ワルシャワ地方教区の大司教の辞任
長谷川二郎
当地ポーランドでは、去る1月7日(日曜日)の聖日ミサで、ワルシャワ地方教区に就任したばかりのS.ヴィエルグス大司教(1)が辞任を表明したことがセンセーションな事件として、その日の内に世界に向けて情報が流れた。通常は、ローマ・カトリック法皇ベネディクト十六世(略してB16)が一旦任命した大司教の役職は変更されないことになっているが、今回は、本人の辞任依頼を法皇が就任祝賀ミサ(聖体祭儀)開始直前に受理したことが異例なケースであるとされ、2004年4月に亡くなったポーランド出のヨハネス・パウロ二世法皇を出したカトリック教国(2)を自認するポーランド国民にとっては、単に一人の大司教に関する教会の内部組織の問題に止まらず、同国の社会的な大問題として波紋を起こしている。千年の歴史を誇るポーランドのキリスト教会は国民の生活に根強く生きており、18世紀末以降の三国分割にも国民は強国の占領統治に負けず、教会は国民の独立運動の精神のバック・ボーンとして、国民の愛国精神の骨髄の役目を担い、1978年10月に国民的英雄となった法皇ヨハネス・パオロ二世を輩出し(2004年4月に死去)、彼が共産主義政権の統治下に組織された”自由労働者組合連合”(ヴァウェンサ委員上が率いるソリダルノシチ)を裏面から援護し、1989年に共産主義政権を崩壊させたことは未だに記憶に新しい。それだけにポーランドのローマ・カトリック教会の影響は国民の生活に深く浸透していることで、ヴィェルグス大司教辞任に纏わる”ポーランド教会の悲劇”は非常に複雑である。ここではその背景と辞任劇の経緯を紹介したい。
現在のワルシャワ教区司教座を監督しているのは、1929年生まれで老齢のJ.グレンプ大司教である(1981年7月から)。このワルシャワ教区大司教はローマ法王の間にポ国の教会を代表する。グレンプ大司教の場合は、ポーランド教会のみに制定されている”プリマス”(第一人者)の肩書きを授けられ、ワルシャワ大司教座の管理者であると同時に、ポーランド司教会議(3)の上に立っている。この肩書きは終身制であるが、75歳を超えると老齢のため現役を退き、ポーランド教会の代表役を後任者に委託すべきことが見込まれており、彼の場合は既に2004年を以って定期の役職を終えているべきである。そのため、過去の2年間、法皇庁は後任者を探索していたが、やっと去る12月7日に法皇B16はヴィエルグス司教を選任し、2007年1月4日にワルシャワ教区大司教座の事務的な引継ぎの就任式を行い、同月7日には就任祝賀ミサが予定されていた。処が、新生ポーランド共和国には、1997年に制定された”検閲法”があり、これが問題の根源となった。
この”検閲法”は、ポーランド政府高官(主に中央、地方の官庁、国営公団、政党、財団などの管理者を対象とする)が職務に就く際に、自分の履歴を自己申請することを定めたもので、その自己申請に記載された内容を”公共権益調停者”が吟味し、申請内容に偽りがあると看做す場合は、”検閲法廷”に控訴し、その判決が肯定的である場合は、非訴訟者は将来の10年間公的な役務に就けないとされている。この法令が意図するところは、共産政府時代の”国安庁”(SB、所謂秘密警察)に勤めていた刑事及びSBへの”秘密協力者”(TW、情報提供者であり、通常は、あだ名を付けたファイルに整理されている)を新生ポーランド共和国の政府高官に就任させないことである。自己申請の履歴書にSBに協力したことを記載すれば、予定の役職に就けないことは明らかであることより、その事実を隠蔽する傾向が強い。自己申請書の検閲は数が多いため、職務に就任後に隠蔽したことが発覚することが常である。この様な制度が1900年代後半に制定された理由は、1989年の共産主義政府を破壊した際の経緯にある。ポーランドの”脱社会主義制度”の特徴は、共産主義政府に仕えた政府高官、国民に対して恐怖統治の矛先となっていたSBの刑事とか、果ては一般の共産党員などを弾劾、追放しないと言う暗黙の”契約”があったことである(4)。これは、当時の政府や下部組織が右派による武力的な革命によって破壊さなかったことを意味している。このことが社会制度変革以降のポ国民の日常生活にいろいろな社会的問題を引き起こす直接の原因となっている。この1997年に制定された”検閲法”は既に改定されている。但し、2006年10月に新法案が国会を通り、11月に大統領によりサインされているが、未だに発布されていない。大統領がサイン直後に新たな改正案を提議して、現在、国会で審議中である。法案の内容が右、左に揺れているが、現行の法令では、概ね下記の様な条件がある。
1)自己申請の履歴書の内容を検閲するために、IPNと呼ばれる”国民記録庁”(政府公式文書の保管文庫)に埋蔵されているSBの文書が参考にされ、証拠物件として利用されている。この種の文書はSBの担当刑事が独自に記載したもの(調書)が大半であるが、”秘密協力者”(TW)より取得した情報もある。SB内部でその様な情報の信憑性を高めるため、協力者の登録を行い、協力者にはあだ名を付けて、本名を隠して、その”あだ名ファイル”が保管されている。協力者によっては、報酬を受け取った者もあれば、物件授与のケース(例えば、旅券発行)もある。従い、情報の出所が、協力することを明らかに自分の意思で登録しているTWであったり、刑事が無意識(?)の協力者から聞き込んだ内容を書きとめたケースなどもあり、文書の分析では、協力者の明確な意思があったか、なかったかが問題になるのが通常である。SBの常套手段として、TWに対してあらゆる脅かしを掛けたケースが多々あったとされている。協力意思のないことが明らかなケースは、SBから見て国家安全の”危険者”と看做された証拠であると解釈されることも可能であり、”SBによる被害者”(愛国者)と判定されるケースもある。共産主義政権下の”被害者”は”真実の”自由なポーランド国の英雄と看做される。従い、この種文書は”協力者”(売国奴)と”被害者”(英雄)を区分することに利用されるのが常である。
2)このIPN保管文書は本人であれば、閲覧することが出来る。教会の教職者の場合であれば、予め本人の意思を確認した後、司教会議の関係者が文書を閲覧することが可能である。但し、IPNが保管する文書の内容が報道関係者に漏れるケースも多くあるが、文書の内容を公表することは、検閲法廷以外では禁止されている。報道関係者の範疇以外でも文書の内容が”うわさ”として一般に流されるケースもあり、非公式に利用され、社会的に弾劾されるTWも既にあった。一方、ポ国キリスト教会ではこの種IPN保管文書を積極的に利用しない傾向が強い。これは、ポ国とヴァチカン庁との間で”政教条約”(Konkordat)が1993年に取り交わされているため(1998年に批准)、政教分離の理念に則り、教会側はポ国政治に関与しない立場を取っている。これがため、教会内部の公的役職に就任する教職者に関して、この”検閲制度”を前向きに利用していないがため、今回の様に、報道関係者に先を越され、S.ヴィエルグス大司教の個人的情報がセンセーショナルに公表され、教会側が個人情報の収集い遅れを取った理由になっている。
3)IPNには”歴史家”としての職員がおり、この種文書の信憑性を分析している。”人権保護庁”が公式に文書を調査するため、”文書”を閲覧するケースもある。教職者の場合は、教会の司教会議の内部に”歴史(調査)委員会”が組織され、文書の分析結果を司教会議に報告する。但し、これらの”分析結果報告”は調査対象の人物に対する判定は行わない。あくまでも文書の信憑性に関して答申するにみである。最終的には、法廷、乃至はローマ法皇の判定を待つ(5)。
前置きが長くなったが、さて、S.ヴィエルグス大司教の辞任表明に至る経緯は、概ね下記の通りである:
2006年
− 5月にローマ法皇B16がポーランドを訪問した際、S.ヴィエルグス 大司教 をワルシャワ教区大司教に任命する案件が前面に出てきたものと推定されている。
− 10月5日、S.ヴィエルグス司教が、教会の教職者らが”協力者”(TW)として社会から攻撃を受けていることを批判し、”検閲制度”に反対の立場である ことを表明。共産主 義政権下では、教会の活動的な教職者の大半は、SBの”保護者”と連絡を取らざるを得なかったと説明。
− 12月2日、S.ヴィエルグス司教がローマ法皇と面談して、最終的に任命が内定された模様。
− この時期まで、教会の司教会議からIPN保存の関連文書の閲覧の申し入れは なかったとされる(IPN関係者の発言)。このことが、辞任声明後、個人情報の収集、ヴァチカンへの報告などに手抜かりがあったのではないかと見られ、在ワルシャワのヴァチカン大使の左遷が噂され、教会内部の情報流通活動や 事実が隠蔽されたことに関して、法皇B16が遺憾の意を表すまでにも問題が発展した。
− 12月7日、法皇庁の任命公表。
− 12月19日、週間誌”ガゼタ・ポルスカ”が、S.ヴィエルグス大司教が20年間も本人の自由意志によるTWであったらしいと暴露する。協力先はSBの第一局(諜報部)と第四局(教会迫害工作部)であった。但し、証拠(文書)を公表しなかった(出来なかった)ため、単なるうわさであると評価される 。
− 直ちに、S.ヴィエルグス司教がSBの協力者でなかったと声明し、旅券発行申請の際にSBと連絡を取ったことはあるが、ガゼタ・ポルスカが引用する関 連文書はSBが偽造したのである可能性が強いと反論。
− 12月20日、ガゼタ・ポルスカが、ヴィエルグス大司教はSBの”協力者”が組織したスパイ研修会にも参加していたことを公表。
− 同日、他の情報機関が一斉にガゼタ・ポルスカの記事を転載し、ポ国内でヴィエルグス大司教就任・辞任劇の開幕となる。各方面(教会、一般市民)よりヴィエルグス大司教援護の声明が発表され、ポーランド国内では反教会派、親教会派の2グループに分かれて、社会的な大論争となる。
− 12月28日、司教会議は S.ヴィエルグス大司教を援護する公式声明を発表。
− 12月29日、ポーランド国営通信(PAP)が、1月7日のミサの際にワルシャワ教区内の全ての教会で読みあげられることを見込むヴィエルグス大司教の”信者への手紙”の内容の一部を公表。そこには、大司教としての任務を果たすことを宣言している。
− 同日、司教会議がS.ヴィエルグス大司教のIPN保管文書を分析する”歴史(調査)委員会”を組織する予定であると発表。そのため、本人の”文書閲覧”への同意を必要とすることが表明された。IPNに”関連文書”が保管されていることを確認された。
− 12月30日、ルブリン教区が(S.ヴィエルグス大司教がルブリン・キリスト教大学の学長であった)ルブリン市のIPN分室には関連文書は一切存在しないと表明。
2007年
− 1月2日、ヴィエルグス大司教がIPN保管の文書の内容調査を”司教会議の歴史(調査)委員会”に依頼。その日の内に委員会は調査を開始。
− 1月3日、S.ヴィエルグス大司教のワルシャワ教区統括管理就任儀式(教会関係者のみの参加)。
− 同日、”ガゼタ・ポルスカ”の編集長が”文書”の分析をIPNが行うことを アッピールする。
− 同日、教会の司教会議の要請により、”歴史(調査)委員会”が”文書”を分析したことを発表。その日の夕刻遅くに同調査委員会の結果が纏まり、ヴィエルグス大司教にその内容を伝えることを声明。
− 同日、”国民人権保護庁”が4名の専門家に”文書”内容の調査を依頼。
− 1月4日、IPN保管の関連文書(マイクロ写真、ファイル番号:J7207、69ページ)が公表される。あだ名が”Grey”であった。マイクロ写真が保管されていたことは、既に原本は破棄されていることを意味している。教会側は当時の内務大臣から”教会関連の文書は破壊した”との情報を受けていたとされている。尚、大臣の”文書破棄”の指示を履行しても、SB関係者がマイクロ写真 を取った事例は多々あり、SB関係者の”お土産”(時限爆弾)であると看做されている。
− 同日、”国民人権保護庁”が調査委員会による”文書”の調査結果を発表。問題の”文書”には信憑性があり、ヴィエルグス大司教が1973−78年間、本人の自由意志による協力者であったことを公表。但し、ヴィエルグス大司教を評価するためには、IPN内部及び以外にも保管されているあらゆる文書の調査が必要であるとの注釈がなされた。
− 同日、ヴィエルグス大司教が声明を発表し、SBに協力したことを認める。1973年、ミウンヘン大学に留学するための旅券発行を受ける条件として、TWになることを約束したが、文書にサインはしていない。1987年、再度ミュンヘンに旅行するための旅券発行を申請した際、TW登録書にサインすることを 強要され、サインをした。SB側の要求は、”自由ヨーロッパ”放送局に関する情報を取ることであったが、実行しなかった。如何なる個人に関する情報は 提供しておらず、教会の宣教活動指針の一部を批判する意見を提供したのみで あると説明。それまでの声明を覆したことを以って、ヴィエルグス大司教の発言内容には信頼性がないとの評価を受け、最初からTWであったことを認めて置けば良かったと悔やまれる。結果的には、彼がTWであったか、なかったかの問題は 薄れ(具体的な障害はなかった)、彼に対する将来の”ポ国教会代表者”としての信頼性を失うことになる。
− 1月5日(金)、6日(土)を通じて、7日の就任祝賀ミサを目前に控えて、過去に於いてローマ法皇が大司教を辞任させる事例がないことが明らかになり、ヴ大司教自身が大司教役を辞任するか、しないかに就いての論争が最高潮に達した。
− 1月6日遅く、ポーランド大統領官邸がこの問題に関して法皇庁と連絡を取っているらしいとの情報が流れる。
− 1月7日の早朝(ミサ開始2時間程前に)、ヴィエルグス大司教が法皇に辞任の意思を申し入れ、法皇がそれを受理したことが報道される。
− 1月7日、午前11時、ワルシャワの大司教座教会堂で聖日ミサが開始されるが、ミサの最初に、ヴィエルグス大司教が報道界の彼に対する攻撃を遺憾とするも、TWであったことことに悔いが残るが、辞任を決心したことを声明。その際、教会堂内部では信者たちの”辞任NO”の声が飛び交い、ミサは一時中止される。早朝、ミサに参列するため、遠路ワルシャワ向けに旅行して来た信者の一部(”聖母マリア・ラジオ”信奉者)が辞任決定を事前に知らず、ヴィエルグス大司教の声明に驚いた結果としての反応であった可能性がある。ミサに参 列していた大統領は、辞任声明に対して賛同する旨の拍手を送っていることが生のTV放送で見受けられた。一方、このミサの説教時に、J.グレンプ大司教が予め準備された原稿を持たずに、今回の辞任劇はヴィエルグス大司教に対する報道界の一方的な個人攻撃であること(ヴ大司教を擁護する手段がないとの意味)、それが無法な検閲であること、法廷での正式な裁判が必要であることを訴えた。この説教は会堂の信者たちの喝采を受ける度に中断された。教会堂の外部では信者たちのヴィエルグス大司教擁護のデモがなされた。
現在、ヴィエルグス大司教辞任声明から1週間経つが、その間、いろいろな動きがある:
− ローマ法皇が教会内部の情報調達に”つんぼ桟敷”に置かれていたことを遺憾としていることが、イタリーの新聞が報道。
− ヴィ辞任の翌日、ポーランド古都クラクフの王宮城内の大司教座の神父が辞 任声明を発表。彼の”TWファイル”が存在することで、社会批判(疑問視されること)を避けるための先手を打った形跡が強い。
− ポ国教会司教会議に急遽開催され、これに出席した全ての司教の意見として、全ての司教が”検閲”に同意するように示唆し、教会内部の”過去”を清算する準備があることを発表。これは司教のみならず、一般の神父、修道士も含めて”検閲運動”に参加することが推奨されている。ローマ法皇庁では、これを”ポ国教会内部の革命であり、(組織の)地震をいとまない”決断であると 評価。
− IPNが、SB文書を正しく分析するための、”SBの工作メカニズム”に研究のメスを入れて、その結果を一般に公表すると約束している。
− 大統領L.カチンスキは、SB関連者のリストを作成するともに、加害者と被害者の区分を明確にし、”検閲法”とそれに関連する法令の改定を通じて、ポーランドの”戦後史”の書き換えを行う意思があることを再確認しているが、”検閲法”の破棄、或いは”検閲法”、その他関連の法令の運用に関する議論が今後続行される見込み。
ポーランドでは、過去の16年間に”TW発覚”の騒動があった。しかし、それらは単発的なものとして処理されてきた。この種スカンダルを可能な限り穏当に扱うことが教会に基本的な姿勢であった。しかし、ヴィエルグス大司教のケースが契機となって、過去の歴史を清算することに決断した。クラクフ近郊のノーヴァ・フタ市の教会で奉仕をしているT.イサコヴィッチ・ザレスキ修道士(ソリダルノシチ運動を援助)が独自に、数年を掛けて準備している教会内部の”TW者”リストの公表(本として出版)がクラクフ教区の大司教の阻止を受けていたが、昨日、リストの発刊日が来る2月28日になることを表明した。彼によると、現在のポ国の130名の司教の内、10名ほどがTWであったとされる。社会一般の評価でも、神父が警察やSBと緊密な連絡を取っていたケースを無視できないとしている。名誉心、出世心(司教になること)を強く抱く神父が多数いることは衆知のことであり、そこに人間としての弱みがあり、SBに脅迫される根源があった。SBは神父を落とすためには、あらゆる公的な”許可制度”を活用した。旅券発行もその例であった。ヴィエルグス大司教のケースに似た経緯が他にもあった。但し、この場合は、SBに協力しないことで、留学のための旅券発行を6年間も待ったと言う。新教会堂の建設に当たっては、各種の許可を取得することが必要であった。1996年以降、ポーランドのキリスト教化千年を記念して、新教会堂建設運動があり、その数が1000件もあった。SBには幾らでもそのチャンスがあった。一方では、教会内部の青年グループを対象に反共産主義の教育を行っていたことで、SB第四局に殺害された神父も多々あった。従い、数ある神父の一部がTWであったことが、直ちに教会の恥に繋がる訳でもないが、今まで教会は”隠密”に処理したいとする傾向を持っていた。2005年秋からは、脱共産主義(脱共産党)を選挙公約に掲げたPiS党があらゆる刑法に関する改定を行っている現在、教会もこの傾向に無縁であることは社会が受け付けない。共産主義政権に統治されたポーランド国民の歴史的な不幸でもある。筆者としては、この”過去の清算”運動が速やかに、成功裏に終わることを祈ってやまない。
脚注
(1)abp. Stanisław Wielgus, 1939年ルブリン県の寒村の生まれ、ルブリン市の神学学校を1962年に卒業した後、ルブリン・キリスト教大学(KUL)で哲学を専攻(1965-68年)、1972年哲学博士の称号を取得。1973−1975年にドイツのミュンヘン大学に留学。ポーランドに帰国後は、ルブリン・キリスト教大学で教鞭を執り、学長にまで出世し(1989ー99年)、その後、昨年末までプォッツク地方教区の司教を務めていた。中世後半期の哲学史の専門家として有名。西欧では”無神論者が専横する世界”であると看做して、2003年には、ポーランドがヨーロッパ連合に加盟することを批判し、過激な国民主義を啓蒙する”聖母マリア・ラジオ”放送局の主張を援護する発言して、ヨーロッパの人権尊重の精神が危機に晒されていると警告している。1999年から昨年末にワルシャワ地方教区の大司教に任命されるまでは、プウォッツク教区の司教を務めていた。
(2)ポーランド共和国の国民数は3,800万人、その内の3,660万人がローマ・カトリック教会の信者。10,114の教会堂があり、28,546人の教職者(修道士も含む)が奉仕しており、教区の数が22,221、教区を管理・監督する司教が133名、ポ国の首都であるワルシャワ市にポ国教会を代表する大司教座があり、”ポ国司教会議”もここに組織されており、ヴァチカン法皇庁から派遣された大使1名(ポーランド人大司教)が駐在している。
(3)現在のポーランド司教会議の代表議長は、J.ミハリック大司教(プシェミシル教区を統括)である。事務書記長はP.リベラ司教(カトヴィツェ教区)。
(4)この不文律の取り決めは、当時の政府代表と自由労働者組合連合の代表との”円卓会議”(開催された場所の名前から”マグダレンカ会議”とも言われている)開催の”事前条件”であった。これがため、その後のポーランド人社会では、共産主義者、共産党員を完全に追放されず、当時の共産党テクノクラートとされる高級・中堅管理者たちが自由市場で役職を利用し、技能を発揮して、現在裕福な生活をしているとの社会的批判を受ける根源になっている。2005年秋の国会総選挙で、旧共産党(SLD)や自由主義で寛容派の”国民プラットフォーム党”(PO)が破れ、”法と正義党”(PiS)が勝利を収め、現在の政治の舵を取ることになった根底である。今日のポーランド社会では、現政府により昔の”悪の根源”が清掃されると期待されているのが事実である。PiS党の名称もこのことを示唆している。
(5)現在国会で懸案中の”検閲法”改定法案の基本は、現行法に欠けている、法令の対象者全てに関する文書を公開すること(これは1989年の”契約”を部分的に反古することになるが、本人が”協力”の事実を隠蔽する可能性がなくなる)、旧特警に勤務していた刑事の氏名を公表することなど。SBに奉仕した刑事たちは既に老齢になっており、年金を受給しているが、彼らの年金金高が、一方の共産主義政府に抵抗して、肉体・精神の健康を害した一般国民(”被害者”)が受給している年金の4倍程度もあるため、加害者、被害者関係が顛末転倒しており、こえでは不公平であると看做されている理由による。この法案改正は現在の政府(法律と正義を守るPiS党)及び大統領の選挙前の公約であることより、政府としては、政治生命を掛けて、18年続いた社会制度の曖昧な”変革”の一時代を終焉させ、新たなポーランド共和国に変貌させようとしている(脱共産主義の100%化、旧共産党活動家の社会的削除)。
(はせがわじろう 2007.01.07)