8月1日のワルシャワ蜂起60周年記念行事に纏わる周辺の事情


長谷川二郎



Photo: Tomoko Yoshizaki (c), 2004.10.02 Pomnik Powstania Warszawskiego

ワルシャワ蜂起記念碑(撮影:吉崎知子(C) 2004.10.02)


 去る8月1日の夕刻5時、一斉にワルシャワ市内のサイレンが1分間鳴り渡ったことで、皆様の中には驚かれた方があるかも知れません。これは60年前の、ドイツ占領下のワルシャワ市民の蜂起を記念した3日間に渡る行事の最終日の一幕で、「ワルシャワ蜂起」の「W」時刻を記念に知らせたサイレンでした。このサイレンは同時に、ワルシャワ市内の「ワルシャワ・ホテル」前の広場で三ヶ国の政府代表を来賓者として、ワルシャワ市役所主催によるワルシャワ市民による60周年事業まとめの集会を開始する合図でもありました。

 ワルシャワ市では世界史に残る、幾度かの有名な蜂起事件があったことは皆様もご存知の通りです。古くは1830年11月にロシア帝国占領に反抗した「11月蜂起」(ワジェンキ公園内から開始され、最初は軍人のみでしたが、その後旧市街地に移動して、住民の蜂起となる)、1863年1月にも蜂起しています。最終的に1795年以来、三国(ロシア、プロイセン、オーストリア)に分割された旧ポーランド国領内では、これら三列強国の支配に抵抗して[注1]、ワルシャワ以外でも、1846年にクラコフ市で、1848年にポズナン市を中心とする大ポーランド地方の蜂起などがあり、これらは自国の独立を求めた市民の蜂起として歴史に良く知られています。

 かの有名な行進曲「ヴァルシャヴィアンカ」[注2]を歌いながら、1944年8月1日、午後5時に開始された8.01ワルシャワ市民の蜂起は、今まで歴史的に十分に正しく評価されていなかったため、今年の60周年記念行事は戦後初めての盛大な記念行事となりました。ドイツ・ナチ軍と武装戦闘を行なった「国民軍」(Armia Krajowa、略してAK軍)の兵士18,000人程、一般市民20万人程が戦死したとか(或いは射殺された)とか言われています。今もそれら旧兵士、市民たちが合わせて5000人程も健在していて、ワルシャワ市の英雄(国内のVIP)として、この記念集会に参加しました。第二次世界大戦の歴史通じて、あれだけの大きな規模で、しかも63日間も続けられた市民の蜂起は世界広しと言ってもワルシャワ市以外になかったと言われています。ポーランドでの数多い戦争記念や、個別の戦闘記念行事に日頃から慣れた我々にとっては、何故、このワルシャワ蜂起が今になって初めて盛大に開催されたのかとの疑問があります。それを解説するには、余りにも当時及び今日のヨーロッパや世界の状況が複雑なので、正確に究明するには困難を伴います。それでも敢えて、今回の記念行事の裏に何があったのかの一部を、筆者の感じ取った範囲内で纏め、皆さんの参考にして頂ければと思い、この個人的な「説明文」を準備しました。

Photo: Tomoko Yoshizaki (c), 2004.10.02 Muzeum Powstania Warszawskiego

ワルシャワ蜂起博物館(撮影:吉崎知子(C) 2004.10.02)


 去る6月30日、テレビ・新聞で、ワシントンの米国議会がワルシャワ蜂起を記念する決議を行なったと言う情報を受けて、筆者は驚きました。しかも、ポーランドの国会で、遅ればせながら、2004年をワルシャワ蜂起の記念の年とすることを7月24日に可決したことを知って、更に驚きを深めました。少なくとも、これは順序としては逆でしょう。今回の記念行事はポーランド政府やワルシャワ市役所などが既に1ヶ月以上も前から準備を始めいたに違いありません。何かを慌しく準備をしていることは、ワルシャワ市内を歩いていて、皆さんも感じ取られと思います。米国とポーランドの国会での決議が時間的に逆に成った理由として、米国議会の運営が当国のそれよりもスムースであるからだとしても、何故、今になって、しかも米国議会が「ワルシャワ蜂起」を第二次世界大戦の重要な歴史的事件として記念する決議を行なったのかに就いては、それだけの事情があったものと推察されます。これは米国のポーランド系移民[注3]の働き掛けもあったものと想像されますが、現在の米国のイラク平定出兵にポーランド国軍が協力していることより、米国政府のポーランド国民に対する敬意の表現と見るのは如何でしょうか? それ程簡単な解釈は出来ない様です。因みに、その米国の強大なTVニュース局CNNのニュース・キャスターが、パウエル長官がワルシャワを訪問するのは、(1943年4月の、あの本“ダヴィデの日記”で皆さんもご存知の)“ワルシャワ・ゲットー”でのユダヤ人蜂起の60周年記念節に参加するためであるとの混同したニュースを流しました。これは新聞記者1名の単なる個人的な錯覚ではない様です。

 この種の「ワルシャワ蜂起」を記念する行事は戦後、毎年行なわれていました。但し、それらは国家的行事ではなく、一般市民の自発的な行動として、毎年この時期には、ワルシャワのあちこちの街角で皆さんも良くお気づきに成っている様に、記念碑の下に蝋燭を燈すこととか、11月1日の「万霊節」の日に、ワルシャワ市内の墓地に設置されている無名戦士の集団墓石の前で祈祷をし、蝋燭の火を燈すなどを通じて、ワルシャワ市民は戦死者に対して冥福を祈っていました[注4]。 一方では、アンジェイ・ワイダ監督の映画「下水道」(1956年製作)は高年の方々がお若い頃にご覧になったと思います。ワルシャワ旧市街の直ぐ外れに、下水道から出て来る兵士たちの銅像群が建てられています。これらの銅像は、63日間続いた蜂起が失敗して、兵士達が下水道を経て移動し、自分の家があった近くに帰って来て、路上に出る様子を再現したもので、映画「下水道」の終わりに近いシーンです。旧市街の堀の一角に、小さな少年が小脇に機関銃を抱えた銅像がありますが、これもワルシャワ蜂起を記念するものです。ワルシャワ市が瓦礫の廃墟と成った状況は、現在の「科学・文化宮殿」の30階、パノラマ通路の内側の壁に貼られている写真が物語っています。

Photo: Tomoko Yoshizaki (c), 2004.10.02 pl. Krasińskich

下水道の出口(撮影:吉崎知子(C) 2004.10.02)


 では、何故、この今回の記念行事が、例年になく盛大な行事として執り行われたのでしょうか? 

 今回は、成る程、盛大に行なわれました。この3日間の記念行事に国賓として招かれた外国からのVIPは、まず、独国のシュレーダー宰相、それに英国のプレスコット副首相、米国のパウワー国務長官の3名。彼らはこの3日間、ワルシャワ市内のあちこちで開催された記念集会に参加し、記念碑の前で献花する奉仕をして回りました。 今回、新たに「ワルシャワ蜂起記念博物館」[注5]が建設され、ワルシャワ市内からのみならず、世界中から取り集められた「蜂起」に関する記念品が観覧できる様に成りました。記念行事3日目の夕刻5時(Wタイム)のサイレンの後、現ワルシャワ・ホテルの前面の小さな広場で、記念行事の締め括りとしての集会で[注6]、彼ら3名は記載した順序で、「蜂起」の歴史的な意義を強調する演説を行い、ポ国TVで一部始終、全国放送されました。残念なことに、第二次大戦の連合国のー国であったロシア政府からの派遣はありませんでした。招待を受けたプーチン大統領が書簡のみをポ国政府に届けて来たとのことです。これにはそれだけの理由がありそうです。

 この会合で、シュレーダー宰相(前日、ワルシャワ市内の「蜂起」兵士墓前に献花した後、独・ポ間親善に貢献したとして、生き残っている旧兵士より勲章を貰っています)は、「蜂起」の起因となったナチ・ドイツの戦争行為はドイツ国民の“恥”であると自嘲の言葉で表現しました。最近(2年程前から)、ドイツ国内では、終戦時に再度ポーランド国領となった地域(主にポ国西部)から“追い出された”と言うドイツ人の家族ら(当時は350万も居たと言われています)が、ベルリンに“追い出され者連盟(BdV)中央本部”を設置しようとする問題が論議されています。スタインバッフ女史を会長とするこの連盟は、彼らがポ国に持っていた財産の賠償問題に関して、会員たちがドイツ国法廷に個人的に訴訟を行なう運動を唱えています(例えば、日本の8月15日以降の韓国・中国からの引き上げ者が日本政府に対して、かの地に置いてきた財産の賠償請求ができるかとの比較になります)。シュレーダー宰相は、戦争勃発の責任を持つドイツ国内では、“戦争の最初の被害者が誰であったかを知っている”ドイツ政府として、その様な訴訟の法的基盤を認めないことにすると宣言し、ポーランド人を案心させました[注7]。 今や既にNATO及びEU連盟に参加したポーランド人とドイツ人は“平和的な”隣人であるばかりではなく、今後のヨーロッパ外交の“友軍”であり、EU連盟を今後の「ヨーロッパ平和」の保障として、一緒に盛り上げて行く“朋友”であると指摘しました(この発言には、一部的にせよ、EU連盟大国の対米政策に協調せずに、ー早く米国のイラク平定軍派遣に協力することに走ったポ国政府に対する牽制の意味もあります)[注8]。英国のプレスコット副首相は、第2次世界大戦でポ国軍が、イタリーのモンテ・カシノ山上にあるカトリック修道院の奪回戦闘で失敗していた英軍に協力して呉れたので、山上を勝ち取ることができたこと、ドイツのロンドン空爆に応戦した英国空軍パイロットの8名の内、1名はポ国軍人であったこと(12%)(戦後に“ロンドン空爆”と題して映画も製作されています)、エニグマと言うドイツの暗号器のコピーをポーランド人グループが作成し、英国でドイツの暗号文を解読することに大いに協力したことなどを英国は忘れていないとの感謝の意を表現しましたが、当時の連合国の一国であり、ポーランド(移民)臨時政府を助けていた英国に対して、ポ国人が持つ疑問、なぜ「蜂起」の際にワルシャワを助けなかったのかを解明する発言はありませんでした[注9]。 これを受けて、米国のパウワー長官は、あの際の経緯は、ワルシャワ市民に対する連合国側の“裏切り”ではなく、“当時の状況下では、ソ連支配下の飛行場を使用させてもらう合意をスターリンから得られなかったため(テヘラン会議での協定に縛られため)、協力したくても、出来なかったのであると釈明をしました。「蜂起」の初期にポーランド人パイロットが操作する(多分英軍の許可なしに)英国の航空機が(合計で十数機程度)イタリーから離陸し、ワルシャワ上空を飛び、英国へ着陸する長いコースを取って、武器や食物をワルシャワ旧市街地近辺に投下したそうですが、荷物にパラシュートが無かったため、折角の救援物資は、落下時のショックで、その大半が破損していたとのことです。この種の英国機運行もその後、英国政府により禁止されました。10機飛んで、その半分程度しか英国に無事着陸できなかったため、効率の悪い飛行と見られたのでしょう。その際、チャーチル首相は、ワルシャワから数キロの近くにいたソ連空軍が助けなかったことに憤慨したそうです。

 1件、連合国が「蜂起」を助けたと見るべき事情があります。それは「蜂起」が単なる衆人が起こした騒動ではなく、在ロンドンのポーランド移民臨時政府の統括下に準備された組織的な軍事行動であり、その(地下の義勇兵たちの)AK軍は、連合国軍の正規の軍隊であるとの認証を連合国から得たため、「蜂起」終結の平定会議に於いて、「蜂起」義勇兵は国際法に基づく“軍事捕虜”、一般市民は無罪解放にするとドイツ軍側が認めました。

Photo: Tomoko Yoshizaki (c), 2004.10.02 Muzeum Powstania Warszawskiego

ワルシャワ蜂起博物館(撮影:吉崎知子(C) 2004.10.02)


 この「蜂起」に関する世間一般の評価がまちまちです。その理由として、政治的観点から記録隠蔽の政策のため(60年経っても、各国では公開禁止となっている書類も多々あるとのこと)、「蜂起」の歴史的位置付けがなされ難いことに問題があります。やっと今になって、世界的世論がこの「蜂起」の歴史的意義を見直そうとする様になりました。「蜂起」に関する総合的な解明をしようとの意図で、「蜂起」の歴史を書こうとする動きも高まって来ました。今年発行されたN. Davies(ポーランドに留学した英国の歴史家)、W. Borodziej(ドイツ)の歴史書は大作(数百ページ)です。 ディヴィスによれば、英国であろうと、ドイツ、米国であろうと、「ワルシャワ蜂起」は「ゲットー蜂起」と間違えられていると歎いています。米国、英国は別としても、隣国であるドイツでは、昔から「蜂起」に関する研究はされていましたが、「蜂起」に関する世間の関心が薄かったため、やっと今頃になって誠意のある大作が発表されることとなりました。その根本的な理由は、西側では“「蜂起」への協力をミスった”ことへの恥らいであり、東側(ソ連政府)はソ連邦の政策に不都合と言う理由からです。一方、ポーランド国内でも、今までこの種書籍は「地下発行書」して発刊されていたため、まともな歴史書として見られていない性格が強いことも挙げられます。

 ソ連政府にとっては、ソ連が戦後のポーランドを占領したとは公言出来ず、ナチ・ドイツから解放した、そのためには幾多のソ連軍人が開放軍兵士として戦死したとするのが公式見解です。これがソ連政府の政策で、自由主義の国家になったロシア人の大半は、今でもロシア(赤)軍兵士がナチ・ドイツからポ国を解放したとしか理解出来ていない様です[注10]。肉親を亡くしたロシア人にとっては、戦死した兵士は赤でもなく、白でもない英雄です。1970年前後(ブラント宰相の時代)以来、良化しつつある独・ポ関係とは異なって、ロ・ポ間で共通した歴史の理解に至るまでには程遠い様です(“カチンの森”のポ国軍士官5000人の集団射殺の事件も同じ様な理由で旧ソ連・現ロシア政府の“隠蔽政策”が見えています)。現在のロシア政府が、旧ソ連軍のポ国開放(ソ連・ロシア人は解放と言いい、ポーランド人はソ連政府の“征服”と理解する)の行軍と直接には関係のなかった「蜂起」60周年の記念節に代表者をワルシャワに送り込めなかった程に、ロ・ポ国間の関係は今尚複雑であるとしか言えません。戦後のポーランド共産主義政権もこれに習った政策を維持せざるを得なかった訳です。 戦後の50年代には、NKWD(戦後ポーランドのソ連式ゲシュタポ)の指導の下に“旧AK軍兵士狩り”を行い、彼らが無謀な裁判に掛けられ、社会主義政権下のポーランド国の「売国奴」として死刑処理の数も多々ありました。在英国ポーランド臨時政府の監督の下で、国内の「AK軍」(地下組織としての義勇軍=共産主義を受け入れない自由主義信奉者たち)兵士たちが立ち上がった「蜂起」を戦後のポーランド国政府が認めることが出来なかった訳です[注11]。一方、「蜂起」の時点で、既にヴィスワ河の対岸まで侵攻していたソ連軍が対岸の「蜂起」軍を助けなかったことは、ヴァイダ監督の「下水道」の最後のシーンで世界的に有名になりました。ワルシャワを助けに行こうとしたポーランド(赤)軍もソ連軍司令部に阻止されたと言われています。 因みに、「蜂起」と同時期にソ連軍(第2赤軍)はプラハ侵攻を行なっておりますが、ソ連軍(第1赤軍)がワルシャワに侵攻したのは、翌年の1月17日でした。結局、「蜂起」を鎮圧したナチ・ドイツ占領は、「蜂起」の最終段階で、破壊されずに残った建物をわざわざ一軒、一軒、火炎砲で焼き払いを行なったことで、ソ連軍のワルシャワ侵攻の‘前払い“をしたのと同然のことになりました[注12]。この「蜂起」を生き残ったワルシャワ市民は、既にこの時点で戦後の東西間の「冷戦」が始まっていたと見ています。

Photo: Tomoko Yoshizaki (c), 2004.10.02 Pomnik Powstania Warszawskiego

ワルシャワ蜂起記念碑(撮影:吉崎知子(C) 2004.10.02)


 何故、最初から成功しないと思えた「蜂起」をワルシャワ住民が敢えて決行したかに就いても、色々に論議されています。一般には、国内・外の状況とは関係なく、ワルシャワ市民が蜂起せざるを得ない状況に追い詰められていたと言われています。ヒットラーやヒムラーの指揮の下に、ワルシャワ市を壊滅すべし、ワルシャワ市民は全員殺戮すべしとの政策が既に「蜂起」の1年も前から実施され、ワルシャワ壊滅の恐怖がひしひしと迫りつつあった、と。ワルシャワ市民にとって、これ以上我慢出来ない処まで追い詰められていた様です。その間、ワルシャワ市内(ヴォラ地区)に強制収容所が設置され、ガスによる収容者らの殺戮が行なわれていた様です。ワルシャワ市内で殺されたドイツ人1名に対しポーランド人40名を殺すと言う“係数”があったそうです。戦後、今に至るまで、この収容所で幾人ガス殺されたかの数字に関して議論があるばかりでなく(1年間を通じて約20万人との数字が推測として出されています)、その様な収容所があったのか、無かったのかの議論もされている始末。存在したのは間違いないらしく、それを記念する博物館の設置も前々から検討されている様ですが、何時実現されるかは不明です。

 ドイツ新聞の論調に、[1830.11蜂起] ― 「8.01蜂起」― 「労働者自由連盟=ソリダルノスチ運動」− 「共産主義政権の崩壊」に連綿として流れるポーランド人の精神的な「抵抗意識」の強靭さを改めて評価する雰囲気があります。日頃は「ぐうたらなポーランド人」と言う典型的なポーランド人評価をしていても、流石に、ドイツ人はポーランド人の気質を良く看破したものと思います。成功はしないと見込まれていても、死を恐れず、無我夢中に成って、外敵に抵抗して行く愛国心的な決断力がソ連社会主義に抵抗する「ソリダルノスチ運動」の精神に重なると見ています。ポーランド人は、自分たち自身をロマンチックな(ロマン主義思想の)国民であると言う。“法律は(為政者が勝手に制定したものであるだけに)それを破るためにあるのだ”とも言う。“規則は規則、実際は実際”と分裂症状を冒していて、国会でも、市議会でも、長たらしく論議して統一した決断を出すのに下手なポーランド人。少数意見に対して、多数意見よりも敬意をはらうポーランド人。旧式の貴族意識の強い(国王を国王と見ない個人主義の)ポーランド人。すべてこれらは「1セット」としてのポーランド人気性であり、一部の要素のみを切り離してポーランド人を見ることは出来ない様です。世界広しとは言え、ここポーランドでこそ共産主義が自滅した基盤がある様に思われます。精神面では現ローマ法王の援助、生活面では食料の欠乏でしょう。ソ連社会主義の弱点が、総合的な農業(生産と供給、分配)政策の誤りであり、生活権を守ろうとする国民の不満(デモ紛争)を解決し得なかったことに行き着いたと筆者には見えます。

 日本でも8月15に終戦記念日が近づきます。日本のアジアの近隣諸国との将来の「平和」を思う時、ヨーロッパでの「平和」建設運動(EU連盟)に学ぶ処が多々あると思えます。歴史的な事実は些細なことでも隠蔽せずに、正しく解明し、マスコミでも大いに議論すべきものと思われます。それが国民への教育であり、国民自身の「歴史の自習」に繋がるものと思われます。

 今年、2004年は日ロ戦争の100周年記念の年です。我々も、国内的に“勝利戦争”のみとしての理解に終わることなく、この“大国ロシアに対する小国日本の戦勝”が民族独立を願っていた、ここポーランド人やその他東欧諸国の当時の国民に与えた“心理的”影響を解明することは興味深いこと思われます。


脚注

ワルシャワ、2004年8月
ワルシャワ、2005年1月改修・追加

(はせがわ じろう ワルシャワ、2004年9月)

追記:
「8.01ワルシャワ蜂起」にご興味ある方は下記の書籍をご参照下さい:
  1. Norman Davies, Rising ’44 The Battle for Warsaw, 2004. (ゲットーの蜂起と区別するために、この表題)。
     ポ語出版: Powstania ‘44. (2004年12月現在107,000冊以上の発行)
     批判: Tomasz Lubieński, Anti tryumf, ani zgon.
     賛歌: New York Times Book Review (2004年度のベスト書籍100冊リストに入れる)。
     訳版: 英語、フランス語、イタリー語ドイツ語、チェコ語、ハンガリー語、スウェーデン語、中国語等。
  2. Norman Davies, Jak powstało , Znak, 共同執筆者Roger Moorhouse. (2005)

(2005.2.24)