長谷川二郎
今年は第二次世界大戦が終了して(ヨーロッパでは1945年5月9日)満60年の年月が過ぎ去った年に当たり、新年早々からこの戦争に関して各種の記念の催しが開催されています。現在の世界の政治・社会状況の下で、米国の動きのみならず、ヨーロッパ諸国も、その特徴を明確に表わす動きが出て来ており、それがため、今まで東西冷戦下の時代では見えなかったもの、寧ろ、隠されていたものが表面に浮き上がり、戦争の歴史的事実が明確になって来るのみなでなく、現在のヨーロッパ社会の特徴があちらこちらで見え隠れしています。そのため、我々ヨーロッパに生活をしている者にとって今年は“ヨーロッパ勉強”を大いに深めることが出来る年となりそうです。「アウシュヴィッツ収容所」のソ連赤軍による開放60周年記念祭、、ヤルタ会議60周年(戦後のポーランド国境線を決め、ソ連の影響下に置く)を踏まえた5月9日のモスクヴァで予定されている終戦60年記念祭(ドイツの敗戦宣告)への準備、これに伴うポーランド国内の事情、ポ国とロシアとの関係などに纏わる状況を観察しておれば、経過したこの60年が今日のヨーロッパに与えている歴史的な環境を再度検討する良い機会であると思います。
その様な感触を強めた最初の動きが、去る1月27日、厳寒(−5度C)の下、しかも雪が降る中で(降雪30cm)、アウシュヴィッツ強制収容所の開放60周年を記念する国際的な集会でした(1)。これはポーランドの旧都クラクフ市の国立劇場(2)とアウシュヴィッツ収容所内の国際記念碑前の2箇所で行われ、ポーランド大統領及び政府が46カ国の外国からの代表を招待したことで、今までの「アウシュヴィッツ収容所国立博物館」(3)の歴史にない国際的な大集会となりました。参加者は、今も生きているアウシュヴィッツ収容所の囚人のみでなく、ヨーロッパ諸国の大統領や王族の代表を主体としたもので、ポ国にとっても、一時期にこれだけの数のVIPのポ国訪問は非常に稀であり、昨年8月1日の「ワルシャワ市民蜂起60周年記念祭」を上回る国を挙げての行事となりました。ヨーロッパだけでも、ドイツのケラー大統領、フランスのシラク大統領、ロシアのプーチン大統領、就任宣誓したばかりのウクライナのユシュチェンコ大統領(時期柄、彼はVIPの中でも花形で、報道陣の関心が彼に集中しました)(4)、英国のエドゥアルド公と戦争ベテラン軍人、ベルギーの女王ベアトリチェとアルベルト2世、ベルススコーニ・イタリア首相、その他小国の大統領や首相など。ヨーロッパ以外からは、米国のチェネイ副大統領、イスラエルのカツェフ大統領など(5)。アウシュヴィッツ収容所がアジア諸国とはあまり関係ないことにより、極東や東南アジアからの国家代表は参加しなかった様ですが、原爆の広島がアウシュヴィッツ収容所と比較されるだけに、全体で1,600名の報道陣の中に日本からの報道陣もいた様です。以前から日本人にとっては、アウシュヴィッツ収容所がポ国での観光旅行の行き先リストのトップにあり、在ポーランド邦人の方々の中には、既にアウシュヴィッツ収容所を見学された方が多数おられることと思います。無数の書籍が発行されており(6)、最近は日本人ガイド(中谷剛氏)に日本語で収容所博物館を説明してもらえる様になっている程ですので、ここではアウシュヴィッツ収容所そのものの説明を控えます。

「アウシュヴィッツ収容所」の博物館はポ国南部、クラクフ市から50km程西にある、ポ国名オシヴィエンチム(Oświęcim)市にありますが、最近では「KL
Auschwitz-Birkenau収容所」とドイツ語のままで命名されています。要するに、略称ではありますが、「アウシュヴィッツ収容所」を語る際には、“オシヴィエンチム=ブジェジンカの収容所”とは呼ばず、あくまでもドイツ語名の“アウシュヴィッツの収容所”と言う名前が使用されています。しかも、所謂「アウシュヴィッツ収容所」は単数ではなく、例の有名な“Arbeit macht frei”(働けば自由になる)と記載された看板を掲げた入り口の門がある収容所を「アウシュヴィッツ(第一)収容所」(20ヘクタールの広さ)とし、そこから4km程離れた処にある“Birkenau (ブジェジンカ) (第二)収容所”(広さ171ヘクタール)としているがために、両者を合わせて一つの名前で、「KL Auschwitz-Birkenau収容所」の名称を使用しています。ポーランド共和国の文化省が管理する「博物館」名と歴史を語る際の「収容所」名の使用は別にすべきですが、この称号問題は、丁度昨年5月1日、他の10カ国と共にポ国が正式加盟したEU連合の「EU評議会」で、この1月に入ってから大議論となりました。EU連合の名前で「アウシュヴィッツ収容所」開放60年周年を記念する決議案の中に、“ポーランドの強制収容所”との表現があり、これにポ国代議員グループが反論し、“ドイツの収容所”と表現すべきであると提案。一方、EU社会主義者グループやドイツの代議士の一部が、全てのドイツ人が「アウシュヴィッツ収容所」に関与した訳ではないので、“ドイツの”と言う表現を削除することを要求し、一次混乱しましたが、最終的には「ドイツ・ナチの強制収容所」(7)との表現に落ち着いた経緯があります(1月26日に可決)。“ポ国の(領土内にある)アウシュヴィッツ収容所”と言う表現が世界的に広く使用されていることに対してポ国政府が抗議しており、EU評議会決議の以前に、国連の「アウシュヴィッツ収容所」60周年記念決議案を裁決した際にも(1月24日)、ポ国代表がこのことを指摘していました。その後、「アメリカ・ユダヤ協議会」でもこのポ国政府の表現に同意する旨の声明を出しています。 どうでも良いのではと思われ勝ちな用語の問題でこれ程の議論をするのは、歴史的事実を的確に表現することが歴史を正しく理解することに繋がるものであるからと見るべきでしょう。
「アウシュヴィッツ収容所」の称号問題とは別の話ですが、特にこの記念集会に関連して、戦争を知らない若い世代の歴史教育における収容所の問題が議論され、新聞によっては、ポ国や外国の教科書を引用した議論も出現しました。何れにせよ、今回の記念祭は歴史教育の重要性を強調した集会となり、「アウシュヴィッツ収容所」域内とか、ワルシャワ市内に新たに記念博物館(新ホロコースト教育センター)が建設されることになっています。この種の政治的動きが速いことに感銘を受けました。
ベルリン市近郊のWansee(ヴァンゼー)湖畔に現在ひっそりと立つ宮殿が、「アウシュヴィッツ収容所」の建設に就いて協議した(15名のドイツ政府高官が集まったと言う)会場であったことを記念して、現在「ホロコースト博物館」になっています。この宮殿で“ユダヤ人問題の最終的な解決方法”に関しての決定が下り、1,100万人のユダヤ人を「アウシュヴィッツ収容所」で“処理”しようとの計画がなされたそうです(8)。 極右派の活動として、アウシュヴィッツ収容所はポーランド人によって建設されたとか、ユダヤ人を殺したのはポーランド人であるとか、或いはまた、アウシュヴィッツ収容所の如きものは無かったと主張するグループがあります。雑誌「ステルン」が行った社会調査によると、現在のドイツでは、アウシュヴィッツ収容所に対する責任がドイツ人にあると意識する人が20%、責任を感じていない人が74%に分かれているそうです。
赤軍がアウシュヴィッツ収容所を解放したとの表現は行き過ぎであると評価している人達がいます。その理由は、終戦のま近かになって、既にソ連赤軍がヴィスワ河上流近辺まで侵攻した1944年夏以来、ソ連軍の侵入を恐れたドイツ側はアウシュヴィッツ収容所の“疎開”を開始し、収容所としての規模を小さくする動きがあったからだと言うのがその理由です。その時期にアウシュヴィッツ収容所から工業化された上レジア地方の中心地グリヴィツェ市(Gliwice)に向かった有名な“ユダヤ人たちの死の行進”が強制され、そこから6万5000人をドイツ領本土に輸送したので、赤軍が「アウシュヴィッツ収容所」を開放した時には、7000人程度の疲れきった囚人しか居なかった(もぬけの空?であった)そうです。 それでも66人の赤軍兵が[アウシュヴィッツ収容所]開放の戦闘で戦死したと言われています。今回、プーチン大統領が彼らの墓地に献花をしています(9)。去る5月3日、イスラエルの大統領も参加して、この「死の行軍」の再現がなされていました。
現今のポーランドとロシアとの関連は、目まいがする程に変化が激しく、今年はロ・ポ間の関係に大きな変化がありそうです。気を付けて観察しなければ、根底にある要点を見失う恐れが大いにあります。
数年前からポーランドでは、「カチンの森」事件(10)でポーランド軍将校たちが射殺されたことに関して「IPN」(国民記録庁)が国家的権威を持つ調査を行なっており、ソ連時代の資料の提供を要求しています。一時的にロシア側はその要求に合意しましたが、この2月末になって急に、ロシアが資料の一部を提供しないと表明し、現在、両国間の政治・外交問題となっています。ロシア側の資料提供の拒否はこれら書類を“極秘”扱いにしたとの理由。戦後60年も経て、戦中の資料を新たに“極秘”扱いにしたことに対してポーランド側から批判が出ています。これも昨年末、ポ国大統領が、米国政府に対する“ウクライナ問題”の解説に当たって、“米国にとって、ウクライナ無きロシア”は“ウクライナを抱えるロシア”よりも都合が良いのではないかと発言したことを始め、プーチン大統領のクラクフ訪問が大雪のため予定より1日遅れたことなど、ロ・ポ間の雲行きが悪いことの理由になっています。
ポーランド製油企業「PKN ORLEN」(プウォッツク製油・油化コンビナートを民営化し、その際、昔のガソリン販売会社CPNを合併させ、ポ国政府の持ち株数を30%としている)と国家財産省が企画したグダィンスク製油所の民営化や、ロシアからの原油輸入契約に絡む複雑な汚職(?)に関して、昨年からポ国国会内で特別調査委員会が発足して、この問題を公開形式の調査(テレビで実況放送)が今も続けられていますが、3月初めに入り、大統領がこの委員会の調査に証人として参加しないことを表明したことで、大統領(本年末に二期に渡る任期切れ)に対する世間の不満が高まり、悪くすれば、右派が大統領を国家最高裁判所(国家反逆罪)に訴えるとまで宣言して、現在、国を挙げての政治的な大紛争となっています。ポ国が製油する原料はその大半がロシアからの輸入(天然ガスも含む)であることは広く知られています。ひとつには、自由主義制度に移行した15年前から、2000年前後まで、偏ったロシア原油への依存を避けることが政府の大原則とされ、北海原油の輸入を試行した時期がありますが(二元制への移行)、左派政府樹立以降、原油輸入政策が“二元制”であっても、結局の処、同じロシア産原油の買付け(2社、その比率は30/60)が行なわれていて、その第2のサプライヤー選択に政府が関与することになったこと、二つ目には、グダィンスク製油所の民営化では、ロシア側(ウーコイル社)が買取りの意向を示したが、それに反対する力が作動した結果、この民営化案件は保留にされていることなど、ロシア産原油を基盤にした複雑な関係があります。ポ国のエネルギー源を握っているロシア政府のポ国政府や社会に対する牽制は根強く、それには海面の上・下での動きがあります。特にポ国内部の旧共産党員の個人・グループのロシア側政府や秘密警察(昔はKGB、プーチン大統領はKGB出身)の連携活動があり、その“蜘蛛の巣”の糸を辿って行けば、クファシネフスキ大統領官邸に行き当たると言うのが、上記の大統領と国会との紛争の火床です(11)。
ロ・ポ間の外交関係の難しさは、ロシア人の大国主義が表に現れているとの簡単な図式では理解出来ません。ポ国内政治とそれに影響力を持つロシアとの関連は複雑で、それも、その局面が時期により案件により色々な形に変容しますので理解に苦しみますが、箇条書きに纏めてみると、下記の様になります:
― ポ国の米国との緊密な関係形成への願い、米国のイラク・テロ退治に協力するポ国軍のイラク派遣(ロシアのチェチェン・テロ退治問題とのすれ違い)、
― 昨年9月、オセチンのビエスワン学童人質事件に関して、ポ国報道陣のロシア政府批判(チェチェン統治、テロ問題)、
― 昨年12月のウクライナ大統領選挙に於いてポ国側のユシュチェンコへの援助(ロシアのウクライナに対する影響力低下)、
― ポ国大統領の“ウクライナを抱えるロシアよりも、ウクライナなしのロシアであることの方が米国にとって都合が良いのではなきや”との発言(早速、ウーコイル原油調達の一時的にもしろ、ストップを掛ける牽制、ロシア側の常套手段)、
― 「アウシュヴィッツ収容所」60周年祭へのプーチン大統領参加の遅刻、
― グダィンスク製油所民営化案件に纏わるのロシア側の有形・無形の損失(ロシア原油のポ国側輸入に関連してポ国内政治が混沌とした混乱に陥っている。これには両国間スパイ事件が発生し、PKN ORLEN事件での政治家・企業家らのロシア側との“地下”での絡み合いが事実上否定され得ない状況となった)、
― ポ国側に約束をしていた“カチンの森”事件に関する書類提供の拒否(ロ・ポ間での外交書簡のやり取り、両国とも相手側の理解不足を非難)、
― チェチェン大統領マスハドフ銃殺事件に関してポ国側が“ロシアの政治的失敗”としてロシアを非難(ロシア側はテロ退治の現実をポ国側が理解しないと非難)。
― 4月2日死去したローマ法王(ヤン・パヴェル二世)が生前中、希望していたにも関わらず、ロシア訪問が実現しなかった理由の一つとして、法王がポーランド出であったこと
が原因とされています(ロシア政府、ロシア教会がポーランド人に頭を下げる程の外交辞令を持たないと言う意味)(12)。
来る5月9日には、モスクワで第二次世界大戦終結の記念行事が開催される予定になっており、モスクワから各国政府に対して招待状が出されているそうですが、リトアニア、エストニアの大統領はこれに参加しないとの回答を出しています。その理由は、ポーランドとは少々異なり、第二次世界大戦でドイツの占領が終焉したと申しても、継続的にソ連の占領が始まったと言う歴史的感覚です(独自の外交代表権なし)。ポ国大統領は「カチンの森」事件や「ヤルタ会談」に関する状況判断として、ロシア側に対して、“終戦60年になり、戦後の歴史の真実をそのままの“名称”(ソ連による占領)で語るべきである”とロシア側に箴言しています。しかし、このポ国大統領はモスクヴァを訪問して、記念祭に参列すると3月初めに公表しています。ポ国首相は既に早くから参列すると公表して、国内の批判を浴びています(13)。
この様にロ・ポ間の要点を書き上げて行くと、いかにもロ・ポ間の関係を白・黒で説明することが出来る様ですが、そうではなさそうです。表面的には、ポ国側がロシアに注文を付けているポイントがポ国の西ヨーロッパ文明に基盤するものであり、ロシア側のポイントは大国主義の表れであり、西側が言う“デモクラシー”(キリスト教社会民主主義)が未だにロシアでは受け入れられない様に見受けられます。その反面、過去10年程のポ国内の社会は、その前の5年と比べて、左側寄り、又は左側(社会保障)希望の姿勢を見せて来たことで、旧共産党員の社会的地位の向上(或いは1990年以前のそれを挽回)が見受けられます。彼らは過去50年来のテクノクラートであり、自由主義社会に十分通用する“管理職”階級の地位を保守しています。5年前に彼らがポ国政治を牛耳る政党(SLD)を結成し、彼らの党首が首相となったことで、社会を“私物化”する意識が強くなったことに疑問の余地はありません(社会主義では“我らの国家”と言う意識が強かった)。その意識で“エネルギー源確保の戦略”(PKN ORLEN、グダインスク製油所民営化、原油買い付けの二元化;ポーランドがロシアの原油に依存することが国家的危機に繋がるとの意識が右派に強いが、現在の世界的原油販売市場でポーランドの地理的位置を見れば、直接的な危機感はなく、ポーランドはロシア原油・ガスの重要な顧客である)や、第4の政治的権力を持つ“TVP”(ポーランド国営テレビ局)などの”私物化“に走った訳です(14)。それら旧共産党員のトップ・クラスは若い時代にモスクヴァやレニングラードで留学しています。彼らが現在もロシア側に”友人“を持っており、公・私のレベルでの関係を維持していることは明らかで、現在のポ国内政治が大混乱している原因になっています。ロシア人が個人的には、世界でも稀に見る”友情味の深い“人々であっても、公的な話になると、人が変わった様に大国主義の性質が表に現れて来るのは衆知の通りです。従い、ロ・ポ間の現状の政治環境に於いては、両者を結ぶ太い管が地下にあると見るべきでしょう。ポ国社会には表向きの言動と裏向きのそれとが混同する傾向が強いのは、今日に限ったことはありません。左派の政治が失態し、6月19日に総選挙が行なわれて、今年の後半は右派側の政府となり、秋に右派の大統領が選出されれば、ロ・ポ間の関係が大いに変化するであろう可能性があります。
【脚注】
(1)
アウシュヴィッツに収容所を設置することが最終的に決定されたのは1940年2月1日で、ロシア軍(第1ウクライナ・前線軍)による収容所の解放は1945年1月27日。
(2) スウォバッツキ名称劇場。ここでは朝9時30分から“Let my people live”と題名したスペクタクルが演出され、ユダヤ系ポーランド人やロシア人、イスラエル人俳優らが各国の言語及び英語や“イディッシュ語”(戦前のポーランド国領土を中心に、ヨーロッパで使われていた、ヨーロッパ・ユダヤ方言語)で日記の一部を朗読。ホロコースト・フォーラムとしての会合では、ポ国、ウクライナやイスラエルの大統領らが演説し、ロシア解放軍の将軍5名に勲章を授与する一幕もあった。1時間遅れてロシアのプーチン大統領が参加し、「アウシュヴィッツ収容所」に関連してテロ批判の演説を行なった。数日前からプーチン大統領が果たしてポ国に来るのか否か、心配されていた。
(3)
現在の正式名称は「在オシヴェンチム、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所国立博物館」。
(4)
ユシュチェンコ大統領の父親がロシア軍の囚人として「アウシュヴィッツ収容所」に収容されていたとのこと。
(5)
午後1時30分から汽車の警笛を合図に記念祭が開始され、ポーランド出身で、1976年に「アウシュヴィッツ収容所」に巡礼した現ローマ法王(この4月2日に逝去)の挨拶状を読み、生存者らの“訴え”が朗読され、アウシュヴィッツ収容所が“ヨーロッパの墓のない最大の墓地”であるとの表現がありました。アウシュヴィッツ収容所の生存者2000名程がこれに参加したとの報道がありますので、1月末現在、この人数の数倍の人たちが未だ生きているものと想像されます。後10年もすれば、これらの“生きた証人”が居なくなるであろうとの言葉が印象的でした。集会の最後には、長時間を掛けて各国代表が順序良く点呼される形で蝋燭点火を行ないました。
(6)
例えば中谷剛氏の最新の『アウシュヴィッツ博物館案内』(凱風社、2005年)など。
(7)
アウシュヴィッツ収容所で殺害されたのはポーランド人、ユダヤ人のみならず、ロマ人(ジプシー)、ロシア人などであると決議書に記載されています。ガスで殺害された人数は最低数で110万人と言われています。
(8)
ナチ・ドイツが戦争中に組織した多数の強制収容所を2グループに分けることになっています。第一のグループは、ドイツ本国領土内に建設されたDachau, Mauthausen, Sachsenhausen, Buchenwaldeのどの収容所(ここではユダヤ人に強制労働をさせ)、第二グループはAuschwitz以外に、Treblinka, Chełmno, Sobibor(全て旧ポーランド領土内)などで、ここではユダヤ人の殺害を行なっています。
(9)