ドイツ統一とポーランド外交
−1990年の国境確認交渉を手がかりに−
浅野 優
(岡山大学大学院文化科学研究科博士課程後期)
『岡山大学法学会雑誌』,第52巻第2号,2003年3月,pp.63-92.
*本稿は、岡山大学法学会のご厚意により、「ポーランド情報館」への転載を認めていただいたものです。この場を借りてお礼申し上げます。なお、本稿の著作権は、浅野優氏および岡山大学法学会に帰属します。(「ポーランド情報館」管理人)
第1章 これまでの研究
第2章 第二次大戦以降の国境確認交渉
第3章 1989年から90年の国境確認交渉
第1節 体制転換後のドイツ・ポーランド関係の始まり
第2節 国境確認交渉の展開
第3節 国境確認の最終的な決着
第4章 ポーランド外交の視座
第5章 結びにかえて
第一章
これまでの研究
1989年はポーランドにもドイツにも大きな変化をもたらす年となった。ポーランドでは2月から4月まで政府と「連帯」との間で円卓会議が行なわれ、秋には非共産党系の閣僚を中心としたマゾヴィエツキ内閣が成立した[1]。他方ドイツでは11月9日にベルリンの壁が崩れ、その後ドイツ統一問題は急速に進展した。このドイツ統一に際しては、東西両ドイツと第二次大戦での戦勝四大国である米英仏ソは「2+4」会議を開き、ドイツ統一によって生じる様々な外交問題について議論を行った。しかしながら戦勝四大国だけでなく、東ドイツに隣接するポーランドもこのドイツ統一に強い関心を持っていた。ポーランドにとってとりわけ重要な問題は、ポーランドと東ドイツの国境をなしているオーデル・ナイセ線についてであった。ポーランドは冷戦期に東西両ドイツそれぞれと国境に関する条約を締結したが、最終的な国境確認はドイツ統一に際してなされることになっていた。しかしドイツ統一が進展する中で西ドイツ側、とりわけコール首相は国境確認についての明確な態度を示さず、ポーランドの領土保全に対する不安を増大させた。それゆえポーランドは国境問題に関する外交交渉を積極的に展開し、国境問題に限定された範囲ではあるものの「2+4」会議に参加して自国の主張を訴えた。1990年9月に東西両ドイツと四大国は最終規定条約を締結し、ドイツ統一後の同年11月には当事国であるドイツ、ポーランド両国が国境確認条約を締結した。これにより第二次大戦終了後に定められた独ポ間の国境線が最終的に確認された[2]。
さて、この国境問題に関して、これまでのドイツ・ポーランド間の二国間関係の研究やドイツ統一における外交政策の研究などから次のような分析がなされている[3]。
まず、ドイツ・ポーランドの二国間関係重視の観点からこの国境問題を取り扱っている研究を取り上げたい。広瀬佳一による研究では体制転換直後の国境確認交渉から90年代前半の国境地域協力までの経過が示されており、国境確認については「四大国の承認のもと、オーデル=ナイセ国境を国際法的に確定した」ことにより、「伝統的に反独感情の強かったポーランド社会においても世論に変化が現れている」と述べられている[4]。シュタットミュラーの著作でも体制転換後のポーランド側の政治家の反応や世論の動きが示されており、ドイツに対する不安よりも両国の協力が優位を占めていたことが述べられている。これらの活動の中で国境確認条約はドイツ・ポーランド間の安定を導いた一つの要素として位置づけられている[5]。独ポ間の関係の中では国境確認がその後の善隣友好条約の締結や国境地域協力の基礎となったことから、国境確認交渉は両国関係を改善する出発点となったことが示されている[6]。確かに国境問題においてポーランドは当事国である両ドイツとの交渉を重要視していたが、他方で「2+4」会議に参加した四大国との交渉も極めて積極的に追求していた。そしてまさにその四大国に対するポーランドの姿勢は、以下で言及するように二国間関係を円滑に進めるための環境づくりという意味を超えているように思われる。しかしながらこれらの研究では、ポーランド・ドイツ関係に重点が置かれており、ポーランドと四大国との関係については十分に取り扱われていないように思われる。
他方、この問題を大国間の外交という視点から扱った高橋進の著書では、国境問題は「実体問題であるよりも象徴的問題」であり、「対立の終結は妥協、関係者の面子をつぶさない方法での収拾しかありえない問題であった」と捉えている[7]。従って国境問題の解決の過程は主として、独ポ間の根深い不信感を払拭し、ドイツ統一の進め方で意見が異なっていた英仏と西独との関係を改善する過程として描かれている。またドイツ統一の外交的な側面を描いたゼーリックとライスの著作でも、独ポ間の仲介を行なったアメリカの役割が示されており、国境確認交渉は三者の理性的な議論の積み重ねにより達成された相互不信の解消の過程として描かれている[8]。国境問題は、この研究では、国内への悪影響を最小限にとどめようとする西ドイツ、ポーランドを支持してドイツ統一を協調的に行なわせようとする英仏、その間で調整を図ろうとするアメリカという大国間の外交関係の中で捉えられている[9]。しかし、国境確認交渉の過程では、以下に述べるように、ポーランドは「2+4」会議に参加し、また積極的に自らの外交原則といえる主張を提示しようとしていたのである。この交渉過程は大国とポーランドの外交交渉が複雑に絡み合ったものあったように思われる。もしそうであれば、四大国との交渉の中でポーランド外交が果した役割もまた明らかにされるべきではないだろうか。
次章以下の交渉過程に見るように、ポーランドは「2+4」会議への参加を強く要求した。後に交渉過程の中で触れる点ではあるが、国境確認交渉におけるこのポーランド側の取り組みは執拗ともいえるものであった。例えば、ポーランドは「2+4」会議という多国間の交渉の中で自国の要求を最後まで強く主張しているし、他方で同国は四大国に完全に依存していたわけではなく、当事国間の交渉なども推し進めて、四大国の枠組みを超えた独自の外交政策を展開しているように思われる。従ってこれらのポーランド側の交渉姿勢はこれまでの分析からでは十分に説明できない点を含んでいるのである。本稿は国境確認交渉の過程でポーランドがどのような外交を展開したのか、そしてその中でポーランドがどのような外交原則を追求しようとしたのかをポーランド側の資料を中心にして提示しようとするものである。
第2章
第二次大戦以降の国境確認交渉
オーデル・ナイセ線の国境問題は約半世紀にわたって懸案となっていた課題であり、ドイツ統一に際してこの問題が顕在化した理由を理解する上でも、またこれから明らかにしようとするポーランドの長期的な外交原則を考察する上でも、この問題に関する、体制転換までの歴史の理解は最小限必要な前提であろう。そこで89年から90年の国境確認交渉に言及する前に、89年までの国境問題の経過について概括したい。
第二次大戦中、そして戦後のポーランドは自国の領土について決定的なイニシアティブを持つことができず、連合国による戦後秩序の形成に全てを委ねるしかなかった。連合国首脳によって1943年にテヘラン会談、45年2月にはヤルタ会談が行なわれ、8月のポツダム会談によりポーランドの西部国境はほぼ確定した[10]。連合国が決定したオーデル・ナイセ線は戦前のポーランドの国境線よりもかなり西側に位置するものだった。ポーランドの東部国境は、ポーランドとソ連の間で45年8月に結ばれた条約により、ほぼカーゾン線の位置で確定した[11]。この領土変更によりポーランドは東部で18万kuを失い、西部で10万kuを得、戦後のポーランドは戦前のドイツ領に食い込む形で成立した。
大国間の交渉で決められた西部国境を固定化するために、冷戦下においてポーランドは東西ドイツそれぞれと条約を締結して国境線の確認を求めようとした。その第一歩が1950年7月に東ドイツとの間で締結されたズゴジェレツ(ゲルリッツ)条約[12]であった。西ドイツとの間でも1970年12月に正常化条約(ワルシャワ条約)[13]が結ばれ、オーデル・ナイセ線がポーランドの西部国境であることが両国により承認された。しかし、1970年の国境確認は西ドイツとポーランドとの間のものであった。条約批准の際に西ドイツ議会は決議を採択し、将来の統一ドイツはこの国境確認に拘束されず、統一ドイツとポーランドが改めて国境問題を話し合うことを確認している[14]。この正常化条約での国境確認はドイツ統一までの暫定的な性格を持つものだった。
1970年の段階ではドイツ統一は現実的な課題として扱われることがなかったため、東西両ドイツとの国境確認に関する問題は一応の決着となりうるものであった。しかし、89年秋以降、ドイツ統一が急速に進展する中で、西ドイツの国境に関する留保はポーランド側にとって解決されねばならない問題として大きな意味を持つようになった。この1970年に締結された条約を引き継ぐ形で、国境問題を中心とした諸問題は体制転換後の交渉の中で解決されることとなった。
第3章
1989年から90年の国境確認交渉
第一節
体制転換後のドイツ・ポーランド関係の始まり
1989年に起きたポーランドでの体制転換は国内の政治的・経済的な変化をもたらしただけではなく、外交においても冷戦下での東西関係を見直すきっかけとなった。この新しい環境の中で、11月9日から14日まで西ドイツのコール首相は初めてポーランドを公式訪問した。10日には若者交流に関する協定などが締結され、両国間の新しい実務関係が始まった[15]。12日にはドイツ系住民の多いポーランド南西部シロンスク地方のクシジョーヴァで独ポ両首相がミサに参加し、両国の和解を印象づけた。14日には共同宣言が発表され、包括的な関係の強化が謳われた。共同宣言は両国の和解と合意に向けた新たな意志を示したものであった。宣言は経済協力、文化協力、全欧的な取り組みなど二国間における様々な活動を挙げており、今後の二国間条約の締結や具体的な協力を発展させる基礎となった。国境問題に関しては、宣言の第7章で「ヨーロッパの現在の国境での、国境の不可侵や全ての国の領土保全や主権の尊重が平和の基本的な条件となる。」と述べられている[16]。
このコール首相の訪問中に奇しくもベルリンの壁が崩れ、ドイツ・ポーランド関係だけでなく、ドイツ統一への動きも大きな進展を見せることとなった。ベルリンでの出来事を追うようにして、11月中旬には東ドイツ首相モドロウが東西ドイツの条約共同体構想を発表し、同月末の11月28日には西ドイツ側も統一へ向けた10項目提案を行なった[17]。この10項目提案は西側の同盟国に事前には知らされず、西ドイツの性急で独断的な行動にソ連だけでなく英仏も不快感をあらわにした[18]。四大国は性急なドイツ統一がもたらす国際環境の不安定化や統一問題での自国の安全保障への影響を憂慮し始め、各国はドイツ統一をどのように進めるべきか検討を重ねた。ドイツ統一の過程で解決しなければならない安全保障の問題は東西両ドイツが属する軍事同盟や駐留軍についてなど数多くあったが、ドイツ・ポーランド間でとりわけ懸案となっていたのは国境問題であった。しかし、コールの10項目提案の中で国境問題は全く触れられておらず、コール首相は統一ドイツのみが国境確認を行なうことのできる主体であると法律論に固執し、国境確認を行なう意志を示そうとしなかった。ポーランドのスクビシェフスキ外相は12月7日に下院でドイツ統一について答弁し、ドイツ統一の過程は現在の国境を変更しないことを前提にしなければならないと発言している[19]。この国境問題については、四大国の首脳間においても10項目提案以降の会談の中で話し合われている。例えば12月8、9日にEC首脳会議が開かれた際にミッテランとサッチャーは会談を行ない、サッチャーは明確に現在の国境線を尊重する必要があることを述べている。同首脳会議に際してミッテランはコールとも会談し、12月6日に行なわれていた仏ソ会談について述べ、ゴルバチョフが国境問題を重要視していることをコールに伝えた。12月12日にはベーカーとコールが会談し、ベーカーはドイツ統一に過敏になっている隣国に保証を与えることを勧め、特に国境問題が重要であることを指摘した。すなわち現在の国境線の維持は四大国に共通する考えであったということができよう[20]。
さて、89年末から90年初頭にかけて、東ドイツの政治的、経済的な機能不全はさらに進み、ドイツ問題は統一の是非ではなく、統一の方法に問題の焦点が定まりつつあった。どのように統一するかという点で、各国はその方向性を模索していた。ソ連、フランスはドイツ統一へと事態が性急に進展しないように、ヨーロッパの多くの国々が参加しドイツ統一をゆっくりとしたペースで検討する欧州安保協力会議(CSCE)での討議や大国のみで交渉を管理することのできる戦勝四大国の会議を望み、他方イギリスは戦勝四大国による会議を中心に据えることを考えていた。米、西独は、両ドイツを含み、かつ関係国が多くなりすぎない6ヶ国(両ドイツと四大国)の交渉を模索していた[21]。
このドイツ統一を議論する枠組みはオタワで開かれた「オープンスカイ」交渉により決着した。この会議は本来NATO諸国とWTO諸国の外相合同会議として設定されたものであった。この交渉に際し、90年2月13日に東西両ドイツと戦勝四大国の外相は会談を行い、統一ドイツの対外的な問題についてこれら6ヶ国が会議を開催することで合意した[22]。6ヶ国が発表したコミュニケでは、会議の目的は「隣国の安全保障を含む、ドイツ統一制定の外的側面」を議論することである、とされた。また参加国は東西両ドイツと戦勝四大国の6ヶ国であり、ドイツ統一の対外的側面を取り扱う会議は戦勝四大国のみでも、両ドイツのみでも行なわれないことを明らかにした。コミュニケは3つの文章からなる短いものであり、一般的な文言しか記されていなかったが、このオタワコミュニケがポーランドに及ぼした影響は小さくなかった。6ヶ国による会議(以下「2+4」会議と表記)ではドイツ統一の外交問題が議論されることから、国境問題もその議論の対象となり、四大国はその解決に好意的に反応するだろうとポーランド側は期待した。そしてさらに重要であったのは、同コミュニケの「隣国の安全保障を含む」という文言は、ポーランド自身がこの会議に参加できる可能性を示唆するものであった。また、この「2+4」会議が国境問題に関するドイツ・ポーランド間の二国間交渉にも良い影響を与えることも期待された[23]。
第2節
国境確認交渉の展開
オタワコミュニケ以降、ポーランドはこの「隣国の安全保障を含む」という表現を梃子に「2+4」会議に参加できるよう精力的に活動を展開した。2月16日にマゾヴィエツキ首相はワルシャワで東独首相モドロウと会談を行い、23日にはコール首相と電話会談を行った。ポーランド側の外交攻勢は3月に入っても続いた。3月9日にはヤルゼルスキ大統領、マゾヴィエツキ首相、スクビシェフスキ外相がフランスを訪れた。フランス側はポーランドの主張を明確に支持し、ポーランドと東西両ドイツが統一前に国境確認条約を仮調印すべきであることを仏ポ両国首脳は記者会見で発表した[24]。3月中旬にはマゾヴィエツキがアメリカを訪れ、ブッシュ米大統領と会談し、同様の趣旨をブッシュに要請した。
四大国首脳との会談の中でもポーランド側は国境確認を明確にすることを訴えた。「2+4」会議へのポーランドの参加が主な主張の一つであったが、ドイツとポーランドが条約を直接締結することもポーランドがはっきりと主張したことであった。国境確認交渉は四大国の関与の下で進められたものであったが、国境問題の当事国による二国間条約の締結はポーランド側がこの国境確認交渉を通じて一貫して主張したことであった。
ポーランド側は「2+4」会議に参加する首脳との会談だけを追求したのではなく、ポーランドの置かれている立場を説明するために各国に書簡も送付している。2月20日にマゾヴィエツキ首相は四大国宛てにポーランドの立場を表明する書簡を送り、ポーランドが「2+4」会議に参加できるよう訴えている[25]。さらに特筆すべきは3月2日にスクビシェフスキ外相からの書簡が東西ドイツに隣接する国々の外相宛てに送付されたことであった[26]。3月19日から22日にはルクセンブルク、ベルギーを訪れ、ルクセンブルク首相ジャック・サンテールとも会談を行った。サンテールは国境問題についてポーランドの立場を支持し、ドイツに隣接する国々は「2+4」会議に参加すべきであり、オタワで決められた6ヶ国の枠組みには不満であることを述べた[27]。このようにポーランドはデンマーク、スイス、ルクセンブルクといった東西ドイツに隣接する中小国の支持を喚起する形で「2+4」会議への参加を訴えている。
さて、ポーランドが四大国首脳と会談した際、四大国はどのように国境問題を捉えていたのだろうか。上述した3月の仏ポ会談に見るように、フランスは国境問題に関して最も明確にポーランドの立場を支持し、西ドイツと鋭く対立した。フランスにとっては国境問題はドイツを牽制するカードであり、ポーランドを支持することによってドイツの影響力拡大を抑えるという目論見があった。また、そこにはECやCSCEといった、フランスが積極的に進めているヨーロッパ統合の中でドイツ統一を位置づけ、フランスの影響力を拡大する狙いも含まれていた。西側大国の中でCSCE内での国境問題の討議を主張していたのはフランスであったことは注目すべきであろう[28]。
他方、ソ連もまたCSCEでの討議によって国境問題を解決することを模索していた。しかし、その狙いはフランスとは異なる理由であった。東欧諸国の体制転換によって東側ブロックというソ連の基盤は崩れつつあった。ドイツ統一問題でNATOの影響力を最小限にとどめ、西側と討議を行なう足がかりはCSCEを措いて他になかった。また全欧的な多数国間の会議は必然的にドイツ統一を引き延ばす結果となり、冷戦後における混沌としたソ連の安全保障を再構成するための時間的猶予を得る目的もあった。オタワコミュニケの「隣国の安全保障問題を含む」という語句はソ連側が付け加えることを要求したものであり、CSCEに対する意図と同様にソ連側は国境問題を通じて「2+4」会議を引き延ばし、会議での主導権を握ろうとしていた[29]。
イギリスもまた国境問題でポーランドに明確な支持を与えていた。その理由はドイツ統一がこれまでの冷戦期の秩序を大きく崩してしまう恐れがあったからであった。現在の国境線はこれまでのヨーロッパにおける秩序を維持するために大きな役割を果してきており、その秩序を維持してきたのはNATOとNATOの中心的な役割を担ってきた英米仏であるとサッチャーは考えていた。サッチャーは国境線の変更は問題外であるとして2月のマゾヴィエツキとの会談でポーランドの主張を支持し、3月末のサッチャー・コール会談では国境確認を明確にするよう強く主張した[30]。
イギリスだけでなくアメリカも冷戦後の秩序をNATOを軸にして考えていた。90年4月の米英首脳会談では、ブッシュとサッチャーはNATOの政治機能を強化するという共通の立場を確認した。ただドイツに対する態度はイギリスとは大きく異なるものであった。アメリカはヨーロッパにおける重要な同盟国としてドイツを見なしており、ドイツ統一に際しても、コールの考えていたNATO残留という枠組みでのドイツ統一の方向性はアメリカの利益と合致していた。アメリカはドイツ自身の自決権を主張することにより、西側の安全保障を維持し、かつソ連を刺激せずに影響力を行使することを望んでいた。西ドイツに対するこのような協力的な立場は国境問題に関しても同様であった。3月にワシントンで行なわれた米ポ首脳会談で、マゾヴィエツキは統一前の条約締結を訴えたが、ブッシュはコールの立場を支持し、ドイツにこれ以上の圧力をかけることはできないことをマゾヴィエツキに伝え、コールを信用して欲しいと要請した[31]。
このようにポーランドや「2+4」会議参加国の外交交渉が続く中で、両ドイツと四大国の国境確認に関する動きもはっきりとしたものになりつつあった。3月2日にコール首相は国境確認を行なう意志があることを初めて公にした。3月18日には東ドイツ議会の自由選挙が行なわれることになっていたので、コールはこの事態を受けて、東ドイツの総選挙後に東西両ドイツは国境確認の意志を同一文の議会決議という形式ではっきりと示すつもりであると発言した[32]。オタワコミュニケで提起された6ヶ国の会談も、3月14日に「2+4」準備外務事務レベル会議としてボンで始まった。この会議は「2+4」外相会議の予備交渉となるものであり、そこでポーランドの「2+4」会議参加や「2+4」会議の議題が話し合われた。会議後に出された宣言では「ポーランドは、関係する問題、とりわけその国境が議論される場合にのみ招待される。」とされ、ポーランドの招待とその参加範囲が示された。また「2+4」会議の議題として国境、統一ドイツの政治的・軍事的な地位、ベルリンに関する問題、四大国の権利と責任の終了問題という4つのテーマが決められた[33]。この事務レベル会議により、「2+4」会議の輪郭がはっきりと現れてきた。この会議での宣言は、ポーランドにとって「2+4」会議への招待という内容を含むものであり、それはこれまでのオタワコミュニケ以降の外交活動の成果を示すものだった。この事務レベル会議で出された結論は5月5日の「2+4」外相会議で正式に決定され、翌6日にポーランド側に伝えられた。
ポーランドの「2+4」会議参加が明確になる中で、ポーランド外務省は東西両ドイツに対して国境問題を含んだ包括的な関係改善を目指す条約案を提示している。この条約案は4月27日に東西両ドイツに、4月30日に四大国に提示された[34]。この条約案提示の後、西ドイツ、東ドイツ、ポーランドの3ヶ国は5月3日にワルシャワ、18日にボン、29日にベルリンで会談を行なった。この3ヶ国交渉ではコール首相が表明していた両ドイツの議会決議と今後締結される予定の国境条約案が主として検討された。交渉の中でドイツ側は両ドイツ議会による同一文の議会決議を行なうことを約束したが、ポーランド側が望んでいた条約による統一前の国境確認ははっきりと拒否した。ポーランド側は国境確認に関して二国間条約の締結と「2+4」会議での明確な保証をあくまでも要求したが、この3ヶ国交渉の後には、統一後に国境確認条約を締結する方向へと政策を転換させている[35]。
この3ヶ国会談は国境確認交渉を進展させるためにポーランド側によって提起されたものであったが、四大国はこのポーランドの動きに積極的な支持を与えなかった[36]。この3ヶ国会談を提起した時期には「2+4」会議へのポーランドの参加がほぼ確実視されていた。もしポーランドが四大国による国境確認を中心にして問題を処理しようと考えていたのであれば、「2+4」会議とは異なった交渉チャンネルをポーランドが開く必要性はなかっただろう。しかしながらポーランドは「2+4」会議への参加のみを通じて国境問題を解決するのではなく、国境問題の当事国による問題解決を提起し、「2+4」会議という大国の意思決定の場以外での交渉チャンネルを模索していたように思われる。
この3ヶ国交渉は6月の両ドイツ議会の決議へと実を結んだ。6月21日に西ドイツ下院と東ドイツ人民議会、6月22日には西ドイツ上院がほぼ同じ内容の決議を採択した[37]。決議はまず、これまで国境を規定してきた西ドイツ、東ドイツとポーランドとの諸条約を挙げ、現国境がポーランドの西部国境であることを確認している。続いて現存する国境の現在及び将来における不可侵を確認し、主権と領土保全に敬意を払う義務があることを述べている。そして、いかなる領土的要求も持たず、そのような要求を将来にも提起しないことを宣言した。東西両ドイツ議会が同時期に、ほぼ同文で決議を採択したことにより、明確な国境確認の意志を両ドイツは明らかにした。
この6月の決議により国境確認についての反対はなくなったといってよい。前述したように四大国は国境の確認に同意しており、国境確認を明確にしていなかった西ドイツ側もこの決議により、はっきりと現在の国境を統一ドイツの国境とする意志を示した。ドイツ統一に関する文献もこの時点で国境確認交渉についての記述を終えているものが多い[38]。しかし、ポーランド側はその後も二国間条約の締結時期を明確にすることなどを求めて、執拗に自国の主張を訴えつづけているのである。
第3節 国境確認の最終的な決着
ポーランド、両ドイツ間での協議が進む中、両ドイツと四大国との交渉も具体的な進展を見せ、6月22日に第2回「2+4」外相会議がベルリンで行なわれた。国境問題に関しては、7月17日にパリで行なわれる予定の第3回「2+4」外相会議にポーランド外相が参加することになっており、パリ外相会議及びその準備会議である7月4日の事務レベル会議のために国境問題の基礎がベルリンで話し合われた。このベルリンでの会議の結果は6月27日に送付されたポーランド外相宛の「2+4」会議招待状に示されている[39]。この招待状の付帯文書で「国境確認の基礎」が述べられており、これは続く事務レベル会談、外相会談での叩き台となった。
国境問題調整の基礎(以下「基礎」と表記)
1.統一ドイツは西ドイツ、東ドイツ、全ベルリンの範囲を含む。最終規定条約の施行の日に西ドイツ、東ドイツ国境は統一ドイツの最終的な外部国境となる。
2.統一ドイツとポーランド共和国は国際法の観点から拘束力を持つ条約によって現存するポーランド西部国境を確認する。
3.統一ドイツは他国に対しいかなる領土的要求も持たず、将来においてもまたこのような要求を提起しない。
4.西ドイツ政府と東ドイツ政府は、統一ドイツの憲法が上記の基礎に反したいかなる決定をも含まないことを保証する。このことは西ドイツ基本法前文、並びに23条2項、146条に含まれる決定に該当する。
5.ソ連、米、英、仏政府は正式な形で関係する義務や宣言を採択し、その実現と同時に統一ドイツ国境の最終的な性格が確認される。
上記の「基礎」を受けて、ポーランド側は「2+4」会議参加国に対して返書を送付し[40]、7月4日には「2+4」事務レベル会議で「基礎」への具体的な主張を行なった。この会議はポーランド外交団も参加して行なわれたものであり、これは7月17日にパリで行なわれる「2+4」外相会議の予備的な会議であった。事務レベル会議でポーランド側は以下のような主張を行なった。国境確認の暫定性を解消するために、「2+4」会議終了時に締結される条約がポツダム宣言を受け継ぐものであることを「基礎」の中で示すようポーランド側は主張した[41]。また、独ポ間の国境確認条約がドイツ統一後の最も早い時期に締結されるよう、「基礎」に独ポ間の条約の発効時期を明記することなどもポーランド側によって提案された[42]。
これらのポーランド側の修正要求は事務レベル会議では最終的な決着をみず、パリでの「2+4」外相会議に持ち越された。この会議はポーランド外相スクビシェフスキも含めた7ヶ国の外相により7月17日に開かれた。会議ではスクビシェフスキが冒頭に演説を行い、7月4日に事務レベル会議で行なったポーランド側の提案を再度述べた[43]。外相会議での議論の後、最終的に変更された点は「基礎」の第1項と第2項であった。第1項では「国境の最終的性格の確認はヨーロッパでの平和的秩序の重要な要素となる。」という文章が付け加えられ、第2項では「現存するポーランドの西部国境」という文言が「ドイツ・ポーランド間に現存する国境」と改められた。その他のポーランド側が提案した修正要求、例えば独ポ二国間の国境条約の締結時期を明記することや「2+4」会議での国際的な取決めがドイツ国内でも効力を有することの明記、は受け入れられなかった。パリ会議終了後、7月23日にフランス外相からポーランド外相宛に会議での決定事項が送付された。ポーランド側は8月31日にフランスに、9月6日にはフランス以外の「2+4」参加国に返書を送付し、パリ会議でポーランド側が主張した点について繰り返し主張している[44]。
9月12日にはモスクワで「2+4」会議が行なわれ、パリ会議での合意が正式な条約となった。この会議の終了時に四大国と東西両ドイツは「ドイツに関する最終規定についての条約」を締結した。「基礎」はこの条約の第1条に列挙されており、条約の前文にはポーランドの「2+4」会議参加も述べられている[45]。9月13日には最終規定条約についての通告がソ連側からなされ、ポーランドは9月20日にはソ連に、9月28日にはソ連以外の参加国に返書を送った。この書簡の中で、最終規定条約での諸決定が国内法への義務を有すること、統一後可能な限り早く国境確認条約が締結されることなど、最終規定条約には盛り込まれなかった合意事項が遵守されるようポーランド側は重ねて主張した[46]。
四大国の権利と責任に関する問題は両ドイツと四大国による最終規定条約により解決し、10月3日にドイツは統一された。統一後の11月8日に国境問題の最終的な交渉が行なわれ、11月14日にスクビシェフスキ、ゲンシャー両外相は国境確認条約に調印した。国境確認条約は第1条でこれまで東西両ドイツとポーランドとの間で締結された条約や協定を列挙し、現国境を確認している。第2条、第3条では国境の不可侵、領土的な要求を行なわないことが述べられている[47]。これらの条文は6月の両ドイツ議会決議の内容を多く含んだものとなっている。この条約によりポーランド、ドイツ間の国境が最終的に確認された。
さて、このように6月の両ドイツ議会決議以降も「2+4」会議という舞台でポーランドは国境確認を明確にするよう積極的に自らの主張を訴えているが、ポーランドの領土保全は6月の両ドイツ決議により十全ではないがほぼ達成されており、7月から「2+4」会議終了までのポーランド外交は単に領土保全を行なうためという理由だけでは説明のできない動きだろう。領土保全を明確にするという交渉結果を得るよりもむしろ、ポーランド自身が大国間の交渉に参加するという交渉過程のあり方がポーランドにとって大きな意味を持っているのではないだろうか。
この約1年に及ぶ国境確認交渉の中でポーランド側は確かにオーデル・ナイセ線の最終的な確認を求めるために外交交渉を展開した。しかし、ポーランド側の目的が単なる領土保全のみであったならば、国境確認に強い影響力を持つ四大国への働きかけに集中することがポーランド外交にとって最も効果的であっただろう。上述したポーランド外交の軌跡はこうした理解を越える側面を持っているように思われる。すなわち、ドイツに隣接する中小国の支持を喚起したこと、ポーランド、西ドイツ、東ドイツの3ヶ国間で国境確認に関する交渉を行なったこと、ドイツとポーランドの二国間条約締結という当事国による最終的な問題解決を一貫して主張していたこと、大国が中心となる「2+4」会議に参加するという交渉過程自体を重要視すること、これらのポーランド側の姿勢は、とりわけ「大国の保証」のもとでの領土保全という考え方には合致しない側面を持っている。ここにはポーランドの目指す長期的な外交原則が交渉過程の中で現れていると考えられる。以下その点について検討を加えてみよう。
第4章 ポーランド外交の視座
1989年に起こった体制転換はポーランドの外交政策の転機でもあり、マゾヴィエツキ新政権においてもこの点は強く自覚されていた。マゾヴィエツキ首相はその就任演説で外交政策の重要性を挙げており[48]、この対外関係の新たな構築は89年9月に国連で行なわれたスクビシェフスキ外相の演説によっても示されている[49]。この演説はマゾヴィエツキ首相の演説と同様にポーランドの独立や主権を印象づけるものであった。
ドイツ統一問題が進展を見せ、オーデル・ナイセ国境の解決がポーランドの重要な外交課題となってからも、ポーランドは国境確認交渉において東西両ドイツとの関係だけではなく、「2+4」会議に参加する大国との関係をも強く意識していることを見てとることができる。例えば90年2月20日に四大国宛に送付されたマゾヴィエツキ書簡、3月2日に両ドイツの隣国諸外相宛に送付されたスクビシェフスキ書簡はともに次のように述べて「2+4」会議へのポーランドの参加が正当なものであることを訴えている。「関心を持つ隣国の発言を制限したり、ドイツ統一での近隣諸国の安全保障を含む外的側面についての議論においてしかるべき段階から排除したりすること、これらのことは1945年のヤルタ方式へと逆戻りすることと同じになるでしょう。」[50] また、2月22日に開かれた第6回ドイツ・ポーランドフォーラムでスクビシェフスキ外相は次のように発言している。「既得権について、関心を持つ国々の参加を伴った議論が重要なのです。言い換えれば理に適った外交が、ヤルタ型の強制を拒否することが重要なのです。我々をヤルタから遠ざけるすべてのことは良好な国際関係やヨーロッパ統合を促進します。一方で我々をヤルタに近づけ、その方法を繰り返すすべてのことはヨーロッパ統合を頓挫させ、分割を導き、軍縮のチャンスを小さくし、国際関係の民主化を否定します。」[51]
「2+4」の枠組みが明らかになった2月のオタワコミュニケの後には、ポーランドの外交政策を担う国会議員の中にも四大国に対する態度がはっきりと表れている。この時期には1989年6月に行われた部分的自由選挙で当選した政治家が議会活動を行っており、「連帯」系の政治家は市民議会クラブ(OKP : Obywatelski Klub Parlamentalny)を形成し、マゾヴィエツキ政権での閣僚の多数を占めていた[52]。このOKPの指導者であり、下院の外交委員会委員長を務めていたブロニスワフ・ゲレメクは次のように述べている。「戦勝四大国と両ドイツが行う会議にポーランドは自国の国境と安全保障に関する議論に参加する倫理的な権利を持っています。この会議にポーランドを参加させないことは不名誉なヤルタの経験の再現となるでしょう。」下院議長のミコワイ・コザキェヴィチもまた「我々に関する直接の問題が議論される時、「2+4」会議に出席する要求を自然な、そして至極当然なことであると我々は考えます。ポーランドの発言が直接、そして明確に聞き届けられるようにする多くの歴史的な原因をポーランドは持っています。ヤルタの歴史的経験は、関心を持つ国々を無視して大国によって締結された協定の帰結がどのようなものであるかということを教えています。」と述べている。OKPの外交委員会委員長であったヤヌシュ・オニシキェヴィチは90年2月28日にジチェ・ヴァルシャヴィ紙のインタビューに次のように答え、「2+4」会議への参加がポーランドの正当な要求であることを述べている。「もちろん5番目の大国としてポーランドの完全な参加を問題にしているのではなく、nic o nas bez nas(nothing about us without us:我々の関与なしに我々の問題について決定することを許さない)という基礎を実現することが大事なのです。すなわち、独ソ不可侵条約もヤルタもポーランドの権利を侵したものであったという基礎が重要なのです。」[53]
4月26日にはスクビシェフスキ外相がポーランド下院で外交政策に関する年次報告を行っている。この年次報告についての議会論戦の中で国境問題についてゲレメクは次のように述べている。「ドイツ統一を慣れるべき必要悪としてではなく、ヨーロッパを再生させ、ヤルタ後の分割を克服し、ソ連・ポーランド間と同様の関係を変化させる不可欠な過程として認識しました。ドイツの状況の変化はヨーロッパにおけるポーランドの状況の変化に関わっており、このドイツの変化によってポーランドの主権の復活が可能となりました。・・・問題は将来の統一ドイツがどのような形を取るのかということなのです。ここでは、ヨーロッパと世界の安全保障が問われているのであり、我が国の利益を守ることだけが問われているのではないのです。」[54]
パリで行われた「2+4」会議の後には、スクビシェフスキ外相が7月27日にポーランド下院で演説を行なっている。この演説はこれまでの国境確認交渉を総括するものであり、その中でスクビシェフスキは次のように述べている。「隣国の安全保障問題についての言及は重要でした。オタワコミュニケは非常に短いものです。これは3つの文章から成っています。またこれは全般的な内容で、会談の対象を厳密に示していませんでした。その当時はただ非常に簡潔に、しかし同時にポーランドが参加の機会を得られるようにこのコミュニケを補うことができました。なぜなら、ドイツに隣接する国々の安全保障について文言がある以上、これら隣国の参加なしには会議を行うことができないからです。ヤルタの時代は終わりました。1981−82年の転機にフランソワ・ミッテラン大統領は正しくもこう言いました。『ヤルタから抜け出すことを許す全てのことは良いこととなろう。』」[55]また同演説では次のようにも述べている。「現存するドイツ国境の絶対的な必要性において大国の関与は国際法という意味での保証とは同一ではありません。とりわけポーランド・ドイツ国境はそのような保証の対象ではありません。国境の永続性という問題での大国の確約と、その確約に反して提起されるあらゆる疑念の排除とが必要であるという見解をポーランド政府は初めから持っていました。大国の参加は必要です。しかしながら保証は別です。ヤルタの経験以降、誰もそのような保証を行わないことを我々は望んでいます。この保証は『保証』という言葉が意味する確実性や安寧とはしばしば逆の効果をもっています。他の国境と同じように領土調整に対する大国の特別な立場や特別な地位を生み出すことなく、我々の現在の国境線におけるポーランド・ドイツ国境が普通の国境であって欲しい。なぜならこのことは自らに好ましくない結果をもたらすものかもしれないからです。保証する者が何らかの責任を持っている場合があり、また保証する者が自らの特別な地位を利用することもあります。この点でポーランドの経験は良いものではありませんでした。パリでは必要な保証と我々の自主性の間の適切な均衡を達成したと私は判断しています。」[56]
我々は、これらの発言からヤルタ体制への批判をはっきりと読み取ることができる。大国により国境が規定され、第二次大戦後約50年にわたって維持されてきたヤルタ体制を明確に否定するポーランド側の意思がここに滲み出ていると理解することもできるであろう。従って、この主張は単なる領土保全の解決だけを求めているのではないだろう。領土保全をポーランドの名において行なうという外交原則こそ国境問題でポーランドが意図したものであった。だからこそ、国境の確認についてポーランドは、ポーランドと両ドイツの間で3ヶ国交渉を提起し、同時にドイツ側の議会決議だけでは不満だとし、積極的に国境問題の国際的確認を求めて「2+4」会議に参加したということができるでろう。
では、なぜヤルタ体制という、自国の決定権を奪ってきた大国主導による国際秩序の維持を否定し、自国が関与する形での領土保全にポーランドはこれほど強くこだわりつづけてきたのだろうか。これはポーランドが経験してきたこれまでの歴史を振り返れば容易に理解できる。そもそも第二次大戦後の領土の変更はポーランドが望んだものではなく、解放軍となったソ連によって主張され、また西側諸国に説得されて確定したものだった。またヤルタ体制のもとで行なわれた領土画定はソ連を中心とする社会主義ブロックを構築する原点となり、それ以降1989年まで東側ブロックの同盟に関する重要な政治的決定はソ連に強く拘束されていた。またポーランドにとっては第二次大戦以降のみがそのような状態にあるのではなかった。さかのぼればポーランド分割は近隣の強国によって行なわれ、ポーランドは独立国家としての地位を失った。第一次大戦後独立したポーランドは大国の間での均衡外交を行わざるを得なかった[57]。その大国間の均衡が破られた後は第二次大戦での最初の犠牲国となった。ポーランドの領土保全は諸外国の、とりわけ大国の影響下にあった。このようなポーランドの経験からnic o nas bez nasという言葉が生まれ、ポーランド外交の一つの原則となっていると言われている。この言葉はオニシキェヴィチの発言の中で直接引用され、また外相などの発言にも見られるように、体制転換後の国境確認交渉の中でもポーランド外交を担った人々の間に広く共有されたものであった[58]。
この伝統的な考えは、体制転換直後というヨーロッパの新しい外交環境の中で新たな課題を背負うものであった。nic o nas bez nasという言葉から直接導き出すことのできる帰結を想像するならば、どのような同盟にも属さないというポーランドの中立化構想などが考えられるだろう。しかし、中立化といった政策はポーランドの現状に即して考えれば非現実的であり、むしろポーランドを危険にさらす可能性があった。スクビシェフスキは後に体制転換後の外交政策を回顧する中で、ポーランドの中立化やフィンランド化は大国の緩衝地帯となることを招くだけであり外交政策として採用しなかったことを記している[59]。
それではどのような政策がこの89年から90年にかけて展開されていたのだろうか。90年4月にはスクビシェフスキは外交指針についての演説を行なっており、マゾヴィエツキ政権の外交の方向性を示している[60]。この演説の中でポーランド外交政策の筆頭に挙げられ、またヨーロッパ統合政策の部分で多くを占めていたのは全欧安保協力会議(