日本ポーランド協会 関西センター主催 シンポジウム

ポーランドの貴族とその社会

―華麗なる文化と伝統の源を訪ねて―

はじめに


2002年7月20日 梅田茶屋町アプローズタワー13階にて



藤井和夫





 ただ今から、日本ポーランド協会関西センター主催のシンポジウム「ポーランドの貴族とその社会」を始めさせていただきます。「ポーランドの貴族とその社会」というのは、おそらく日本ではあまり馴染みのないテーマだと思います。ご承知のように、ポーランドは今日非常にすごいスピードで社会が変わっています。1989年に旧共産党の体制が崩壊してから市場経済を導入し日々いろんな変化がおきており、2004年頃を目標にEUに正式加盟しようとしてその準備も着々と進んでいるのが現状です。今日お話していただく講師の皆さんは割合若い頃にポーランドに留学されていますが、その留学の頃と比べても現在のポーランドの社会は本当に驚くほどの変化があるんです。けれども、日本ではどうしてもポーランドと言いますと旧社会主義時代のイメージが強いものですから、その歴史というのも、このテーマの貴族ですとかあるいは封建時代の文化や社会というと、いまだにもうひとつピンと来ないところがあるんですね。そういう意味で日本ではなかなかポーランドの貴族やその社会を知る機会が少ないと思いまして、今回そんなちょっと変わったテーマでお話してみたいと思っているわけです。お話しいただく3人の方たちはそれぞれポーランドの歴史を専門にされている方ですが、今日はできるだけ一般的なわかりやすい話をしてくださいとお願いしてあります。私の方で最初にポーランドの歴史と貴族というものについて導入のようなお話をさせていただきます。

 最初に私のレジュメの年表をご覧いただきますと、今日お話するシュラフタというのは大体1300年台頃から1700年代頃までの時代にポーランドの歴史に非常に深くかかわる存在なんです。ポーランドの歴史といいますのは大体10世紀の末に国が出来上がってまいります。最初の領域はほぼ現在のポーランドぐらいなんですが、後にだんだん南東部の方に地域が広がっていきまして、一番大きいときは現在のリトアニアとかウクライナとかベラルーシとかそういう所を全部含めたような広い範囲がポーランドになります。建国後そのように拡大していったポーランドも、国王が息子たちに領地を分けたりしたこともあって12世紀くらいからちょっと分裂状態になります。いろんな公国に分かれるような分裂状態になって、14世紀頃に一応何とかもう一回統一して、その後ずっと統一を維持する努力をしていくことになります。

 実はその頃ポーランドには国の独立を脅かす大きな問題がひとつありまして、それがドイツからやって来たドイツ騎士団です。十字軍の頃に、ドイツの騎士団の一つがドイツから東のほうへ海岸沿いに移動してまいります。実は彼らは勝手に入り込んだわけではなく、建国後の分裂時代にいろんな争いの中で自分の領地を確保するためにドイツ騎士団の力を利用しようとしたマゾフシェ公が、1226年に彼らを招き入れたのです。騎士団は最初は現在のグダンスクの少し南方のところにやってきまして、そこに小さな本拠地を与えられてマゾフシェ公に協力して周辺の平定を手伝いますが、やがてだんだん勢力が強くなってきまして、海岸地帯一帯を広く支配する巨大な勢力になってきます。このドイツ騎士団が、ポーランドにとっては独立を脅かす最大の脅威になるんですね。そこでポーランドにとってはドイツ騎士団を抑えてそれを支配するということが国の歴史の前提となり、そのための努力がずっと行われていきます。一番大きな動きといいますのが1386年のリトアニア大公国との連合で、ヤギェウォというリトアニアの王朝と本来のポーランドの国とが合体しまして一緒になってドイツ騎士団と戦います。この連合によって非常に大きな領域がポーランド、正確にはポーランド=リトアニアの連合王国ということになりますが、1410年にグルンヴァルトというところでドイツ騎士団をやっつけます。それ以来ドイツ騎士団の力はだんだん落ちていって最終的には1525年にドイツ騎士団が世俗化してプロイセン公国としてポーランドの国王の臣下となる、ということになります。1410年から100年以上かけてポーランドはドイツ騎士団を押さえるわけですね。これが中世ポーランドの歴史の大きな柱のひとつになります。

 そうした流れの中で実はシュラフタが非常に力をつけていくんですね。と言いますのは、ポーランドの国王は、貴族であるシュラフタの力を借りなければ、自分ひとりでドイツ騎士団を打ち破ることはできません。そこで、いろんな形でシュラフタたちと妥協し特権を与えながら、彼らから税金を取ったり、兵を出させたり、ということをやっていくわけです。たとえば年表に1374年の「コシツェの特権」というのがありますけど、これは租税をシュラフタに対して軽くするということを国王が認めます。そのあとリトアニアとの連合がありましてグルンヴァルトでドイツ軍を破りますけれど、1422年には「人身保護律」、つまりシュラフタは裁判によらなければ国王にも拘束されないという、イギリスで17世紀頃ようやく確立できた権利をポーランドのシュラフタは1422年にすでに獲得してるわけです。それからドイツの騎士団との争いはまだずっと続きますので、1454年には「ニェシャヴァの特権」といいまして、シュラフタたちが当時形成していた地方の議会の承認なくしては国王は課税や兵員の動員をかけられない、つまりシュラフタたちの議会のOKが出なければ国王は戦争ができない、そういう特権を貴族が獲得するわけですね。それから1505年、最終的に「ニヒル・ノヴィ」と呼ばれますけども、国王がいろんな法令や政令を出すときに、全部シュラフタの議会が承認しなければ実行できない、つまり法令そのものを国王が出す力を奪ってしまうという特権をシュラフタは手に入れます。

 この1374年から1505年にいたる150年くらいの間、シュラフタが次々に特権を手に入れて相対的に国王の力がだんだんなくなっていくわけです。言い換えれば、ポーランドは長い間ドイツ騎士団と戦ってそれを押さえていって国家として安定しますが、その裏側では国王の力がだんだん弱まって逆にシュラフタの力が強まっていくということが起きている。これがポーランドの中世、近世の歴史なのです。その結果ポーランドでは国王の力が非常に弱まり最終的には絶対王政のような形が取れないまま、逆に絶対王政によって中央集権的な国家をつくった周辺のロシアやプロイセンやオーストリアによって、ついに18世紀の末には分割支配され国が滅ぼされるというところまで行ってしまうわけです。1772年に第一次分割が始まって93年に第二次があり、それから1795年の第三次分割でポーランドは国が完全になくなってしまいます。その後復活する1918年まで100年以上ポーランドは国がない状態が続くんです。ちょうどヨーロッパで絶対王政のあとに近代国家ができて産業的にも一番発展する時代にポーランドは国がないということになるんですけれど、その大きな原因を作ったのがこのシュラフタたちの力の獲得と、逆に国王が中央集権的な力を持てなくなったということであったと言えるわけですね。

 それほどの力を持ったシュラフタ達ですが、ではシュラフタとはいったい何か、ということについて簡単にお話したいと思います。私のレジュメの中にコズウフカにあるザモイスキという貴族の館の航空写真があります。以前にこれを見た知人が「周辺に何もないじゃないか」と言っていましたが、周りに畑がずーっと広がった真ん中にポンとあるというのがシュラフタたちの館でありまして、彼らは大土地所有をして、そこの領主なわけです。別の図のワンツートというもう少し南のほうにある壮麗な館は、ルヴォミルスキやポトツキという貴族の一族の所有ですが、彼らがシュラフタの中でも裕福な土地をたくさん持ったマグナートと呼ばれる大貴族です。ポーランドのシュラフタというのは、日本でイメージするような貴族というよりは武士つまり軍人で、ヨーロッパで言う騎士なんですが、その中がいろんな爵位に分かれているわけじゃないんです。公爵や伯爵や男爵や子爵というような階層に分かれてない、全体で法的には平等なシュラフタという一つの階層を作る貴族のグループなんです。その中の裕福な土地をたくさん持った人たちがマグナートと呼ばれたのです。シュラフタのとても変わっているところは、そういうふうに中が平等であるということと、人口比が国民の全体の住民の10%ぐらいを占めるということです。たとえばフランスの貴族なんかは2%ぐらいと言われていますから、国民の一割が貴族のシュラフタであるというのは大変大きな割合になります。もう一つ特徴的なのは、17,000?の領地を所有するザモイスキのようなものすごいマグナートから、全然土地を持ってなくて貴族と呼ばれだけの小さなシュラフタまで経済的な格差がものすごく大きいことですね。でも同じくシュラフタとして全体としていろいろな特権や国王選挙権や議会代表権などを持っているわけです。

 このシュラフタは、独特のサルマティズムというような自分たちの特権的・エリート的な意識を持った文化をつくってみたり、あるいは全然土地を持たず後にだんだん没落していくシュラフタは、例えば都市の知的なエリートの一つの源泉になっていったりします。今日お話ししますのは、マグナートといわれるすごい大きな貴族から全然土地を持っていないような貴族まで含めたシュラフタという全体としての貴族がポーランドの文化と歴史に非常に大きく絡んでいる、ということですので、その大きな多様性というものをイメージしながらお聞きいただければと思います。私の後、小山さんに貴族たちの具体的な姿を「馬」というおもしろい観点からお話いただきまして、その後、白木さんに政治体制や社会の全体の枠組みと貴族たちとの関わりというような、どちらかといえばマクロ的なお話をしていただきます。最後に田口さんに、現代に至る長期的な歴史の変遷の中での貴族とその文化の影響ということについてお話いただきまして、最後に少し質問の時間をとりたいと思います。では小山さん、どうぞよろしくお願いいたします。


<ポーランドの貴族と社会 関係年表>


  
966  ピアスト朝ミェシュコ1世、キリスト教に改宗   <962 神聖ローマ帝国成立>
990頃  ミェシュコ1世、ほぼ現在の国土統一 
1138  小侯国への分裂開始   < 1096-1099 第1回十字軍遠征>
1226  マゾフシェ候、ドイツ騎士団を誘致 
1241  モンゴルによる最初のポーランド侵入   < 1241 ワールシュタットの戦い>
1320  ヴワディスワフ1世の治世、分国時代終了 
14世紀半ば  カジミェシュ法典(シュラフタ身分の認定) 
1364  クラクフ・アカデミア創立(1400年改組)   <1337-1453 百年戦争>
1374  シュラフタ、コシツェの特権獲得(税負担軽減) 
1386  リトアニア大公国と連合、ヤギェウォ王朝開始   <1400頃〜イタリア・ルネサンス>
1410  グルンヴァルトの戦い、ドイツ騎士団を破る 
1422  シュラフタ、「人身保護律」獲得 
1454  シュラフタ、ニェシャヴァの特権獲得(課税と動員に地方議会の同意必要) 
1496  ピョトルクフの特権(都市民の農地獲得制限)    <1492 コロンブス、アメリカ着>
1505  ラドムの特権(ニヒル・ノヴィ、法律制定に議会同意必要) 
1511  農民の移動全面禁止(農奴制確立)   <1517 ルター、宗教改革>
1525  ドイツ騎士団世俗化(プロイセン公国) 
1535頃  「法の執行」運動 
1543  コペルニクス地動説発表 
1569  「ルブリンの合同」(王国とリトアニアの結合強化) 
1572  ヤギェウォ王朝断絶 
1573  貴族による国王自由選挙開始(ヘンリク条項) 
1596  ジグムント3世、クラクフからワルシャワに遷都   <1618-48 30年戦争>
1648  ウクライナでコサックの反乱(フミェルニツキの乱) 
1652  最初の「自由拒否権」行使 
1654  ロシアとスウェーデンの侵攻(「大洪水」)  
1665  ルボミルスキの反乱(-66) 
1672  トルコ、ポーランドに侵入   <1689 イギリス「権利章典」>
1683  ヤン・ソビエスキ、ウィーンのトルコ軍撃破   <1700-21 北方戦争>
1715  タルノグルト連盟成立(シュラフタの国王に対する軍事的抵抗) 
1733  ポーランド継承戦争(-35)   <1740-48 オーストリア継承戦争>
1740  コナルスキ、貴族学院設立   <1756-63 七年戦争>
1768  「バール連盟」結成(-72シュラフタの対ロシア戦争) 
1772  第1次ポーランド分割   <1772 『百科全書』完成>
1791  四年国会、「五月三日の憲法」採択    <1789 フランス革命>
1793  第2次ポーランド分割 
1794  コシチューシコ蜂起 
1795  第3次ポーランド分割、国家消滅 
1807  ナポレオンによりワルシャワ公国建国   <1804 ナポレオン法典公布>
1815  ウィーン会議でポーランド王国成立 
1830  11月蜂起(-31、反ロシア) 
1831  ポーランド王国廃止、ロシア帝国に併合 <1833 ドイツ関税同盟成立>
1846  クラクフ蜂起、ガリツィアの虐殺 
1848  ヴィエルコポルスカ蜂起(「諸国民の春」)   <1848 二月革命、三月革命>
1863  1月蜂起(-64、反ロシア)ロシア領で農奴解放   <1914-18 第1次世界大戦>
1918  ポーランド共和国成立(独立回復)   <1917 ロシア革命>
1939  ドイツ、ポーランド侵攻   <1939-45 第2次世界大戦>
1945  国民統一政府成立 
1948  統一労働者党成立 
1978  ヨハネ・パウロ2世推戴 
1980  全国でストライキ。グダンスク協定成立。ギエレク失脚。「連帯」発足 
1981  ヤルゼルスキ戒厳令布告 
1982  連帯非合法化 
1983  戒厳令解除。ワレサ、ノーベル平和賞授賞 
1989  円卓会議。自由選挙。ヤルゼルスキ大統領選出、マゾヴィエツキ内閣 
1990  ワレサ大統領就任 
1995  クファシニェフスキ大統領就任 
2000  クファシニェフスキ大統領再選 




(日ポ協会関西センター『WISLA』第29号 2003年3月31日発行)