「卒業論文の資料を集めに行く」と言う名目でパリ観光に飛び出した仏文科生。ショパンゆかりの地を巡礼するのがその最大の目的という。しかし初めてのひとり旅。小心者。語学力に自信ナシ。彼女は目的を達成できるのか(というより無事帰ってこられるのか?)。この顛末を彼女自ら旅行記にまとめました。

始まり
2月25日夜遅く、工事中の道を迂回し、人に道を尋ねながらようやくパリのホテルに到着。駅の長いエスカレーターは止まっていたし、荷物は重いしとかなりの難路でした。小ぢんまりしたこのホテルが面しているリシュリュー通りは、1837年の地図でもはっきり確認できる道で、当時おしゃれなスポットだったパレ・ロワイヤルに沿っているので、ショパンも通ったことがあるのかも知れません。ここを拠点に、ショパンゆかりの地巡礼が始まりました。

ショパン最初の家・ポワソニエール通り
ワルシャワを発ち、失意のウィーン滞在の後にショパンが活躍の場を求めてやって来たのが、ここパリ。立身出世を夢見てパリに上京するのは、フランスの地方在住の若者だけではありません。しかしショパンの目にパリは、それ以上に、亡命者を受け入れる包容力のある都市として映ったのでしょう。ウィーンからパリへの途上、シュトゥットガルトでワルシャワ陥落のニュースを聞いて彼が『革命のエチュード』を作曲したというエピソードはあまりに有名ですが、傷心のまま到着したパリの第一印象は次の通りでした。
「ここ(パリ)には、最高の豪華さと最低の卑猥、
最高の美徳と最低の悪徳があります。 一足
ごとに性病の薬の広告が目に入るし、想像を
絶するような喚声、騒音、喧騒、泥濘です。」
(1831年11月18日クメルスキ宛て、h‐p.138)
彼が見たのは、歓楽の町パリだったのです。大都会はどこも猥雑と言えばそれまでですが、ショパンがパリで最初に住んだあたりはなおさらだったのかも知れません。
彼のパリで最初の部屋はポワソニエール通りのアパートにありました。現在ではパリの中心からほとんど離れていない並木道ですが、彼が居を構えた当時、ここはパリの中心と北端の中間点でした(1860年に周辺郊外を併合するまで、パリの面積はとても小さかったのです)。そしてこのポワソニエール通り、当時の繁華街イタリア通りやタンプル通り(犯罪大通り※という当時の通称は『天井桟敷の人々』で有名)のすぐ近くだったので、その繁華な空気が漂ってきていたのかも知れません。ショパンが手紙にしたためたパリの様子は、彼にとって日常的なものだったのでしょう。
ところで、このポワソニエール通りの部屋自体は、かなり彼のお気に召した様子です。
先ほどの手紙の続きに、部屋のことが書かれています。
「僕がどんなにすてきな所に住んでいるか、あな
たには信じられないでしょう。マホガニーの美し
い家具の入った小さな部屋で、大通りに面して
小さなバルコニーがついており、モンマルトルか
らパンテオンまで、そしてパリの最もすばらしい
地域が見渡せるんです。皆、僕の部屋からの眺
めを羨んでいますが、 階段を羨む人はいませ
ん……」
(1831年11月18日クメルスキ宛て、h‐p.139)
6階までの階段の代償に、彼はすばらしい眺望を得たのです(モンマルトルからパンテオンまでと言えば、地図でざっと見ても5kmはあります)。彼が気に入ったこの眺望を筆者も見たいと思い、地図を片手にポワソニエール通りへ。ショパンが住んだ家はどこも大切に保存されていると思いこんでいた筆者、眺めの良さそうな抜きん出て背の高い建物が見当たらないので不審に思いました。しかしよくよく見ると、ショパンが住んだ建物であることを示すプレートが頭のすぐ上に……彼が住んだ建物は玄関部分だけが記念に残され、両隣の建物の谷間になっていたのです。最高の眺望からビルの谷間へ。ショパンのパリで最初の部屋は、そこだけタイムスリップしたかのように、その痕跡をとどめていました。
このポワソニエール通りから西へ進むと、イタリア通りとオスマン通りへの分岐点があります。イタリア通りには、ショパンが演奏したイタリア劇場がありますが、当時ほどのにぎわいはありません。もうひとつのオスマン通りは、19世紀後半の大規模な都市整備計画の一環で造られた大通り。この計画の実行者オスマン知事の名が冠せられていています。オスマン知事のおかげでパリの道はずいぶん歩きやすく清潔になったそうですが、これはショパンの死後のこと。ショパンがいた当時のパリの道は一般に狭くて汚なかったのですが、それでも筆者は、彼が泥で靴を汚しながら、あるいは靴を汚すまいと優雅に馬車で通ったであろう、舗装の下に姿を消した道に心ひかれるのでした。
※犯罪大通り……犯罪を題材にした劇を上演する劇場が多かったことからこの名がつきました。

ペール・ラシェーズ墓地
3月1日はショパンの誕生日。ポーランドにあるショパンの生家を訪ねたい日ですが、この日は小雨の中、彼が眠るペール・ラシェーズ墓地へ。バルザックの『ゴリオ爺さん』のラストシーンでも有名なこの墓地には、多くの有名人(ドラクロワ・ミュッセ・ミシュレなど)のお墓があります。
ショパンへのささやかな誕生日プレゼントにと、花屋でミニバラの鉢植えを購入しました。生前ショパンは部屋に花を飾るのが好きだったようです。彼がロンドンから帰るのにあわせて、パリのアパートにすみれの花束を飾っておいてほしいと友人に頼むあたり、彼の花好きがうかがえます。そしてその文面にも、花を愛する彼らしさが感じられます。
「(パリの)私の応接間に匂うようにすみれ
を一束買わせてください。家に帰ったとき、
ちょっぴり詩的な気分を味わわせて下さい。
寝室に向かって通り抜けるほんの一時の
ことです。」
(1848年11月21日グジマワ宛て、d‐p.479)
どうやら彼は香りの良い花が好きだったようです。そう推測してバラを選んだ筆者ですが、彼には可憐なすみれの方が似合うのも知れません。
墓地では、少し離れた所からでも、ショパンのお墓は花の多さでそれと見分けがつきます。彼が亡くなった時にも「たくさんの花が届けられ、彼は花園で眠っているようだった」(i‐p.203〜204)そうですが、墓前の花の数々は、衰えることのないショパンの人気をうかがわせます。
花の多さもさることながら、彫刻の美しさもまた目をひきます。白い大理石で作られた女性像(音楽の女神エウテルぺ l‐p.173)。彫刻家ジャン・バティスト・クレザンジェの作品で、ショパンの一周忌に除幕されたものです。忘れてはならないのは、この彫刻家がサンドの娘ソランジュの夫だということ。ソランジュとクレザンジェの結婚をめぐる意見の対立は、ショパンとサンドの破局の一因となりました。サンドと別れた傷心のショパンは、それ以降元気を取り戻せないまま2年後に亡くなってしまうので、クレザンジェはショパンに(間接的であれ)衰弱をもたらした人物と言えるでしょうか。そんな彼がショパンのお墓まで整えたのですから、なんとも至れり尽くせり(?)です。
ショパン自身が彼を批判した手紙(1848年8月3日グジマワ宛て、i‐p.188)も残っていますが、死後のショパンの左手の石膏型をとったのも、デスマスクを作ったのも、彼クレザンジェ。サンドとの生活に破局をもたらすことでショパンを弱らせ、死後の彼を題材にテキパキと仕事の腕をふるったクレザンジェは、筆者にとって気になる存在なのです。
とはいえ、このお墓を彫刻で飾ることを発案したのはショパンの友人プレイエルで、それを実行するための委員会までもが作られたそうです。まさに、この彫像は友情の賜物。悲しげにうつむく大理石の女神が、友人に恵まれたショパンの晩年を物語っているのでした。

ポーランド料理レストラン (Restaurant Polonais Concorde)
ショパンの墓前でしんみりした後は、ポーランド料理のレストランへ(どれほどしんみりしても食べることを忘れない筆者)。レストランは予約済みだし、墓地の散策でお腹がすいてきたし……と最高のコンディションだったのですが、あいにく道に迷ってしまいました。
手帳にメモしておいた通りの住所を訪ねると、そこはごく普通のアパートのような建物。その道を何度か行ったり来たりしてからもう1度その建物をよく見ると、「ポーランド文化センター」という表札を発見しました。この中にポーランド料理レストランがあるのだろうと期待しながら文化センターに入りました。
ところが、中に入ってもレストランの気配は全く無し。不安になってすれ違いざまの女性に訊いてみると、彼女はよくぞ訊いてくれましたと言わんばかり、うれしそうにレストランへ案内してくれました。「実はね、レストランはこっち側から入るの。」彼女がそう言って示してくれた扉は、文化センターの入り口とは別の、ちょっと目立たない所。しかもレストランへはそこから地下へもぐるというので、まるでアジトのようです。これは絶対、大亡命時代からのポーランド人のアジトだったに違いない!と勝手に想像を膨らませながら、レストランへの階段をこわごわ降りて行きました(注:そこの雰囲気自体は決して怪しげなものではありません)。
予約の確認をして席につくと、ブロンドで端整な顔立ちの女性がメニュー(ポーランド語とフランス語で表記)を持ってきてくれました。彼女は、筆者が思い描くところのポーランド美人の典型。ひとりでテキパキとお給仕をしながら、ポーランド語とフランス語の両方を使っていました。
筆者が注文したのはチキンのソテー。ヨーロッパで流行の家畜の病気を恐れて畜産物を避けていたものの、ここではやはりメインディッシュを外したくありません(それまでメインもデザートもなく、サンドイッチばかりかじっていた筆者)。ビゴスが添えられたチキンのソテーは期待以上のおいしさでした。日本ではポーランド料理を食べる機会にあまり恵まれない筆者ですが、異郷で味わうポーランド料理には、久しぶりの家庭料理のような不思議な安心感をおぼえました。甘党の筆者にとってデザートのシャルロトカ(リンゴのケーキ)が更に格別だったのは言うまでもありません。
食後くつろいでいると、近くの席のポーランド人男性の携帯電話から「シュワジべチカ(森へ行きましょう)」が呼び出し音で聞こえてきました。ポーランドへの愛着のさり気ない表れでしょうか(ちなみに、パリで聞いた携帯電話の呼び出し音で一番多かったのは、J.Sバッハの「バディヌリ」※でした)。
ショパンの誕生日にこんなにおいしいポーランド料理をいただけるなんて、それだけでも今回パリに来た価値の半分はある。そう思えるレストランでした。
*「バディヌリ」……組曲2番ロ短調の第7曲。冒頭を聞けば「あぁ、この曲か」と思われる方も多いことでしょう。

ショパン最後の家
ポーランド料理を堪能した後、潜伏生活を終えたかのように再び地上へ。改めて見るとレストラン出入り口の扉がかわいらしいことに気づき、そこで写真を撮りました。次に向かったのはショパンが最後に住んだ、ヴァンドーム広場12番地。今は高級宝石店や一流ホテルが立ち並ぶこの広場のぐるり、当時は高級住宅街だったそうです。
ヴァンドーム広場12番地は、現在ショーメのお店になっています。ダヴィッドの絵でも有名なナポレオンT世の王冠を作った、伝統ある宝石店です。学生身分の筆者にとってはあまりに敷居の高い世界で、ショーウィンドゥの商品(作品というべきでしょう)を見るだけでも非日常的な体験。そんなショーメの店内に入ってショパンの部屋を見せてほしいと頼むには気構えが要りましたが、今日はショパンの誕生日という祝祭ムードから、吸い込まれるように店内へ入って行きました。
店内は、商業スペースというより優雅なサロンで、商品のディスプレイが少ないと感じました。お店柄、店員さんもなかなかの気品と貫禄。ショパンの部屋を見たいと伝えると、とても丁寧に、見学予約をするための電話番号を教えてくれました。ショパンの部屋の案内を担当する人は、4日後にしかお店に来ないとのことでした。
このようにして日にちは延びたものの、ショパンの最後の部屋を見学する機会が筆者に訪れました。当日は普段より念入りなおしゃれをして、いざヴァンドーム広場へ。
ショパンの部屋として残されているのは、サロンだった中2階の部屋。当時高級アパートだったというだけのことはあり、階段の広さも優雅さも特筆に値します(病気で弱ったショパンは階段にずいぶん苦しめられたそうですが)。ショーメのチーフ、デュプランヴァル夫人の案内でショパンのサロンに入ると、個人の住宅とは思えないその美しさにうっとり。ロココ調の天井画、青で統一された椅子の数々……豪華さではなく優美さを湛えたそのサロンは、ついさっきまでショパンがそこにいたかのように思わせるほどの趣を呈していました。
広場に面した窓からはナポレオンT世の記念柱が見えます。この記念柱はショパンが生まれたのと同じ年(1810年)に造られたもので、彼がここに住んだ時にもこの同じ記念柱が見えていたのです。この景色を見ながら彼は最後の日々を過ごしたのだと思い感慨深くなる筆者に、最後のマズルカがこの部屋で作曲されたことをデュプランヴァル夫人が教えてくれました。
ポワソニエール通りの部屋(前述)から、いくつかの部屋を経てヴァンドーム広場の部屋へ。彼が住んだ4ヶ所の住所を実際に訪ねた筆者は、引っ越すたび磨かれてゆく彼のエレガンスを感じました(彼は友人に新しく家を探してもらう時、かなり細かく注文をつけていました。住まいにも相当のこだわりがあったようです)。そして、この最後の部屋こそ彼のエレガンスの集大成なのでしょう。
そう思う一方で、病気の時こんなに広い部屋で一人きりだったらどんなにさみしいだろうと思いました。しかし彼の臨終には、この広い部屋は多くの訪問客でいっぱいだったそうです。孤独感につながるような部屋の広さをうめるほど多くの友人に恵まれたのは、彼が誠実に生きてきた証ではないでしょうか。彼が生涯かけて築いてきたエレガンスと交友が偲ばれる、最後の部屋でした。

ポーランド図書館
せっかくパリまで来たからには、卒業論文(来年の1月に提出)の資料を集めたい。そんな意気込みのもと、ポーランド図書館へ出向きました。アダム・チャルトリスキが住んだランベール館と同じくサン・ルイ島にある、ミツキェヴィチ記念館も併設されている図書館です。
3年前に友人とそこを訪れた時は、ミツキェヴィチ記念館の部分を見学しました。詩人の遺品や書簡が展示されているほか、ショパンやポーランドの現代アートの展示コーナーもあり、少ない開館時間(毎週木曜日の午後のみ)をねらって訪れる価値のある記念館です(残念ながら現在は閉館中)。
3年前と同じ道をたどりながらポーランド図書館に着いてみると、重厚な扉には愛想のない張り紙が。イヤな予感がして読んでみると、「工事中のため移転」とのこと。資料集めに利用したいだけでなく、そのロケーション(セーヌ川に面していて、隣のシテ島にあるノートルダム寺院が見える)が気に入っていただけに、とても残念です。しかし移転先を訪ねることで、図書館を暫定的に収容する“ポーランド科学アカデミー”が“コペルニクス通り”を曲がったところにあるという不思議な一致を発見することになりました。
パリでは全ての道・広場のひとつずつに名前がついていて(その数は5000以上にのぼります)、筆者にとってそれらの名前にゆかりを感じられない場合が多いのですが、このコペルニクス通りとポーランド科学アカデミーのくみ合わせにはヒザをうってしまいました(ちなみにパリにはショパン広場もありますが、あまりの小ささにただの交差点とまちがえてしまいそうで、彼の記念像があるわけでもありません)。
ポーランド科学アカデミーを訪ねてみると、周囲の建物より一段と瀟洒なたたずまいでした。中に入ると、右手のガラスケースにポーランド関係の図書が展示されています。その中には、J.J.エーゲルディンゲル氏の『弟子から見たショパン』(日本語版、音楽之友社刊)も収められていました。科学アカデミーの人の案内について行くと、図書館は地下の一室で開館していました(前述のレストランに引き続き、やはりアジトのような感じです)。
論文の資料を集めるにあたって、この図書館には大変お世話になりました(絶版になったショパンの書簡集を購入する相談にものっていただきました)。科学アカデミーにはサロンがあり、そこで催されたポーランドの音楽家によるコンサートに行ったり、ここはパリの中でも特に思い出深い場所となりました。
サン・ルイ島にある本来の図書館は、1655年に王の秘書官アントワーヌ・モローのために建てられたという由緒ある建物。これが1853年に、ポーランド文化を守る図書館としてザモイスキ将軍やミツキェヴィチ、1830年のワルシャワ蜂起に参加した人々の出資をもとに購入されたのです。サン・ルイ島にあるポーランド図書館には、大亡命時代のポーランド人の思いがつまっています。今回の工事でまた、ポーランド文化を守る精神が新たに受け継がれてゆくのでしょう。

パリのショパン像
ショパンが半生を過ごしたパリには、いくつかのショパン像があります。等身大以上のものから両手に載るサイズのものまで、パリのショパン像をご紹介します。
モンソー公園のショパン像
高級住宅街で知られるパリ17区のモンソー公園にある、ピアノを弾くショパンと演奏に聴き入る女性(ジョルジュ・サンドとも言われています)の像。その白い像は、木陰というロケーションによって2人の姿態の優雅さをひきたてられています。そして優雅であるにとどまらず、ショパンの肖像で全身を描かれたものが数少ないので、足先まであるショパンは、それだけでリアルな様相を帯びています。
この公園にはいくつかの像がありますが、もうひとつ気になるのがミュッセ(1810〜1857)の像。早熟の詩人ミュッセとジョルジュ・サンドのヴェネチアへの逃避行(1833年)は、世紀の恋愛と言われるほど世間を騒がせました。つまり、ミュッセはサンドの元カレなのです。そのミュッセの像、ショパンとサンドの像からくるりと背を向けるように配置されているのが気になるところです(そんなことに気をとめる筆者は相当のゴシップ好きなのでしょうか)。像の美しさよりも、ミュッセとショパンの(心理的?)位置関係が気になるモンソー公園でした。
この像は酸性雨と上から滴り落ちる樹液のせいで変色し、ショパンがこめかみから血を流しているように見えるのが残念です。幸い同じパリのロマン派博物館で、この像のショパンの部分だけ(複製?)が展示されています。白いままのショパン像を見たい方は、ぜひロマン派博物館を訪ねてください。
リュクサンブール公園のショパン像
学生街カルチエ・ラタンの近くにあるリュクサンブール公園はもともと、17世紀前半に建造されたリュクサンブール宮殿の庭園でした。パリの公園の中でも広々としていて、噴水の向こうに見える宮殿(現在フランス上院が入っています)の風景が美しいことでも有名です。かつては王家のものだったこの公園も、現在は、ベンチでの歓談・ジョギング・太極拳……と思い思いに楽しむ人々でいっぱいです。
このようにたくさんの人がいるので、リュクサンブール公園ではさまざまな営みが為されています……そう、ショパン像の持ち逃げも。かつてここのショパンの胸像は盗難に遭ったのです。確かに筆者も、3年前にこの盗難の残骸(Chopinと刻まれた石の台座)を目にしました。そして、犯行に対する憤りよりも、どうすればショパンを家に連れて帰れるのだろうという好奇心からその台座を眺めたのを覚えています。
今回もその台座を見ようという計画だったのですが、行ってびっくり。台座の上に、ショパンの胸像があるのです。彼おなじみのすまし顔で、ずっと前からここにいましたというようなおさまりの良さで。盗品が無事還ってきたのだと思った筆者は、「お帰り、ショパン」と思いながら彼を写真におさめました(その写真を見た人々からは、これは還ってきた盗品ではなく新品だと言われます。確かに、この色このツヤは新品が持つものです)。
ひとしきり撮影した後、ショパン像を前から横から眺めていると、植え込みの向こうから不審そうな目で筆者をジロジロ見るおじいさんがいることに気付きました。びっくりしながらも挨拶をすると、彼もまたぎこちない笑顔で挨拶を返してくれました。そして、筆者がショパン像の前を離れるまで彼もその場を離れませんでした。ショパン像が再び盗難に遭わないよう、日々見守っている有閑な老人なのかも知れません(推測の域を出ないのですが)。物欲しそうにショパン像を眺めたことを反省しながら、多くの人々から愛されているショパン像なのだろうと思いました。
カルナヴァレ博物館のショパン像
17・18世紀の趣が色濃く残るマレ地区にあるカルナヴァレ博物館は、展示品のみならずそのたたずまいも興味深いところです。16世紀から現代までのパリの歴史を通覧できる充実した博物館ですが、その中でも筆者がとりわけ心ひかれたのは、やはりショパン像。ショパンとの思いがけない邂逅で、素通りする人が多い展示室にくぎ付けになりました。
展示室の壁一面にずらりと並べられていたのは、ルイ・フィリップ時代の有名人を諷刺した像の数々。テラコッタの洗練されすぎない質感と、諷刺の芸術家ドーミエの作風があいまって、どれもこれも小気味良いものばかりです(しかしモデル本人が喜びそうなものはひとつもありません)。ロッシーニやパガニーニの姿も見られました。程よいデフォルメと異様なまでの強調を施され、手のひらサイズになった政治家や芸術家の面々……そんな中に、ショパンの像も並んでいたのです。展示棚の最上段、ちょうど真ん中あたり。彼は周囲の諷刺をよそに、おなじみのすまし顔で鎮座していました。
なぜショパンだけが諷刺の息がかかるのを免れたのでしょうか。彼の品行方正さが諷刺する余地を与えなかったためか、彼の繊細さが諷刺の屈辱に耐えられないと思われたからか、そのいずれかだと筆者は考えました。しかし、じっと眺めていると、諷刺されていない素(す)のショパンから奇妙なノーブルさが漂ってきます。フランツ・リストは尊敬を込めて友人ショパンのことを「誰もが王子のようだと思う」(k‐p.11)と評しましたが、ドーミエは社交界の花形のそんなショパンを王子サマ然とした人間として表現したのでしょうか。見方によっては、彼のエレガンスは、外界と関わりなくいたるところで発揮されているように思われたのかも知れません。諷刺しないことで優雅さを強調する。これこそ、ショパンに対する痛烈な諷刺なのでしょう。
ショパンは同時代の音楽家に比べて、諷刺の槍玉に挙げられることが少なかったようです。しかしサンドの息子モーリスが描いたショパンの絵は、諷刺画よりもっと辛辣。大好きなママを横取りしたという怨みがあったせいか、モーリスがスケッチするショパンは常に疲れた吸血鬼のような様相を帯びているのです。しかしどこかほほえましい雰囲気がその線に込められていて、一時期生活を共にした彼らのちょっとけだるい空気が伝わってくる貴重な資料です。モーリスは画家志望だったのですが(母親の友人ドラクロワが師匠でした)、もし彼が画家として大成していたら、ショパンのこの上なく個性的な肖像を油彩で残したかも知れません。モンソー公園やリュクサンブール公園の「誰もが王子のようだと思う」ショパン像ではなく、薬味の効いたショパン像をモーリスに委託したいとさえ思う筆者なのでした。

ジムナースクラブ
パリ滞在が終わりに近づいた頃、体調を崩した筆者。元気がでないのはなぜだろうと考えたところ、理由はひとつ、長らくピアノを弾いていないことでした。ショパンが好きな筆者にとってピアノを弾かない(弾けない)日々が続くのは、食事をしない日々が続くのと同じ。そうして行くと決めたのが、ピアノ練習スタジオ「ジムナースクラブ」でした。
ジムナースクラブ。いかにも体力作りをやっていそうな名前ですが、その通り、施設の本業はスポーツジムなのです。事前に「分かりにくい所にあるスタジオなのですが」という註付きで教わっていたものの、実際に行ってみて、びっくりしました。玄関を入るとすぐ、運動に励む人々がたくさんいて、本当に音楽スタジオがあるのか心配になるような光景だったのです。しかし受付の人に訊いてみると、とてもにこやかに音楽スタジオの場所を教えてくれました。「スタジオは地下にあります。」
ポーランド料理レストラン、ポーランド図書館に引き続きまたもや地下室。ジムの奥の階段を降りて行くと、小部屋が並んでいるのが見えました。そのうちの1つに入り、久しぶりにピアノに向かってすわると、それだけで少し元気が出るようでした。そして一息おいてから、狂ったように(実際、手元もかなり狂っていましたが)ショパンのスケルツォを弾き始めました。異郷の地、ウィーンやパリで孤独に身をやつしながらピアノを弾いていたという若い頃のショパンも、きっとこんな風だったのだろう、とおこがましくも自己投影するひとり旅の筆者。旅先でひとりピアノを弾いていると、ショパンのこんな手紙が思い出されました。
「……時には12時になるが、それよりは決して
遅くならずに帰宅する。そうして、ピアノを弾き、
泣いたり、読んだり、見たり、笑ったりして床に
入り、ろうそくを消し、いつも君達の夢を見る。」
(1830年12月26日、マトゥシンスキ宛の手紙、h‐p.105)
デビュー前のショパンは、こんなふうにさみしい日々を過ごしていたのです。思いがけず、異郷の音楽スタジオでショパンの心境を追体験することができました。
この秘密めいた地下のスタジオで更に想像を膨らませて思い出したのが、第2次世界大戦中のポーランドのこと。ドイツ軍の占領下、ポーランド文化は弾圧を受け、ポーランドの音楽を演奏することは禁止されていました。地下室でショパンを弾きながら、時代の不幸を克服する音楽の力 ―― 平和な日常生活ではほとんど感じられないのですが ―― を想像しました。ワルシャワでの蜂起の際、音楽家である自身の無力を嘆いたショパンですが、苦しい時ポーランドの人々が心のより所としたのが、彼の音楽だったのです。
ピアノのコンディションはイマイチだった(どころか切れた弦が飛び出していた)このジムナースクラブでは、音楽スタジオが地下にあったおかげで、筆者にとっては思い入れのある場となりました。ピアノですっかり元気を取り戻し「ジムナースクラブ」の外に出た筆者の姿は、ハタ目にはまるでスポーツでリフレッシュした人。ここの前を行き交う人々はきっと、その地下にピアノがあるなど思いもよらないだろう、と妙にうれしがる筆者でした。

動物園
ショパンゆかりの地、パリの動物園。一見何のつながりもないようですが、ここも欠かせないスポットです。動物園へは大阪で子供の時に行ったきりの筆者、ショパンゆかりの地を訪ねると同時に自身の子供時代を訪ねるような浮き立った気分で出かけました。
この動物園は、大きな植物園(13世紀の王立薬草園がその始まり)の一画にあり、ヴェルサイユ宮殿で飼われていた動物をフランス大革命の折に移住させたのがその始まりなのだそうです。そうして一般公開されるようになった動物園は人気のスポットとなり、遠路ワルシャワから来仏したショパンの姉ルドヴィカもそこを訪れました。その後手紙の中で、ショパンは家族に植物園の拡張とキリンについて知らせています。
「「植物園」が9000フランかそれ以上かけて
新しく土地を拡げました。(中略)ルドヴィカ
とカラサンテも見たと思いますが、あのきり
んは死にました。このニュース以上に残酷な
ニュースをお知らせしたくないものです。」
(註:当時の1フランは約1000円f‐p.14、
1846年10月11日ワルシャワの家族宛て、d‐p.370)
「あのきりん」。当時、動物園でキリンを見るのはとても鮮烈な体験だったのでしょう。オスマン帝国からフランスに贈られたキリンが、パリの動物園に到着したのは1827年。次いで2頭目が1839年にも。フランスではキリン型のクッキーや、キリン風に結い上げた髪型が流行したそうです。一般公開された(1793年)頃の動物園はライオン、犀、白熊、豹、マンドリル、虎…という強面の顔ぶれで、そこに加わったキリンは中でも愛嬌のあるキャラクターだったのでしょう。ショパン姉弟が愛着をもって珍しげにキリンを見上げる姿が目に浮かびます。
こんな経緯のあった動物園、楽しみにしていた筆者が着いてみると、「衛生上の問題のため暫定的に閉園」との看板が。柵のすぐ向こうには元気そうに跳んでいるカンガルーの檻が見えているのに……。柵を両手でつかんで揺すってみても、開くはずはありません(まるで檻の外に出たがる猿のような恰好)。動物園の柵づたいに歩いてみましたが、キリンの頭を見ることさえかないませんでした。がっかりした筆者は仕方なく来た道をひき返しました。
帰り道、とぼとぼ歩きながらこんなことを思いました。大量の映像情報に接している現代の筆者が、仮に今日本物のキリンを見たとして、160年前のショパンと同じくらい感動できるだろうか、と。残念ながらその自信はありません。現代の筆者は、キリンそのものにではなく、キリンに感動するショパン達に感動してしまうのでした。

このようにショパンゆかりの地をめぐり、3月15日帰国の途についた筆者。その場所を訪ねるのみならず、そこから喚起されるショパンやその時代の感性に触れられたのが、今回の旅の充実感につながりました。鞄は思い出の品々でいっぱい(総重量30kg超)。パリで買った本や楽譜、絵葉書、写真などを見ていると、普段の出不精はどこへやら、ショパンがいた所ならどこへでも行こうという意欲がわいてきます。
この旅行記のタイトルは『ショパン探訪記 パリ篇』としました。こう書くと、当然「ワルシャワ篇は?」という不全感が残りますが、この不全感こそがいつかワルシャワを訪ねるはずみになるのです。そうなることを願いつつ、『ショパン探訪記 パリ篇』を締めくくります。

参考・引用文献 (本文中の引用の出典は下記記号の文献と一致)
- a. M.アリン(椋田直子訳)『パリが愛したキリン』翔泳社(1999年)
- b. Bibliotheque Polonaise “Bibliotheque Polonaise 150e anniversaire ”(1989年)
- c. A.フィエロ(鹿島茂監修)『パリ歴史事典』白水社(2000年)
- d. A.ヘドレイ(小松雄一郎訳)『ショパンの手紙』白水社(1965年)
- e. 池浩「ポーランドの音楽と生活」、『もっと知りたいポーランド』(宮島直機編)弘文堂(1992年)より
- f. 鹿島茂『馬車が買いたい!』白水社(1998年)
- g. 喜安朗・川北稔『大都会の誕生 出来事の歴史像を読む』有斐閣(1986年)
- h. 小沼ますみ『ショパン 若き日の肖像』音楽之友社(1989年)
- i. 小沼ますみ『ショパン 失意と孤独の最晩年』音楽之友社(1992年)
- j. 黒澤明夫『パリ JTBのポケットガイド101』JTB(1997年)
- k. S.D-モワン(小坂裕子訳)『ノアンのショパンとサンド』音楽之友社(1992年)
- l. J.‐R.ピット編(木村尚三郎監訳)『パリ歴史地図』東京書籍(2000年)
(日ポ協会関西センター『WISLA』第25号 2001年6月30日発行)
