「成功するための教育」を掲げた文化は、不誠実な生き方を教える

楽観主義による絶対支配

ステファン・フフィン(Stefan Chwin)

(訳: Anna Kunert)


(このエッセーは日刊紙『Rzeczpospolita』(2001年7月14-15日号、第28(446)号)の付録『+PLUS −MINUS』に掲載された「Kultura nastawiona na “edukacje dla sukcesu” uczy zyc w klamstwie. Tyrania optymizmu」を筆者と『Rzeczpospolita』編集部の許可を得て翻訳・転載したものである。この場を借りて筆者と編集部に感謝の意を表したい。)





クラコフの小学校の終業式風景(撮影: わんちょ クラクフ在住 1999.06.25)


 今日、ポーランドの学校、特に有名私立校における不文律の教義は、成功するための教育、を施すことである。もちろん、どのようなやり方であろうと若者には勉強してもらわなければならない以上、これにもそれなりの道理はあるだろう。けれども、どんなクラスであれ成功者の仲間入りをするのは、25人の生徒のうち、ほんの2〜3人に過ぎない。残りの生徒たちは、ある程度の惨めさの付きまとう人生を送ることになる。これは、仕方のないことだ。はっきりしているのは、大体において生徒の四分の三は、スタートラインに立った時点ですでに成功から見放された運命を担わされている、ということだ。

 このような状況にもかかわらず、野心(要するに成功欲)を煽ろうとするのは、無意識のサディズムであるとしか思えない。若者たちは、「全力を尽くせば、君たちはトップに立てるのだ」と吹き込まれる。けれども、靴磨きでも百万長者にのし上がれる、という神話とは裏腹に、実際に自由市場経済の社会で成功するために一個人の出来ることなど、ほんのわずかなのある。労働市場は、拡大どころか縮小している(これは主に、最新技術の急激な発達による)。「よいポスト」などと言うものは、すでにそのほとんどが埋まっており、この先も空きが出ることはないだろう。他の多くの国同様、若者たちの大部分は、失業手当などの補助金を頼りに生活したり、または面白くもない仕事に従事して生計を立てるようになるだろう。

 しかし、問題なのは職業上の成功だけではない。若者のほとんどは、私生活においても部分的な成功を収めるに過ぎないだろう。「一生懸命努力すれば、全てうまくいく」と彼らに言い聞かせるのは、彼らに果敢ない希望を抱かせることに他ならない。

 私はこのようなことを考えるたびに、レシェク・コワコフスキ氏(注1)のかつての言葉を思い出す。それは、今日では刺激的でびっくりするような言葉ではあるけれど、大きな真実をも含んでいる。「真に価値のある文化とは、挫折に耐え抜くことが人間にとって容易になるような文化のことである。なぜならば、我々は挫折から挫折へ渡り歩きながら生きていくのだから」。しかし今日のポーランドでは、「挫折」だとか「人生の敗北」だとか「惨めな生活」などと言う表現は、暗黙のブラックリストに載っている。このような表現は、その存在さえ忘れられるべきだ、と。

 私が最近耳にした中で、最も感動した言葉とは何か。それは、チェスワフ・ミウォシュ(注2)の90歳の誕生日に行われた華やかなインタビューの中で、彼が発したある一言だ。彼は、「あなたは成功した人生を手に入れましたか?」と言う質問に対し、ただ一言「ノー」と答えたのである。勝利を収めたノーベル賞受賞者のこの答えにはじっくり考えてみるだけの価値があると、私は考える。彼でさえそうであるならば、私たちは...。

 「成功するための教育」を掲げた文化は、不誠実な生き方を私たちに教える。それは、あたかも成功者であるかのように装うことを強いたり、何かを達成できないことは恥ずかしいことであると思わせたりするものだ。だから、成功する者と成功しない者を選り分ける第一のふるいとして機能するような学校は、(たとえそれがストレスの最も少ない、生徒本位の学校でさえ)生徒に忌み嫌われてしまうのである。

 成功の運命から見放された者が文化によって救われることは、ありうるのだろうか? 救えるのであればそれに越したことはないけれど、どうすればいいのかが私たちにはわからない。若者たちにどんな勉強をさせるべきなのだろうか? 彼らだって―私たちみんながそうであるように―人生のある時点で愛するものに裏切られることがあるだろうし、信用していた人に騙されることもあるだろうし、心の中を打ち明けた相手に恥をかかせられることもあるだろう。人に受け入れてもらえないことだってあるだろうし、クビにされることだってあるだろう、無力な状態になることもあれば、屈辱を投げつけられることだってあるだろう。少ししか満足できない結婚生活、少ししか満足できない子供、少ししか満足できない家庭...。これらのあらゆる災難から彼らが無傷でうまく逃れられるためには、どんな能力を彼らに授ければいいのか。

 「すると、人生はうまくいかないものだと、端(はな)から決めてかかればいいのか?何と言う悲観主義だ!」中にはこういう人もいるかもしれない。けれども、決めてかかる必要なんてありはしない、だって私たちには何もかも分かっているじゃないか。現在学校の犯している最大の過ちは、楽観主義による絶対支配にあるのだということが。(一生懸命勉強しさえすれば)何もかもうまくいく、という建前だけの絶対支配こそが、間違いであると言うことが。これぞまさしく、本格派人間喜劇...。「成功しなくちゃ駄目だ!」生徒にこう要求するのは、自らは成功から程遠い親たちなのである。「何が何でも、成功しなさい!」生徒にこう要求するのは、離婚した先生であり、カネのない先生であり、絶望している先生であり、校長(幸いなことに、全員がそうではないけれど)や親たちに侮辱された先生たちなのである。そして校舎の上には、成功の亡霊が微笑む吸血鬼のごとく漂っている。学校の価値は、大学進学者数によって、つまり社会のエリート層が形成する小グループに入り込むことの出来る卒業生の数によって、測られる。そして、このグループに入ることの出来なかった残りの生徒たちは、教育機関でさえどうすればいいのか分からないような、恥ずべきお荷物とされてしまう。

 学校で教えるべきは、何も達成できない状況の中で、どうやって生きていけばいいか、ということではないのか。この言い方がひどく聞こえの悪いことくらい重々承知しているが、ほかに仕様がない...。19世紀のポーランド文化は、敗北と言う状況の中でどうやって生きていけばいいか、ということを教えてくれたではないか。ただし、その敗北と言うのは、主に政治的奴隷と言う意味での敗北であったのだけれど。そして1989年以降の私たちは、かつて1918年がそうであったように、コンラッドのマント(注3)を脱ぎ捨てて、自由の太陽を歓迎した。しかし、太陽の光を浴びる一方で、人間の生存において重要な、真実の一部を捨て去ってしまった。「不幸」と言う言葉は、恥ずべき禁句になってしまった。大病の後で部屋をいぶして消毒するように、今、私たちはその禁句をいぶしているのである。大衆文化はこの言葉を好まない。昔は、何かを達成できない状況の中でどうやって生きていけばいいかと言う生きる術は、教会が教えてくれたものだった。しかし今では教会を訪れる若者の数は減り、その代わりカラフルな雑誌やテレビが「成功しない君はゴミだ!」と叫んでいる。これが若者たちにフラストレーションを与え、彼らを攻撃的にする。と言うのは、こんな風に煽られた希望の大半は、決して実現することのないものだからである。最も優秀な人物でさえ、負ける可能性はあるのだ。教育の神話は、単なる錯覚に過ぎない。教養は何も保障してはくれないのに、私たちはそれが自分たちの子供にとって幸福へのパスポートになり得ると、必死に信じようとしているのである。パスポートになることもあれば、ならないことだってある。けれど、どんなにすばらしい学位を持っていても、運が悪けりゃ何もうまくいかない。

 ポーランドの学校は、もうずいぶん昔から、本格的な人生に備えて精神を教育するための場ではなくなっている(とはいえ、かつて学校がこのような場であった試しがあったのだろうか? ゴムブロヴィッチ(注4)は疑問に思っていた...)。学校を支配する楽観主義テロリズム、それは自分の子供が負かされることを決して承知しない親たちが、教師を脅した結果生じたものでもある。決して負けることのない子供にすること、それが教師の仕事なのである。悪循環だ。

 損をするのは誰か? 最終的には、全員である。「成功した人生を歩め!」しかし多くの若者が直面するのは、部分的な成功か、はたまた 完全に失敗した人生であろう。このような人生に直面して、それを精神的に処理できると言うのは、実に偉大なことだ。けれども、今、誰がそれを教えてくれるのか。学校も、家庭も、アルカノエゴ(注5)がニコニコと嬉しそうに歌を歌っている教会だって、教えてはくれないのである。こんな世の中では、人生に躓いた人は穴があったら入りたい気持ちにもなろう。彼らは、成功しない人生なんて意味がないと教えられたのだ。後に残されるものは、屈辱感である。羨望である。敵意である。または、人生そのものを忘れてしまいたいと言う思いである。人生からの離脱。諦め。そして、絶望。

 言うまでもないことだが、「成功するための教育」を「敗北のための(あるいは、惨めな生活のための)教育」に置き換えるのはばかげたことであり、私はそんなことを考えているわけではない。しかし、両者をうまく結びつけることには、価値があるはずだ。必要なのは、正当なバランスだ。

 満たされない人生に意味を与えるのは、人文科学の科目が担うべき役割であり、人文科学はもっと現実の人生、つまりよくない人生に近づくべきである。満たされない人生について深く考え、その人生を受け入れることは、何でもかんでも100%うまくいくと信じている人にとっても役に立つはずだ。

 なぜなら、人間と言うものは、たとえ人生が満たされていない状況に置かれていても、その中で何とかして自己実現をすることが可能な存在であるからである。ただし、人の自尊心を踏みにじってそのチャンスを奪うことだけは、してはならない。 このような、バランスの概念と言う教育目標を、果たして学校は受け入れるだろうか―それが、問題だ。と言うのは、私たち自身が日頃から、学校とは何よりもまずキャリア製造機であるべきだと、当然のように考えているではないか。さらに加えるならば、成功神話を頭にぎっしりと詰め込まれた生徒たちが、彼らを待ち受けている現実の人生について、深く考えたり話したりしたがるであろうか? また、親たちはどうであろうか? 満たされない人生をどうやって生きていくべきか、などということを教えるような学校に、(高い金を払って)子供たちを通わせたがるであろうか? とても、そうは思えないのだが...。

 ここに書いたことが今の時代精神にそぐわないと言うことは、私も十分承知している。それでも、書くべきことだけは書いた、ということに対して、ささやかな満足感くらいは得られるように思う。

<脚注>


筆者: ステファン・フフィン (Stefan Chwin)
1949年グダニスク市生まれ。グダニスク大学の研究員。散文作家、随筆家。批評文、歴史文学等に関する著作あり。ジュニア向け空想冒険小説も手がける。コシチェルスキフ賞、及びドイツの文学賞であるアンドレアス・グリフィウス賞受賞。



 このエッセーに対して国内で大きな反響があり、その一部が『Rzeczpospolita』紙に掲載された。以下は記事に対する賛否両論の抜粋である。



(2001.08.03)