ローマ・カトリック教皇ベネディクト十六世の記念演説
2006年5月28日アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡の博物館第二収容所ビルケナウ記念碑群の前で発表
長谷川二郎訳
これは、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡の博物館第二収容所ビルケナウ記念碑群の前で発表されたローマ・カトリック教皇ベネディクト十六世の記念演説です。翻訳して下さった長谷川二郎氏に心から感謝します。 (編集部)
ベネディクト十六世の略歴: 1927年4月16日、ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph
Ratzinger)は警察官の次男としてドイツのバイエルン州マルクト・アム・インで生まれる。1941年から“ヒットラー・ユーゲンド”に所属。1944年、ヴェールマハトに動員される。1945年、兄のゲオルグと共に神学校に入り、1951年、司祭に叙階され、1957年には神学博士号を取得し、その後、ドイツ各地の大学で教鞭を取る。1977年3月、ミュンヘン・フライジング司教座の司教に、早くも6月に枢機卿に任命される。1981年、故ヨハネス・パウロ二世によって教皇庁の教理省長官に任命される。2002年、主席枢機卿に着任する。2005年4月19日、教皇に選出された(聖ペトロ以来、第265人目の教皇)。
パウロ6世が1967年に開催したシノドス(世界代表司教会議)第1回会議から参加。既にこの時期からローマ・カソリック教会内の神学者の第1人者と見られている。この時代から故ヨハネス・パウロ二世との親密な友情関係が結ばれたと言われている。
(訳者注:)昨年4月に選出されて就任したローマ・カトリック教会の教皇ベネディクト十六世が、1年後に、彼の前任者であった故ヨハネス・パウロ二世の生まれ故郷であるポーランドを巡礼するために、去る5月25−28日の4日間訪問をした。“信仰に強くあれ”とのモットーを掲げてポーランド各地を訪問し、説教をして廻った。その間、ポーランド国民の暖かい歓迎に感激し、ポーランド国民も彼が気に入り、最終的には、故ヨハネス・パウロ二世に代わる“愛される教皇”となってヴァチカンに帰国したが、訪問最終日の28日は“本人の強い希望”により、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡の博物館を訪れた。このアウシュヴィッツ強制収容所跡訪問は、それまでの宗教本来のポーランド巡礼の内容とは異なり、頗る国際政治的な意味を持つものであった。それだけに、アウシュヴィッツ強制収容所跡でどの様な演説をするかが興味の的になった。
衆知の通り、アウシュヴィッツ強制収容所やその他の収容所でのナチ・ドイツの大量虐殺の対象は、取りも直さずヨーロッパ各地に住んでいたユダヤ人たちであった。ヨーロッパ社会、或いは欧米に於けるヨーロッパ人とユダヤ人との間にわだかまる軋轢の歴史は、ヨーロッパ文明の黎明期から続く長いものです。ここではその歴史を省くとして、第二次世界大戦終了後、60年が経つ今日、反ユダヤ的発言を公言することは、言論自由のヨーロッパ諸国でも法令に違反するものと見なされている。キリスト教とユダヤ教の和解運動もある。それだけに、ドイツ出身であるベネディクト十六世がアウシュヴィッツ収容所跡でどの様な演説をするかについて、ユダヤ人でなくとも、広く一般に興味深く期待された訳である。
ところが、この演説がなされた翌日、直ちにユダヤ人グループから批判を受け、期待外れの演説であったとの攻撃的な声が多数公表された。この演説では、故ヨハネス・パウロ二世の言葉を借用した箇所が多々あるにも関わらず、彼の重要な言葉を索引することが忘れられていたとか、ナチ・ドイツが行った大量虐殺を言葉通りにわびるとの表現がなかったとか。或いは、“600万人のポーランド国民”と一言で済ませているが、その半分はユダヤ人であったとか。さては、教皇自身が“ヒットラー・ユーゲント(青少年団)”に加盟していたのに、そのことを演説では断わっていないとか。
一方では、彼の演説を援護する意見もある。例えば、在ポーランド代表ラビンの発言は、アウシュヴィッツ強制収容所跡訪問について、彼がアウシュヴィッツ強制収容所跡を訪れたことに意義があるとしている。ル・モンド紙の表現を借りれば、ベネディクト十六世は、故ヨハネス・パウロ二世の意志を継ぐとは言っても、キリスト教の教義に基づいて、ユダヤ人大量虐殺に対する彼独自のヴィジョンを公表したものと解釈してはどうか?彼の言葉を細かく、詳しく取り上げれば、色々な議論の余地があるとは言え、キリスト者、ユダヤ教信者とかの区別なく、キリスト教のお説教と見なさずに読んで頂きたい。ユダヤ人大量虐殺問題を可能な限り普遍的に捉えようとする努力を文脈から読みとって頂きたい。
演説の原文はイタリア語で記載されているが、その大半はポーランド語で朗読された。訳者はポーランド語文を利用しました。

神及び人間の存在を無視して、嘗て歴史に例を見ない程の数多くの殺戮がこの場所で行われました。この様な場所で皆様にお話をすることは不可能に近いことです。特に、キリスト者にとって、いや、ドイツを母国とする私にとっては、なお更のことです。言葉で表現出来ない程のこの場所で、怯えるばかりの静寂の中で、私は神に対して叫ぶことしかできません:主よ、なぜ、あなたは沈黙されて居られたのですか?なぜ、あなたはこれ程の悪行を黙認されて居られたのですか?この静寂の中で、この場所で苦しみを受け、殺害された無数の方々の前に私たちは頭を垂れます。しかし、この静寂は、許しを請い、和解を求める声高い呼びでもあり、今後、この様なことが繰り返さることの無いように、生ける神へ捧げる祈りでもあります。
27年前の1979年6月7日に、故ヨハネス・パウロ二世がここを訪問されました。その時、彼は回想されています:“本日、私はここに巡礼者として来ました。当然ながら、ここには以前に幾度も来ています。。。何回ともなく。聖マクシミリアン・コルベの死の独房を幾度か訪れ、(11号館横の)”死の壁“の前で膝をついてお祈りしたことも、ビルケナウの消却炉の瓦礫の間をさ迷った経験も幾度かあります。教皇としてこの場所を訪れない訳には行きませんでした。” 故ヨハネス・パウロ二世は、第二次世界大戦を通じて、ユダヤ人に次いで数多くの人たちが苦しんだ国民の一人として、ここに巡礼をされています:“戦争を通じて600万のポーランド国民が亡くなりました。これは当時の国民数の5分の1にも当たります。”この様に故ヨハネス・パウロ二世は回想しています。これらの言葉の後で、彼の前任者、ヨハネス二十三世とパウロ六世が行ったと同じ様に、全世界に向けて、人権や民族存在の尊厳についてアッピールをされました:“過去の歴史に於いて、近親者や親友たちが想像を超える程の苦悶を受けた国民の一人として、この言葉を発言しています。。。誰かを非難すると言う意味ではなく、このことを記憶するために申しています。。。人権を認めるべきだとされていても、それを侵害された全ての民族の名を以って発言しています、”と。
故ヨハネス・パウロ二世はポーランド国民の一人としてここに来られました。私はドイツ国民の一人としてここに来ました。ですから、私の前任者の言葉を繰り替えさせてもらいます:ここに来ないでは居られませんでした。ここに来ざるを得なかった。これは過去の真実に対する義務であり、ここで苦しんだ人たちに対する義務であり、また、神に対する義務でもります:私はここに故ヨハネス・パウロ二世の後継者として来ましたし、犯罪者のグループが握る政権の下に敷かれていたドイツ国民の一人として来ました。彼らは、ドイツ民族が偉大であり、民族の名誉とその存在価値を回復させて、富裕な将来をもたらせるとの間違った約束をしていました。そのためには、テロと脅かしの手段を取って、破壊と支配を実現するために、国民を道具として利用しました。そうです、ここに来ないでは居られませんでした。1979年6月7日、ミユンヘンとフライジング司教区の大司教として、多数の司教たちに同行してここに来たこともあります。それは、故ヨハネス・パウロ二世に同行して、彼の説教を聴き、彼と共に祈祷するためでした。更に1980年、再度、ドイツ司教のミッションの一員として、大量虐殺が行われたこの地を訪れました。膨大な悪行がなされたことに胸を痛めると共に、暗闇の中にも和解のための明かりが輝いたことに感謝しました。ですから、今日も私はここに来ました:和解の許しをお願いするために。先ずは、神にこのことをお願いするためです。ただ神のみが人間の心を開き、清めてくれるからです;しかし、ここで苦しめられた人々にもお願いするためです。私たちの歴史に於ける現時点で、今もなお憎しみや殺戮行為が蔓延っています。そのために胸を痛めておられる全ての人たちの和解への技量が発揮されることお祈りします。
この場所では何と数多くの疑問が出て来るのでしょう! しかし、絶えず一つの同じ問いが繰り替えされます:あの時、主は何処におられたのでしょうか?何故黙っておられたのでしょうか?なぜ、これほどの破壊と悪の勝利を黙認され得たのでしょうか?イスラエルの苦悩に対する不平を抱くことを歌った詩篇、第44章の言葉が思い出されます:“。。。(あなたは)それでも私たちを打ちのめし、山犬の棲み処に捨てて、死の陰で覆ってしまわれました。。。主よ、奮い立ってください!なぜ、眠っておられるのですか?永久に私たちを突放しておくことなく、目覚めて下さい!なぜ、御顔を隠しておられるのですか?私たちが貧しい存在であり、虐げられていることを忘れてしまわれたのですか?私たちの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです。立ち上がって、私たちをお助け下さい。私たちを贖い、あなたの慈しみを表して下さい!”(詩篇第44章、20節、23−27)。目にもあまる苦痛を受けて神に訴えている、このイスラエルの民の恐れの叫び声は、同時に、神に全ての人々の助けを求める声でもあります。人々は過去に於いても、今日現在に於いても、果ては将来に於いても、神、真実、善行を愛することによる代償を支払っています;その様な例が今日でも沢山あります。
私たちは神の啓示に深く入り込むが出来ずにいます。私たちが神と歴史の裁判官になろうとする時、その部分のみしか私たちには見えないので、迷い込んでいます。この方法では人間を守ることが出来ません。寧ろその反対で、人間を破滅させる原因を作っています。そうではなく、私たちは忍耐強く、謙遜になって、しかも、喧しく神に叫びかけねばなりません:起きて下さい! あなたが創造された人間を忘れないで下さい!この私たちの神に向けた叫びは私たちの胸の中に浸透して、私たちを変革させねばならないものです。それは私たちの中にある神の隠れた存在を喚起させるためです。私たちの心に授けて下さった神の力を、私たちが利己主義の藻屑の網に絡まれ、人の前に出ることを恐れて、不干渉や便宜主義によって押しつぶすことの無い様に、その力を私たちの内部に埋もらせることの無いようにせねばなりません。この叫びを神へ向けると共に、今日この日、私たちの心に訴えようではありませんか。それは、現在、新たな危険が迫っており、人類の胸中に新たな暗黒の力が支配しているからです:一方では、罪のない人々に対して犯している無謀な暴力を正当化するために、神の名を使い過ぎないように。その反面、神の存在を認めず、神への信仰を嘲る冷笑をしてはなりません。人々が生きて行く道を誤らず、暴力が平和を築くのではなく、暴力を更に拡大させないように、神に呼びかけましょう。暴力は破壊を巨大化し、最終的には皆が負けてしまいます。私たちが信ずる神は理性のある神です。その理性とは、宇宙の単なる自然の数学的な秩序ではなく、愛と善を一つに合致させたものです。神にお願いすると共に、人々に訴えましょう。和解と平和を築く力を持つ理性と愛が、不条理とか、神からかけ離れた偽りの理性とかから私たちを守るために。
今日、私たちは記念すべき場所に立っています。過ぎ去った過去は単なる過去ではありません。何らかの形で私たち全員に関わりのあるものであり、私たちが進むべき道、進むことが可能な道を示してくれます。ここには、故ヨハネス・パウロ二世がつぶさに眺められた、殺された人たちを記念するための各国語で記載された記念碑の列があります:白ロシア語、チェコ語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ヘブライ語、クロアチア語、イタリア語、(ヨーロッパ・ユダヤ人の)イディシュ語、ハンガリー語、オランダ語、ノールウエイ語、ポーランド語、ロシア語、ロマ語(ジプシー語)、ルーマニア語、スロヴァキア語、セルビア語、ウクライナ語、ユダヤ系スペイン語、英語など。これらの全ての記念碑は人々の苦悶を語っています。人間を物として扱い、神の御姿を見ない占領者たちの冷笑を物語っています。これらの記念碑の中から特に取り上げたいものがあります。その一つは、ヘブライ語で刻まれたものです。(ドイツの)第三帝国政府はユダヤ民族を地球上から完全に抹殺しようとの計画を持っていました。詩篇の言葉を引用します:“私たちはあなたゆえに、絶えることなく殺される者となり、屠るための羊と見なされて”(詩篇、第44章、第23節)、恐ろしい方法で殺されようとしています。真実、冷酷な殺人者たちがこの民族を殺害することを通じて、アブラハムを選んで、シナイの山で、永遠に守られるべき人類の基本的な行動規範を示された神を殺そうとしました。彼らが存在すること自体が神の存在の証であり、その神が人間に語りかけ、人間を保護した神の証となる人間の存在。人間を支配するための全権力を握り、自分たちが強力な民族である思い込み、世界を制覇しようとした人たちが神の死を願ったのです。イスラエル民族を抹殺することを通じて、実際には、キリスト教信仰の根を抜き取り、自分たちが創作した、人間を支配するための信仰 − 強靭的な人間への信仰 ― に取り替えようとしました。ここには、ポーランド語で書かれた記念碑もあります。彼らは先ずインテリ階層を清掃しようと企てていました。それは自立した民族性を砕き、それでも民族が残る場合は、奴隷階級として生かせる積りでした。特に注目すべき記念碑として、シンティとロム(ジプシー)語で書かれたものもあります。異民族の間をさ迷うこの民族は、死滅すべき民族と見なされました。表面的な利益を追うことが中心となったイデオロギーでは、異質な全ての存在は人非人、即ち、無駄な存在と見なされ、人類の歴史にとって無用な要素とされました。国家社会主義労働者党(ナチズム)との戦争で多数の戦死者を出したロシア民族の言語で刻まれた記念碑もあります。彼らの使命に就いては、また別の感想があります:一方の独占者の手から民族を開放しながらも、新たな独占者に奉仕しなければならなかった。それは、自分の政権を人民に押し付けたスターリンの独裁と共産主義のイデオロギーでした。その他の全ての記念碑も各民族の言語で記載されており、それらの全ては、ヨーロッパ全州の人間の苦悶を語っています;テロの暗黒下で殺害された人々を被害者の集団としてではなく、それらの一人一人の顔を眺めたならば、更に深く私たちの心を痛めることでしょう。私の個人的な気持ちから、ドイツ語で刻まれた記念碑の前に立ち止まりました。“十字架のテレサ・ベネディクト会”の修道女で、ユダヤ人であると同時にドイツ人であったエディタ・シュタインの姿が目に浮かんできます。彼女は強制収容所の暗黒の中で、彼女の妹と共に亡くなりました。ユダヤ人であって、しかもキリスト者として、ユダヤ人たちのために、彼らと共に死ぬことに合意しました。当時、アウチュヴィッツ・ビルケナウに送り込まれ、ここで殺害されたドイツ国民は“国民の浮滓”(Abschaum der Nation)と見なされていました。今日では、私たちの国民の中に生きていた、真実と善行の証人としての彼らを、感謝の念を持って記憶しています。彼らは悪政府の力に負けず、今日、夜の暗黒に光を与えていて呉れていることに対して私たちは感謝をしています。衷心から感謝の念を持って、彼らの前に頭を下げます。彼らの行動は、恰も火の燃える炉の中で殺された三人の若者たちのそれに似ています:“私たちの仕えている神のみが私たちを救い出すことが出来ます。たとえそうでなくても、王よ、ご承知下さい。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたの立てた黄金の像を拝みません”(ダニェル書、第3章、17節以降を参照)。
そうです。これらの記念碑は無数の人たちの運命を記念するものです。これらの人たちは私たちの記憶を揺り起こしています。私たちの心を揺り起こしています。私たちの胸に憎しみを抱かせるのではなく、寧ろ、憎しみの結果が恐ろしいものであることを示唆しています。理性が悪を悪と認めて、それを放棄すべきであるとをこれらの記念碑が物語っています:これらの記念碑は私たちに、善に対して勇敢であるべきことを教え、悪に対する抵抗を期待しています。ソフォクレスが纏めた想いをアンチゴナの口を通じて伝えられた言葉が今の私たちの気持ちを表現しています:“私は、一緒になって憎しむためにここにいるのではなく、一緒になって愛するためです。”
この場所を想い起こす記憶を新たにすることが出来ることで神に感謝しましょう。ここでは、悪に対して対抗し、善を築くことに貢献している多くのイニシアチブが生まれています。先ほど、私は“対話と祈りのセンター”を祝福する機会を得ました。その近くで、カルメリタン女修道士たちが一般社会から離れて、静かな生活を営んでいます。彼女たちは、神秘な十字架と一体になっていることを殊更に感じて、神が人間の苦難の場所である地獄に降り来たって、私たちと共に苦しんでくださると言う、キリスト者の信仰を私たちに喚起させています。オシヴェンチム市には、フランシスコ会の“聖マクシミリアン・センター”、“アウシュヴィッツとユダヤ人大量虐殺(ホロカースト)国際教育センター”、“国際青少年交流の家”などがあります。昔あったユダヤ教の“祈りの家“の一つに、現在、”ユダヤ・センター“が設置されています。“オシヴェンチム人権研究アカデミー“が設置される計画があります。大量虐殺の場所から建設的な反省思考が芽を出し、成長するであろうこと、過去についての記憶が悪に対抗することを助け、愛することが勝ちを収めるであろうとの希望が持てます。
アウチュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所では、人類が“死の陰の谷間”をさ迷う経験をしました。その意味で、私の発言の最後に、ここで詩篇の言葉を借りてお祈りをしたい。詩篇はイスラエルの祈祷書であると共に、キリスト教の祈祷書でもあります:主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。死の陰の谷間を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。。。命ある限り。。。主の家に私は帰り、生涯、そこに留まるであろう。“(詩篇、第23章、1−4、6節)。
(注: ここで引用した聖書の言葉は、日本聖書協会発行の口語訳聖書を利用しました。)