は、この新しい記念碑の前で、犠牲になったユダヤ人に謝罪をした。しかしそれに先立ち、ポーランド国内から激しい抗議があったためか、謝罪の言葉の中からは「ポーランド人を代表して」と言う言葉は削られていた。

 また、ブゼク首相は式典には参加しなかったが、「ポーランド人は確かにユダヤ人殺害に加わった。しかしそれはポーランド人を代表してのことではなく、ポーランド国家を代表してでのことでもない。イェドヴァブネの事件によって、ポーランドにホロコーストの共同責任があるように言われることには反対だ」という声明を発表した。

 大統領の謝罪は、ポーランド国内に賛否両論をもたらした。大変価値あることだ、と評価する政治家がいる一方で、現段階で謝罪するのは早すぎる、という政治家もいた。右派の政治家たちは式典への参加を拒否したし、ユダヤ人のある団体も、新しい慰霊碑にポーランド人の責任について刻まれていないことを理由に、式典参加を拒否した。


  ●一般ポーランド人の反応

 ポーランド人の反応もさまざまだ。グロス教授に対して、「根拠もなくポーランド人を非難するのは許せない」と言う人も結構多い。しかし、「ユダヤ人虐殺にポーランド人が加わったかどうかを明らかにする必要があったか」と言う質問に対し、68.3%が「イエス」と答えている。「必要ない」と答えたのは、27%である。

 7月10日の式典後、15〜25歳の若い人たちを対象に、感想を問うアンケートが実施された。それによると、
「真実を究明しようとするポーランドの態度と、適切な方法によって式典が行われたことに満足を覚える」と言う人が23.3%、
「イェドヴァブネに関する一年以上の討論に疲れた」が23%、
「ポーランド人がユダヤ人に対して罪を犯したことに恥を感じる」と答えた人が16%、
「イェドヴァブネと聞いても何も感じない」が4.9%であった。

 ポーランド政府としての考えは比較的はっきりしているようだけれど、一般ポーランド人たちは、まだよく分からない部分が多いこともあって、自分自身どう受け止めていいのやら、少々戸惑い気味のようだ。一時は、知識不足の人たちが的外れな議論をしたりして、混乱もした。

 当然だ。彼らは今までこのような流れの中で自分たちを捉えたことがなかったのだから。でも、だからこそ、彼らはこの事態に正面から向き合おうとしている。


●今後

 今現在も、この事件に関しては真相解明が進められている。しかし、なにぶん事件発生から60年が経過したこともあり、調査は難航している。また、これまで見てきたように、いろんなところで食い違いが生じており、混乱の度合いは増すばかりでさえある。

 地元ポーランド人がどの程度殺害にかかわっていたのか、それは自分の意志だったのか、正確な犠牲者は何人なのか、などについてある程度はっきりするまでには、おそらくまだまだ長い時間を要するであろう。

 また、もしポーランド人住民たちが自分の意志で虐殺を行ったとすれば、それはなぜなのか。一説によると、ソ連軍占領下の20ヶ月の間、ユダヤ人たちがソ連軍に協力したことに対する復讐だったとも言う。ユダヤ人たちの行為を知れば、地元ポーランド人が腹を立てるのは当然だった、という証言もある。

 歴史は、光を当てる方向によって全く違う影を作り出す。それでも、何があったかを可能な限り究明しようとする態度は、間違いなく大切だ。今後の更なる調査が待たれるところである。今後の調査によっては、全く新しい事実が浮上するかもしれない。 現在のところ、イェドヴァブネの事件は、依然として闇の中である。


(イェドヴァブネに関しては、未解決な部分が多いことと、ユダヤ人虐殺と言う微妙な事柄に関係することもあり、興味はあってもなかなか手を出せずにいた。今回、このような機会を与えてくださった岡山大学の田口雅弘氏に、心から感謝したい)

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(かつしゅんのすけ 2001.08.09)