ポーランド関連映画特集

「戦場のピアニスト」、「キェシロフスキ・コレクション」、ついでに「エニグマ」


藤井朋子




 昨年の末から、ポーランドに関わりのある映画が続けてやってきています。たまたまなのか、次の大戦を招かぬ保証のない、このところ絶えず不穏な世界情勢が、ポーランドを語る必然性を呼び覚ましているのか、そのあたりのことは、新聞から仕入れた知識程度しか持たない一般ピープルの私にはわかりません。でも、表題の3本の映画の背景に共通して見えるのは「政治」。イデオロギーから波及していくところの体制、民族主義、果ては戦争。身近には仲良しグループから末は国家・連合まで、集団のまとまりを維持し運営し継続していくのに「政治的思考」はもちろん必要なものなのですが、集団はどうもその中が成熟していくにつれて、身内でない対象を批判・攻撃の対象とみなし易いようです。さらには身内集団の維持継続のために、こうした行為を行うことが政策として公然と選択されることもあります。普遍にして興味深く情けない、人間行動の常のパターンでしょう。1つの食物を奪い合う、生存のための深刻な利害関係に絡んだ敵対行動なら、自然界の淘汰に例を見るように分かりやすいのですが、信仰であったり人種であったり思想であったり、抽象的な何らかの共通項のあるなしの果ての敵対関係は、“人”特有のわかりにくい行動です。人間なんて複雑そのもので、幼稚園お受験に出てくるように〇や△や■で同じ形を探しましょう、みたいな訳にはいかないのです。共通項があると信じ込むこと自体、いささか偏狭で淋しい習性のようにも感じます。抽象的な共通項を信じて、身内でない対象へ集団で行う批判・攻撃、また差別が実に滑稽な行為であることは、おそらく誰もが知っています。にもかかわらず、人社会は、古今東西そこでもここでも規模の大小を問わず、絶えずこの滑稽な行動を繰り返し続けています。

 全ての映画の中のいったい何割が、この滑稽な行動の果ての戦争を題材に作られた物でしょうか。相当な数ではないかと思います。このところ、反戦、反戦と唱える声が高まっていくのは喜ばしいことなのですが、ノルマンジー上陸作戦やコンバットからプライベート・ライアン、バンド・オブ・ブラザーズだののドンパチ英雄戦争映画が世代を超えて受け続ける傍らで反戦と唱えることに、矛盾と空虚を感じます。スターウォーズだって、想像の世界とはいえ立派に戦争映画です。映像は現実とは違う、と簡単に片付けることは避けたいものです。破壊行為や殺戮行為を大義名分の下に美化するような内容の映像その他には、もっと神経をとがらせるべきでしょう。慣れと麻痺は、正比例の関係にあります。


『 戦場のピアニスト 』

 1月半ば、映画配給会社から事務局へ、宣伝協力を依頼する1本のメールがありました。“関西センターの淀川長治”こと某先生のような映画博識者でない私にとって(某先生が博識なのは、言うまでもなく映画に関してだけではありません)、「カンヌ映画祭でパルムドール賞を獲得した」「ゲットーから奇跡の生還を果たしたユダヤ人ピアニスト」「ショパンの旋律が時を止めた・・・」等々の謳い文句はもうそれだけで、ぜひ観に行かなければならない、涙なしにはとてもいられない感動の名作に違いない、と衝き動かされるものでした。ホームページへの掲載、会員へのお知らせとチラシ配布、ポスター掲示、の宣伝協力をひと通り終え、関西地区での上映開始をまだかまだかと待ちわびました。

 上映開始早々の2月のある日、私は18になる長女と一緒にいそいそと映画館へ足を運びました。彼女ももう、こうした負の史実を、たとえ創作と事実がない交ぜになった物であったとしても、知り、自分なりの認識を持つべき成人であると思ったので、熱心に誘って行きました。結果は、やはり彼女にとって良かったように思います。怖がりの彼女は小さい頃から、映像の中でのむごい様子や人の死に強い拒絶反応を示しました。その彼女が、終始目をそらすことなく画面を見つめていました。彼女に限らず、同じ部屋の中の誰もが、始まる前にはペチャクチャしゃべりボリボリつまみケイタイで遊んでいた、ジーンズ腰履きの今どきの茶髪クンたちもが、息を呑んで画面に見入っている様子でした。また、常ならまだ画面に流れる文字を眺めて余韻に浸る人々の邪魔をして、本編が終った途端にそそくさと席を立つ落ち着かない人々が、全くおりませんでした。あるいは、誰も別に気にしていないというのに、ハンカチ片手に「いややわ涙が止まらへん〜」と、大きな声で言い訳しあうお嬢さんたちもお見かけしませんでした。まわりを包んでいたのは、ただただ、静寂、ショック。そうしたもののように感じられました。涙無しには観られないだろうと思っていたのに、なぜ? 一般にひろく知られるその事実、ホロ・コーストという単語だけでも、じゅうぶん泣かずにはいられないはずなのに、なぜ? こうした状態は、まわりの観客を見まわしたところ、私だけではなさそうで、ほとんど話し声もなく、皆ただ粛々と部屋を出て行きます。おしゃべりで泣き虫の長女も、例外ではありません。

 重かったです。他の人のことはわかりません。ただ私に関する限り、この映画は心の奥底、脳の中枢にずしりとこたえました。「シンドラーのリスト」を観たときのような、止めようもない涙は出てきませんでした。そのことがとても不思議で、この映画の内容を振り返り、自分の泣けなかった理由を観終わった後々いつまでも私に考えさせました。ひどいワ、かわいそうだワ、と感極まって泣いて終るわけには行かなかったのです。被害者であるユダヤ人と加害者のナチス・ドイツ、強固に抵抗するが力及ばぬポーランド人、といったステレオタイプの分け方を、この映画はしていませんでした。ユダヤ人の中にも同胞を売って有利な位置を得ようとする者があります。要領よく立ち回り、金を稼ぐことに躍起になる者もいます。たいていの映画では初めから終わりまで悪者、鬼畜のように描かれるドイツ兵もここではそればかりではありません。最初の頃にはためらいがちだった弱者への虐待が、やがて次第次第に目を覆いたくなるほどに残虐になっていきます。既成事実の積み重ねの結果、感情が麻痺し心を失っていく過程を感じます。一方、主人公のシュピルマンはインテリ階層。隔離の最初の頃には、比較的恵まれた立場にあります。下層階級のユダヤ人たちの生活は、こんなものではなかったでしょう。彼は、英雄的ではありません。誰かをかばうために身を挺するでもなく、抵抗運動に打ち込むでもなく、戦闘的ではありません。音楽家としての著名度のおかげで、手を差し伸べてくれる人も幾多とあり、結局、家族の中で自分ひとりが助かり、生き延びるためには友人を危地に陥れる可能性も顧みません。とにもかくにも、自分だけは逃げおおせます。最後には、ユダヤ人の姿の絶えたワルシャワの廃墟の中で、ただ一人、ついに味方の軍の行進に遭遇し、生還を果たします。

 この映画はシュピルマンの姿を通して、ナチスによるワルシャワの破壊とユダヤ人迫害の実態を、ドキュメンタリー映画のように順を追って詳細に描写していきます。隠れ住んでいるところを1人のドイツ人将校に見つかり、彼に請われてショパンを弾く終盤のシーンや、中盤、逃げ隠れるシュピルマンの指が無意識にピアノのキーを音を出さずに宙でたたく動作を見せるシーンは、音楽家の方たちには胸を締め付けられるような場面ではないでしょうか。音楽家ではない私は、この暗黒の時代を、高ぶることなくこれでもかと感動を押し付けることもなく、淡々と描き切るこの映画の現実感に衝撃を覚えました。どちらかといえば、他のほとんどの犠牲者たちよりも恵まれていた、英雄ではない主人公の姿が、この映画が真実に基づいて作られた物であることの証明のように思えました。英雄的ではなくとも、そんなにしてまでも生きようとする姿が、生命の尊さの証であるようにも思えました。受け手の立つ場所によって、異なる衝撃を与える映画ではないかと思います。18歳と13歳の子どもを持つ私にとっては、負の歴史を隠してはならない、人社会は主義主張で正当化して残虐な破壊行為をここまで行い得るのだという事を、私たちは認識せねばならない、自分もその人間の一人であるという自覚を持たなければならない、との思いをこの映画から重く与えられました。どうやら涙も出てこなかったのは、その辺りにあったようです。かつて、オシフェンチム博物館を午後いっぱいかけて見学したときのことを思い出しました。関西の某プロテスタント系私立男子校では、観た生徒たちに感想を述べさせ、まだ観ていない生徒たちにはぜひ観に行くように勧めたそうです。

 後日、シュピルマン自身の手による原作の翻訳本を求めました。映画と同じく、時を追って淡々と日記のように彼が通った困難な日々が詳細に描かれています。冷静な描写であるがゆえに、劇的に声高に悲劇を主張するよりもずしりと心に響くのかも知れない、と思ったことでした。(春秋社発行:「戦場のピアニスト」/1,500円)




『キェシロフスキ・コレクション』

 初めてキェシロフスキ監督作品を見たのは、もうずーっと昔、レンタルビデオ店で見つけた「ふたりのヴェロニカ」でした。今回、残念ながら関西では上映されませんでした。ワルシャワとパリに、そっくり同じ姿・同じ名前を持った2人の若い女性が存在します。ともに音楽の道を志し、ワルシャワのヴェロニカは、舞台歌手に抜擢されます。パリのヴェロニカが東欧観光のバスツアーでポーランドを訪れた際、ワルシャワのヴェロニカは、外国からの団体客の中に自分と瓜二つのパリのヴェロニカの姿を認めます。ワルシャワのヴェロニカは、心臓でも悪かったのでしょうか、舞台稽古の最中に亡くなってしまいます。音楽教師になったパリのヴェロニカは、夢の中でワルシャワのヴェロニカの死を感じ取り、やがて自分が東欧観光の際に撮った1枚の写真の上に、自分と瓜二つのもう一人のヴェロニカを見い出します。なんとも不思議な幻想的な映画でした。この世に、自分とそっくりなもう一人の自分が存在するという設定。言葉を交わすこともなく、相手の存在を知り、やがて片方は悲劇的な形で存在しなくなります。もう一人の自分に、自分が存在したメッセージを残しながら。直接的でない描き方が、とても東洋的なように感じました。また、主役のイレーヌ・ジャコブばかりを、くどいほど映し続けるカメラワークに、ひどく古典的なものも感じました。女優さんの演技もカメラに応えるために、髪ひとつかきあげるにもわざとらしい大げさなしぐさが多くなります。この監督さん、ひょっとしてすごい女性賛美者だったりして・・・? 美しいもの、柔らかいもの、不思議なものと信じたいとか・・・?

 今年3月某日、キェシロフスキ・コレクション関西上映担当の配給会社の方から、事務局に電話がありました。「戦場のピアニスト」と同様に、宣伝協力を依頼するものでした。「特に、ポスターを大学に貼り出してほしいのです」と担当者のご希望でした。「大学生くらいの若い人たちに観てほしい映画なのです」と言った彼女も、関連イベント<BAL POLAND at graf>を企画されたgmの女性も、ともにまだ大学生に見えるほど若くて、キェシロフスキ作品の大ファンでした。<若い子たちが自分の想いを他人に伝えようとして頑張ってる>感じがとても眩しくて、おばさんとしては協力するのに思わず力が入ってしまいました。

 今回の上映では、私は初公開の「終わりなし」を観ました。キェシロフスキ・コレクションのパンフレットからの抜粋によれば、次のような粗筋です。「84年/109分/主演:グラジナ・シャポウォフスカ―――夫をなくした妻と、死後の世界からなおも妻を見守る夫・・・。哀しい現実を受け入れられない夫婦の辛苦を見事に描き、至上の愛へと昇華させたキェシロフスキの初期を代表する傑作。夫の死を受け入れられない妻の姿は、フランソワ・オゾン監督の『まぼろし』を彷彿させる・・・・・」

 夫が突然亡くなったころ、既にすれ違いの始まっていた夫婦でした。お決まりの連帯やストライキの時代を背景に、弁護士であった夫の最後に扱っていた仕事を追ううちに、妻は自分の知らなかった夫の真摯な姿に触れ、惚れ直していきます。最後に夫の後を追ってガス自殺する主人公の姿が、妙に日本的に感じられました。一人息子を道連れにせず姑に託して逝くあたりは、日本人とは違うかな、という気もしましたが。それにしても、亡くなった夫との間の、まだ幼い我が子に対する自分の責任を放棄して後追い自殺をしてしまうというのは、主人公と同じく子どもを持つ母親としてはとうてい感心できません。どの辺が至上の愛やねん、忘れ形見を放り出しといて・・・と思うあたりで、またしてもこの監督さんの女性に対する思い入れが見えるような気がしました。夫への思慕を最優先にしてほしいのです、きっと。子供に取られたくはないのです。

 ところで、あまりにも堂々と裸その他が出てくる映画には困りものです。その場面の必然性というものがあったとしても、もう少しさりげなく恥ずかしげに、察しられる程度にできないのでしょうか。「ふたりのヴェロニカ」では、うら若い美しい気立ての良い女性であるパリのヴェロニカが、下着姿のままで通りに面した窓際に立って外を眺め、道行くおばあさんに「荷物持ちましょうか」と声をかけます。こんなの、ありえない!うちの娘なら、ひっぱたきます!「終わりなし」では、結婚前に困窮していたヒロインがモデルのバイトをしていて、夫が実はそれも承知の上で彼女と結婚したのだと分かり、ヒロインは胸を打たれます。その証拠として画面に映し出される、男性週刊誌にでもありそうなヌード写真は、必要だったのでしょうか。夫に似た見知らぬ男性とのシーンも同じく。なくても状況を描くことは可能だったはずです。ヨーロッパの映画は、内容に優れせっかく高い評価を得ているにもかかわらず、この点で、家族で観るには適さない物が多いようです。はじめから分かっている年齢制限つきの映画ならご自由に、ですが。女性賛美者にとっては、究極の美と神秘を画面から欠かすわけには行かないということでしょうか。ヨーロッパとは違って、こちらあいにくお子さま天国の日本ですから、子ども(小さい子ではなく)と一緒に安心して観られる映画のほうが国民的に大うけしてしまうのは、日本のおばさんとしては、当然の成り行きであると判断すると同時にもったいないなあとも思うのです。




「ついでにエニグマ」

 「ついで」なのは、これはポーランド人監督の作品ではなく、ポーランドを描いたものでもないからです。イギリスの作家ロバート・ハリスの『暗号機エニグマへの挑戦』が原作の、イギリスのサスペンス映画です。ただ、ストーリー展開の大きな鍵として「カティンの森事件」が出てくることが、注目すべきことでした。今年2月のある日、やはり映画配給会社の方から事務局に電話がありました。どうやらイギリス映画であるらしいのに、何でうちに連絡してこられたのかと不思議に思いながらお話をうかがうと、今回は宣伝協力の依頼ではなく、パンフレット作りのお手伝いでした。映画の中に「カティンの森事件」のことが出てくるが、日本人にはほとんど知られていない事なので、内容を映画のパンフレットに載せなければならない。ついては、カティンの森事件のことを解説できて、なおかつ映画通の方をご紹介ください、とのご依頼でした。さっそく“関西センターの淀長さん”に振りましたところ、今回このWIS?A30号にもご寄稿くださっているK先生をご紹介いただきました。  人さまに原稿をお願いした手前、自分もぜひ観ておかなければと、これまた6月の封切を心待ちにしていたのですが、関西ではなんて地味な新聞広告だったことでしょう、見落としてしまいました。いつものように観に行く前に、インターネットで上映劇場・時間を調べたついでに、ホームページの書き込みものぞいてみましたところ、観に行った人の評価は満点が5つ星のうちで2つ・3つの星印がほとんど。「退屈だった」から始まって「ラブロマンスがテーマなのか、謎解きがテーマなのかわからない。中途半端」、中には「ヒロイン役の“デブ女”はよく見ると、あの『タイタニック』のヒロイン(R・ディカプリオと共演)だった。ショック」というのもあって、こき下ろしのオンパレードについつい二の足を踏んでしまいました。

梅田ブルク劇場でいよいよあと数日で終わり、という頃になってようやく「おもしろかった」「おとなの映画」という書き込みも出始め、これに勇気を得て一人で観に行きました。鑑賞後の感想は、「印象に残る映画ではないかもしれないけれど、あそこまで酷評される謂われはない。」でした。主人公はケンブリッジの数学者。連合軍が手に入れたドイツの無線暗号機<エニグマ>の解読者です。ここでは、「連合軍にこの暗号機を提供したのはポーランドの地下組織」ということになっています。この暗号を、ドイツ軍が突然変えてしまう。なぜなのか。味方の中にドイツ軍に情報を流している者がいるらしい。一刻も早く新しい暗号を解読しなければ、連合軍の大艦隊がUボートに撃滅されてしまう・・・という流れに、英国諜報員・主人公の数学者を虜にする女諜報員・暗号解読チーム・主人公と一緒に探偵ごっこにのめりこんでいく、まん丸メガネの一見冴えないが頭脳明晰な女性事務員、が絡んでいきます。主人公の数学者はボソッとして神経質で、美人の女諜報員に容易く引っかかり、ふられて心身症に陥るような、はっきり言ってダサい男です。ヒロインになるところの女性事務員は、ホームページに書かれていた“例のデブ女”。“いい女”という設定の女諜報員は、ファッショナブルではありますが、ポパイの「オリーブ」よろしく針金のごとくに痩せぎすで見るからに神経質そうで、魅力的とは思えません。派手なアクションがあるではなし、主人公がジェームズ・ボンドみたいにカッコイイわけではなし・・・確かにこれと言って印象に残る映画ではありませんでした。ハリウッド調の派手な映画と比較するならば、ですが。私たち観客は、派手な映像に麻痺して、ストーリー展開を楽しむことができなくなってきているのかもしれません。あるいは結論のすっきりしない、哲学的だか何なのか、小難しい謎めいたタッチの映画が知的で芸術的だから良いのだと、信じ込まされてきているのかも知れません。『エニグマ』は、分かりやすく単純でした。ダサい数学者がやむなくも警察と張り合ってカーチェイスをし、発車してしまった列車にスパイを追って飛び乗るアクションを見せ、謎解きに際しては頭脳明晰ぶりを披露し・・・ダサ男がカッコ良くなっていくのを素直に楽しみましょう。くだんの“デブ女”は、『ハムレット』や『タイタニック』でおなじみのケイト・ウィンスレット。元々ちょっとポッチャリめのところが、今回かなり目立ってしまいました。しかし私たちは映画女優に何を期待するべきでしょうか? 演技力と見た目を比較するなら、本物の俳優に期待されるべきなのは、言うまでもなくファッションモデル体型ではなく、役に応じた演技力と存在感です。「タイタニック」のヒロインが“デブ女”に見えたなら、それこそこの女優の実力というものでしょう。最後に主人公の数学者が選ぶのは、“針金、一見美人”ではなく“頭脳明晰デブ女”です。その、主人公の足元の確かな人生の選択と劇中の犠牲者(死亡者)が少ない展開のおかげで、おばさんは鑑賞後心穏やかに帰路につくことができたのでした。ケイト・ウィンスレットの名誉のために一言付け加えれば、決してそんなに太ってはいません。魅力的なかなりポッチャリめ、とでもしておきしょう。

ところで、映画が始まって直後に出てくる、森の中に横たわるたくさんの死体とそれを土中から掘り出すドイツ兵たち。ポーランド関係者なら察しのつく「カティンの森事件」が発覚した場面であるわけですが、その後も何度かこのシーンが出てきますが、結局、最終画面の文字による説明まで、これが何であるのかは語られません。字幕では「カティン」という名詞もとうとう出ませんでした。この事件がストーリー展開の大きな鍵になっているのですが、どう関わるかは言いません。ドイツ側は連合軍が暗号を解読していることをなぜ知り得たか、と関わるとだけ。サスペンスの謎解きのリークはご法度。観てのお楽しみです。松竹が配給している映画なので、DVDになることを期待しています。

余談ですが、劇中で、英国諜報員が暗号の解読者である主人公の数学者に向かって言う台詞にこういうのがありました。「戦争のおかげで、あんたたち学者は暗い研究室から明るい舞踏会場へ出てきたんじゃないか。どうだ、もてるのは楽しいか。」(しっかり覚えてはいませんが、大体こんなような内容でした)インディ・ジョーンズ博士といい、『ピース・メーカー』の女性学者ケリー博士といい、この『エニグマ』の主人公ジェリコ博士といい、・・・他にも数限りなく映画の中の大学教授たちは皆タフです。戦争でなくとも、有事に専門家が引っ張り出されるのは常のこと。関西センターにも多くいらっしゃる先生方、ご研究の片手間に体力づくりもお忘れなく。まずは体が資本です。



(日ポ協会関西センター『WISLA』第30号 2003年9月31日発行)