書評 長谷川二郎
アダム・ダニェル・ロットフェルドとの対談:
各世代は過去に対する自らの認識を新たに特定しようとする
誰でもが天使のような人になれる
質問者:イェジー・ハシュチンスキとピォートル・ジホヴィチュ
最近のヨーロッパに於ける政治・社会に関する情況は非常に興味深い局面が多々あります。特に、昨年5月より旧EU(欧州連合)15カ国に加えて、主に東欧諸国の10カ国が正式加盟を果たしたことで、EUの活動範囲が大幅に拡大したこと、また、今年は第二次世界大戦終焉後60年に当たり、年初より各種の記念祭が多数各地で開催され、今まで隠蔽されていた歴史事実を公式的な見解として各国代表や各種の公共的な機関が発表し、色々な政治的、社会的な動きや事件を正しい歴史的な感覚で理解することが要求されています。新しいヨーロッパ史を書くのではなく、今まで言及することが“タブー”になっていた各種の局面が解明されつつあることにより、理解すべき歴史事実が複雑に入れ混じる情況を呈しています。
その様な状況の下で、最近当地の日刊新聞『Rzeczpospolita』(ジェチュポスポリタ紙)5月24日号に掲載された、ポーランドの外務大臣ロットフェルド氏とのインタヴューは、過去のこの地域での戦争や地域的な紛争が如何に複雑であったかを、同氏自身の体験を通じて語っているだけに、東欧事情に興味を持たれる方々のご参考にして頂くだけの価値があると見て、下記にその全文を翻訳し、筆者の注釈を付けました。
ヨーロッパでの第二次世界大戦は、ドイツ・ナチ国が1939年9月にポーランドに侵攻して始まり、1945年5月になって連合国諸国がヨーロッパの平和を勝ち得たことは周知の通りですが、戦争終結後、直ちに形の変わった“東西の冷戦”が開始されたことにより、ヨーロッパが二分され、東・西の両陣営に於いては、過去の60年間、お互いに都合の良い“歴史”を編纂して、国民を教育して来ました。それがEU連盟の東側への拡大と共に、その様な“我がままな歴史”判断ではヨーロッパ史の真実を理解できないことが公式の場で表明されています。今年になって初めて、歪曲された歴史に気が付いた訳ではありません。正しい歴史の把握を要望する運動が古くからありましたが、それらは概ね少数意見として、公式見解では隠蔽されていました。その様な“少数意見”が特に今年になって爆発的に公式見解として認められる様になりました。今まで、“一般的な常識”として歴史を理解して来た我々にとっては、ある種の戸惑いを伴うものです。ここに紹介するインタヴューは、ヨーロッパの東部で9世紀以降、現在まで連綿として積み重ねられて来た歴史の基盤に、その特徴として何があるのかを一部的にも教えてくれる内容を持っています。この様な“情報”を頭に入れておけば、現在のヨーロッパ(特にその東部)で起こっている情況を理解する助けになるものと思います。
ヨーロッパに於けるユダヤ人問題は、ナチに大量殺戮された民族であると一言で語る訳には行きません。東欧諸国での少数民族としてのユダヤ人の生活事情、ドイツ・ナチとソ連のこの地域に於ける(悪質な)戦争行為とその覇権政策、近隣諸国・民族間の紛争(例えば, 第一次世界戦争直後の1919−1921年のポーランド・ボルシェビキ戦争、その直前の地域的なポーランド・ウクライナ紛争、似た様な紛争がポーランド・リトアニア間にもある)、第二次大戦後のソ連主導の共産圏主義政権、昨年暮れのウクライナ大統領選挙、それを盛大に援助したポーランド、独裁政権を確保するプーチン大統領のロシア、白ロシアとポーランド間の最近の紛争(在白ロシアのポーランド少数民族に対するウーカシェンコ大統領の政策)、この地域に於ける宗教(各種教会の)分布とそれがもたらす隣人共存問題など、これらは全て個別の研究を必要とします。。。。。。。。。
出所:Rozmowa/ Adam Daniel Rotfeld(1): Każde pokolenie próbuje
na nowo określić swój stosunek do przeszłości, Każdy
może być aniołem; 質問者: Jerzy Haszczyński i Piotr Zychowicz, Rzeczpospolita,
24 maja 2005(『ジェチュポスポリタ』紙 2005年5月24日号)、第8ページ、トピックス:人々と事件(Ludzie i zdarzenia)
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問: 大臣閣下、まず最初に、貴殿がポーランド外務省の活動の範囲を超えて、我々新聞社が取り扱った“ポーランドの収容所(命名)”に反対するキャンペーンにご援助を頂いたことに対して、お礼を申しあげたい。(アウシュヴィッツ強制収容所に)この様な名称を付けることは、ポーランドの歴史を外国で歪曲されているがためです。この件ではどの様な結果がでましたか?
答: 予期した以上の成功を上げました。我々の訴えは多くの有力者グループの手元に行渡った。マス・メディアの管理者、主要な新聞の主管、通信社の主導者、更には、マス・メディアにおける基本的な倫理を管理する団体などの手元に行き届いた。これを通じて新たな友人も得た。それはドイツとかイスラエルとかの国のみならず、例えばカナダでも。実を申せば、これにはかなりの時間が掛かると思っていた。皆で一緒にやれば、多大の効果が得られると言うことが解った。この件に関して、外務省が広範囲に渡るレーポートをインターネットに乗せました: www.msz.gov.pl(2)
問: 何か訴訟問題が予想されていますか?
答: 私にとっては、この種現象の源を探し、その根元を解消することの方が重要です。この種の現象は、時によっては、注意の欠如や問題を良く理解していないことから派生しており、時には、悪意を持って記載された場合もある。悪意がある場合は、たとえ法廷で争っても、情報活動を以ってしても、解決のできないものです。
問: “ポーランドの強制収容所”について記事を執筆した報道関係者の中に、悪意を持って記載した人が多くいましたか?
答: 我々は長い間、冷戦の影響を受けていたとの感触があります。ドイツ共和国連邦は自由主義諸国の側に、即ち友好国側に組み入れられていました。西側では、彼らの(ドイツ人の)気持ちを悪くする様なことを避けていました。まず最初に、第二次世界大戦での犯罪行為の責任に関して、形容詞としての“ドイツの”と言う用語を削除し、その後、“ドイツ”と言う国名を“ナチズム”に変更しました。西側では東独を非難しましたが、それはソ連主導の独裁制を非難したものです。この様な雰囲気の下で数十年が経ち、新聞記者の数世代を教育して来ました。大使館とRzeczpospolita紙との共同活動で成果を挙げた。一方、ワルシャワ蜂起博物館には、歪曲した、反ポーランドに関する典型的な誤解を持つ大量の書類と我々のそれらに対する抗議書をワルシャワ蜂起博物館に提供しました。今日では、これは恒常的で、毎日行っている運動となりました。ポーランドの外交機関はこの問題に関して、極端に神経質です。
幸福な生まれ
問: 大臣閣下、貴殿は戦争の直前に、ソ連軍が1939年9月以降占領し、その後ドイツ軍が占領して、貴殿の家族全員を殺害した地域に生まれておられます。貴殿は両方の独裁政治の統治を経験されています。あの時代に関する貴殿の個人的な回想は如何なものですか?
答: 私の体験は、他の多数の人たちが受けた程の恐ろしい経験ではありません。幸福に生まれたとさえ申せます。恐ろしい体験をしたとは言っても、兎に角、戦争を生きながらえました。親切な人たちにめぐり会うことが出来て、幸運でした。
私の両親はオーストリア帝国領内で生まれ、教育を受けています。大学ではドイツ語による教育を受け、ドイツ文化に対して前向きに受容する態度を示していました。1941年にドイツがソ連に侵攻した際、ルヴォフ市近郊のプシェミシラニ町の隣人が私の父親に馬車を提供して、家族全員を東側に連れて逃げろと指示しました。父はそれを拒否しました。後年、その隣人の息子の説明によれば、私の父が“拒否”した理由は、ドイツ人は文明化した国民であり、彼らを熟知しているが、一方、ボルシェビキが野蛮であることを恐れていたからだそうです。
それが誤りでした。東側に逃げておれば、生きながらえていたかも知れません。正に、この“文明化した”ドイツ人が殺害者でした。父はこのことに逸早く気が付いたようで、多数の隣人たち共に森の中に逃げ込みました。戦中最大の寒波が来た際、学校の校長が越冬するために学校の納屋を両親に提供してくれました。処が、ウクライナ人の一人がこれを知り、ウクライナ警察に通知しました。両親は捕絆され、町へ連行され、公衆の前で処刑されました(3)。
問: その時、貴殿はどうされていましたか?
答: 私の両親はそれより先に、ウニュフ町のグレコ・カトリック(4)の修道院に私を匿ってもらう様にアレンジしていました。この修道院は、ルヴォフ大司教アンドレイ・シェプティッツキの弟、クレメンス司教が管理していました。司教クレメンスは偉大な哲学者でした。私の父は戦前からこの修道院の法律顧問をしていました。ウニゥフに移動したのが3.5歳の時。戦争が終わるまでそこに居ました。従い、ウクライナ人は私にとって、良役と悪役を演じています。このことから簡単な結論が出てきます: 如何なる国民であっても迫害者、加害者としての国民となる免疫性を所持していないと言うことです。無罪である国民、涙の様に清潔な国民はあり得ません。しかし、如何なる国民の中にも、利他主義とか私心のない親切心を持つことが出来る人やその様な人たちのグループがいます。
この歴史的条件、多くは政治的なシステムが人の行動を決定させています。我々の倫理的な義務は、相互に親切心、共感、同情を表す人のグループを拡大させ、人間の暗い面を露呈させる傾向のあるグループを削減することです。聖書にも書いてある様に、人間は天使と悪魔の性格を所有しています。悪魔とは堕落した天使であることを忘れてはいけない。我々は選択の自由を持っている:誰でもが天使のような人になれるが、人生に於いて悪い決断をすれば、悪魔になってします。
タブーのない史実
問: 先般の第二次世界大戦終了60年周年記念祭では、色々なビジョンや過去に関する評価があることを確信しました。我々の歴史が尊重され、外国で正しく評価されるために、これからポーランドして何をすべきでしょうか?
答: この質問は非常に重要な問題を突いています。この種の問題が解明されるために、なぜ60年もの時間が必要であったのでしょうか? まず第一に、長期間この問題がタブーにされていました。正しく、大声で言うことの禁止令が解除された時点で、直ちに、発表禁止がなされていた案件が倍の力で表面化しました。もしも、1945年或いは1947年の時点で、戦争に関する事実を語ることが出来ていたならば、この様な案件は解決済みであった筈です。
第二に、数世紀を通じて闘争し続けている隣接諸国の国民が同一に理解しえるヨーロッパの共通した歴史、それが無理ならば、少なくとも各隣接する諸国の共通する歴史を書くことが出来そうであるとの理念は理想的であり、ナイーヴで、幻想的なものです。フランス・ドイツ間関係、英国・スペイン間関係、イタリー・オーストリア間関係でこのような歴史は記載されていませんし、我々の場合でも無理です。
例えば、ポーランドで、戦争の大英雄アレキサンデゥル・スヴォロフ(5)に勲章を授けることに合意で来ません。ワルシャワのプラガ地域での殺戮から200年の時間が経っていますが、我々に取っては非常に苦痛な事件です。
第三に、歴史が往々にして利用されます。歴史の一部のみを引用して、複雑で、多種多様な局面が隠蔽されます。例を挙げて見ます。市民の蜂起がある度に、ポーランドのエリート階層の重要な代表者らがシベリアに追放流浪にされています。我々の記憶には、このことが「負」の現象として残っています。エリートが居ない民族は単なる群衆の集まりであり、まともな社会ではあり得ないからです。我々の敵側陣営が絶えずポーランド社会からエリートを削減しようと試みたのは偶然ではありません。
反面では、流浪の身となったポーランドのエリートの中には、東シベリア及びロシアの発展に寄与した人たちが多数いました。これらのポーランド追放流人の名前は、ロシア民族の歴史の有名人です: コンスタンティ・チョウコフスキ (追放流人の息子で、ロケットの理論を提唱して、宇宙探索への利用が可能であること体系付けた。チョウコフスキ公定式=1903年)(6), ヤン・チェルスキ(地理・地質学者、探検家)(7), ミコワイ・プシェヴァルスキ(地理学者)(8)やその他多数の人たち。これらの人たちは政治活動を禁止されていたので、彼らの精力と技能を学術研究に打ち込んだ。彼らは発明者、学者、地理学者として有名である。
殺害された人たちのために
問: ドイツでは第二次世界大戦の歴史を新たに記述しようとする運動があると多数のポーランド人が理解しています。その証拠として、“追放された人たちのセンター”建設の計画。貴殿はこれに就いて心配されていませんか?
答: そうです。既にこれについて数度発言しています。各世代が過去に対する自らの認識を新たに特定しようとしています。ドイツでは、戦争の結果として、彼らが居住していた土地から追放された人たちの苦心を表現することは、長期間政治的に不適当であると見なされていました。ドイツ人が行った殺戮行為(ある種のグループは“ドイツ人”ではなく、“ドイツ民族の名前をたかって”と主張しています)があっただけに、彼ら自身の苦痛について発言することは行儀が悪いと理解されていました。
60年の歳月が経ちました。 人は(亡くなった)親近者を慰霊する権利があります。この場合、戦争の加害者であったか、被害者であったかは問題ではない。我々はこのことを理解すべきです。但し、歴史を歪曲しようとするとか、新たな歴史を書こうとすることを許容する訳には行きません。如何にも、ユダヤ人とドイツ人のみが戦争の被害者であったかの様な表明には合意出来ない。Erica Steinbach(エリカ・シュタイバッフ)女史とかババリア地方のEdmund Stoiber(エドムンド・シュトイバ)首相がその様な考えを持っているとは思っていません。しかし、彼らの活動は、その様な歴史的理解をする方向に向けられています。
問: では、どの様な対抗処置が取れますか?
答: ポーランド大統領クヴァシニェフスキとドイツ大統領ラウの“グダンスク宣言”(2003年9月)が第一の布石でした。情況の打開策を探し始めました。残念ながら、今日、ドイツでは総選挙が間じかに控えていることより、危険な発言が聞こえて来ます。これが心配です。
問: “追放された人たちのセンター”の建設だとか、それが新たに設置された“殺害されたユダヤ人の記念碑”の近くに予定されているとか。どうも問題が穏やかではない様に見受けれらますが?
答: これは両者の受けた苦痛を均等にしようとする試しでしょうか。詰まりは、両方が支払った犠牲が同等であるとのシンボルを設置すると言うことです。時間が経てば、追放で受けた損害が拡大して行きます。。。
確かに、ドイツ人は昔から居住していた地域から追い出された訳ですが、その理由がドイツの侵略であり、殺戮政策であったことを忘れてはならない。必ずしも、追放されたのみではなく、ドイツ人の大半は、ロシア軍の侵攻を恐れて西側に逃亡した訳です。居住地の変更を自分の意思で行っています。新政府(ソ連)の統治下に組み入れられることを恐れたからです。
更に、もう一つの局面。家屋から追放されたドイツ人は生まれ故郷を失った訳で、その様な犠牲を嘆く手段を持っていますが、何百万もの人たちは、ガスで殺戮されて、既にそのことを訴える可能性を持っていません。即ち、生き残った人たちのみが要求の声を挙げている。我々の義務は、亡くなった人たちの名前で以って真実を語ることです。
問: 万が一、このセンターが設立された場合、ポーランドとしての対抗処理は以下にあるべきでしょうか?
答: これは未だ決まった話ではない。歴史の色々な場面に於いて、ポーランドとドイツのエリートたちはお互いに共通した理解を勝得てるので、今回も両国の社会と全ヨーロッパの利益のために両国の合意が得られると信じている。付け加えれば、今回、我々が置かれている情況は非常に有利です。我々のドイツとの関係は優良です。(両国間で)今ある情況にまでなろうとは想像もしていなかった。ポーランドはドイツを信頼しており、ドイツはポーランドに対して信頼感を以っている。
過去半世紀に渡り、ポーランドに対して友好的な態度を取ったドイツのインテリ及び政治家のリストは長い:Marion Doenhoff - Richard von Weisaecker, Brandt - Schmidt,
Kohl - Schroeder, Rau – Fischer - Koehlerらなど。従って、悪い予想を立てたくありません。センターが設立され得ないために何をすべきかを彼らと協議したい。これは可能だと思う。最近のStoiberの発言は、票を集めるための選挙口約の一要因であると信じたい。しかし、このことは、残念ながら、ドイツの社会にこの様な発言が受け入れられる基盤があるとの証拠です。
ロシアの立場
問: 最近、(ドイツの雑誌)“Bild”に掲載されたシュレーダ宰相は概ねプーチン大統領の発言の全てのポイントに合意をしています、大戦の評価についても。貴殿はこれをどの様に解釈されていますか?
答: 我々はマス・メディア、ことに“動画”(TV)での、勢力が強い時代に生きています。テレビが社会に及ぼす影響は巨大で、人々は読まなくなっている。“Bild紙”は動画と書き物との中間的なものです。そこに簡易化の恐れがある。
シュレーダ宰相は難しい状況に置かれている。ドイツはソ連領域内で最大級に恐ろしい殺害を行っている。今日では、戦場やその他の場所で殺害された人々の数を2,600万―2,700万とも言われている。シュレーダはこれを認識しており、ドイツ側の罪悪意識を持っている。
一方、プーチン大統領は、彼の人生にとって重要な時期に(ドイツの)ドレスデンで生活していた。その時期に彼の個性が形成されている。ドイツ人の規律性に彼は感銘している。ドイツ語を上手に話す。同じ様な成果をロシアでも収めたいと思っている。
ロシア・ドイツ関係で友好な時期があった。例えば、我々の間でも“ラパロの魂”と言えば、全く受け入れられない「負的な」ものです。この歴史を知っている人たちの間では、我々の頭の上に覆いかぶさっている、何か幽霊的なものとか、恐怖とかを想定する。ドイツとロシア間の友好関係は、我々にその様な恐れを思い起こさせるのは当然です。今日、我々は全く異なった世界に生きている。ドイツ人とは同じ軍事機構(NATO)の傘下で、EU連盟の共同体の中で生きている。我々エリート階層の関係は非常に友好的である。
問: ロシアとの関係を良好化するためにプーチンの後継者を待たねばなりませんか?
答: いいえ。ロシアとポーランド間の関係は両大統領によってのみ形成されている訳ではない。 確かに、慣例的に統率する為政者の発言力は大きい。我々がロシア側のことを考えている程には、ロシアはポーランド側のことを思ってはいない。ポーランドがNATO機構及びEU連盟の一員であると言う事実は、ロシア側の意識変革に影響を与えるべきものであり、しかもその変革は良化の方向に向けられるべきである。
問: 貴殿はクヴァシニェフスキ大統領がモスクワでの60年祭に参加したことを援護しておられる。この訪問で何を得たと思われますか?
答: “不在者は発言権を持たない”と言うことから始めたい。モスクワへの招待を拒否することは、得ることよりも失うことの方が大きい。(不参加は)ロシアを恐れる(反ロシア)意識がある故である見なされて、一部の政治家たちを喜ばせる危険を持ち、過去・現時に於いてポーランドにとって何が重要であるかを訴える機会を失う。それはポーランド地下政府代表者らに対するスターリン時代の迫害であり(ク大統領は、ドン墓地に墓参りして、レオニード・オクリッツキと在英ポーランド臨時政府の国内向け派遣団副主管スタニスワフ・ジャシュコヴィツ墓前で敬意を払い、サハロフ博物館も訪問している)、“第3次ライヒ”との闘争に於いて、ポーランド軍がソ連軍、米国軍、英国軍に続いて多数であった第4軍として参加していたことを正当に評価してもらうことである。この大戦に於いては、戦争開始の初日からそれが終焉する日まで我々ポーランド人は戦ったのです。このことが、ヨーロッパの他国と異なる重要なポントであり、ドイツ側に加担したバルト海沿岸諸国と明らかに襟を分かつものです。
これらの国は、戦後、ソ連邦に合体された。ポーランドは、主権を制限されていたとは言え、自己の国家機能を回復した。言葉を代えて申せば、ポーランドの大統領のモスクワで(記念祭で)の不在は、わが国を実質的に“欄外”に落とし込むことです。(モスクワには)その他の全ての反ヒットラー連合諸国の代表が参加していたではないですか ?
思っている通りのことを申します
問: 貴殿は、長期間、学者として外務省に任務されています。その後、貴殿は外務次官となられ、外務官、外交官のトップとなられましたが、華々しい政治の影に隠れておられる。今日、貴殿はポーランド政府の意見を表明する大臣でおられる。貴殿の発言が外交辞令に掛けているとの批判を受けておられませんか?
答: 思っている通りのことを申しています。これが私の基本です。外交官は嘘をつくべきと思っている人は間違っている。或いはまた、外交官は、その場、その時点で、政治的に適宜な発言をすべきであると思っている外交官も多数います。この様な意見は間違っていると思います。話相手が、こちら側が何を考えているかを理解してくれる場合のみ、政治的な意味合いがある。明確に表現せねばなりません。(相手側を)怒らせてはいけない。但し、困難な問題を避けてはいけない。真実を表明すべきです。
[脚注]
(1) ロットフェルド氏は現在のポーランド政府外務大臣。1938年3月4日、旧ポーランド国領、ルヴォフ市近郊のPrzemyślany(プシェミシラニ市)でユダヤ人の家庭に生まれる。1960年、ワルシャワ大学の国際法専攻で修士学位を取得、クラクフのヤギェウォ大学デ1969年、博士学位取得(法律)、2001年から教授。既に1961年からポーランド外務省外郭部隊で活動、1973年からKBWE(ヨーロッパ安全・協力会議ESCOOP)に参加、2002年4月から外務省次官に就任、2005年1月5日から外務大臣。生粋の外務畑のキャリアー。
(2) 外務省のレポートの題名は「ポーランドの収容所(命名)に抗議して」。ここには、この問題に関するヨーロッパ会議決議書(2005年2月27日付け)やRzeczpospolita紙のこれに関するキャンペーン記事(2005年2月15日付け)なども掲載されています。この問題については、拙筆エッセイ「戦後60年のポーランド」を参照下さい。
(3)
戦前のこの地域一体に居住していた人たちは、人種的に、文化的に複雑であった。如何にも、多種民族の“坩堝”を呈していた。ポーランド系住民が35%、ユダヤ系が30%程度も居たとか。この地域は当時のヨーロッパでも、極端にユダヤ人が集中して居住していた地域。その他、ウクライナ人、白ロシア人、ロシア人、リトアニア人、ドイツ人など。
―彼らの政治的な意識も複雑。一般的に、ウクライナ人はポーランド人に対して、第一次世界大戦の終結直後(1917−1918年)のポーランドとウクライナ紛争が両民族の関係を悪くし、第二次大戦中、ドイツ軍がこの地域に侵入して来た際には、彼らはドイツ軍を加担。再度ソ連軍が侵攻して来た際には、ドイツ粉砕の態度を取ったと言う経緯がある。
―今日まで両民族間の蟠りとして、ルヴォフ市内にある“ルヴォフのオルレンタ墓地”再建の記念祭問題がある。オルレンタとは“若い鷹”を意味しており、これは従来ポーランド領であったルヴォフ市内でウクライナの民族派が紛争を起こして(1918年)、最若年者7歳から13歳までのポ国少年たち117名を含めて、439名の市民がルヴォフ市を死守し、彼らの墓地が建設されたのを始め、1919―1921年のポーランド・ボルシェビキ戦争の戦死者、第二次大戦の両民族の戦死者などが埋葬されているが、戦後、ソ連政府により破壊され、1989年以来、両国民の協力によって再建工事が進められ、2002年に再建記念式が予定されていたが、ルヴォフ市議会によって記念祭を開くことが拒否されていた。去る4月、ユシュチェンコ大統領が責任を持って債権記念祭を開催するとポーランド側に約束をし、去る6月6日にルヴォフ市側とポーランド側代表との間で合意に達し、まだこの6月中に再建記念祭が可能となったもの。長期間、墓地の再開問題が空転していた理由は、墓地の記念碑に記載する文章の内容がウクライナ側の拒否の理由となっていた。最終的には、1919年の戦死者を“ポーランドの英雄”と記載しないことで両者が合意した。また、ポーランド側では外務大臣がこのことを公表したが、ウクライナ政府はルヴォフ市民の“地域愛国心”傷つけないために、政府レベルでの発表を控え、ルヴォフ市庁に公表を委ねたと言う。問題が一応の解決を得た後でも、それ程に両国民間のデリケートな問題であることに注意したい。
(4)
グレコ・カトリックの礼典はギリシャ正教の様式を保守しているが、西側のローマ・カトリック法皇を“主祭者“と認めています。宗教面でもこの地域は複雑。
(5)
Aleksandr Wasiljewicz
Suworow (1729−1800)、ロシアの将軍。露土戦争でイスマイルに進入したことで有名。一方、ポーランドの「コシチウシュコ蜂起」(1794年)を鎮圧したことでも有名。その際、ワルシャワ・プラガ地区で住民の殺戮を行った。
(6)
Konstantin Edwardowicz Ciołkowski
(1857-1935)
(7)
Jan Czerski(1845-1892), 1月革命に参加して、捕らえられ、シベリアに追放流人となる。シベリアの各地を探検。バイカル湖沿岸地帯の地質図をロシアで始めて作成(1881年)。
(8)
Nikołaj Michaiłowicz
Przewalski(1839-1888), 中央アジア地域の地理学者、探検家、ロシア軍大将。蒙古から北京向けて探検旅行(1870年)。ステップに生息する野生の馬を捕捉。後に「プシェヴァルスキ種の馬」として有名。
(ワルシャワ 2005.07.20 はせがわ じろう)
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