日本の器械体操生みの親はポーランド人だった
松本照男
かつて日本の体操競技選手はオリンピックや世界体操競技大会の華であった。鉄棒や鞍馬、平行棒、床競技と、長年にわたり日本選手たちの上位独占が続いた時代があった。世界の関係者は「どうして、日本選手はあんなに強いのか?」と首をひねっては、柔道と同じように、伝統の強みかとその源泉を探ったこともあった。歴史をひもどいても、また人々に話しを聞いても、柔道や相撲などの伝統格闘技のことは出ても、「体操?」と聞くとみな首をひねるばかりだった。
クレメンス フェルフネロフスキ[Klemens Felchnerowski]というポーランド人がいる。いや、居たというべきだろう。同氏は19世紀末の1892年、現在のポーランド西方のポズナン地方で生まれたが、その当時、この地方はドイツ領に併合されていた地方であったが、ポーランド系住民もその領土内で多数、暮らしていた。
第一次世界大戦勃発前の1912年、クレメンスはドイツ海軍に徴兵された。ポーランド系住民とはいえ、ドイツ領土内に住む若者にはすべて軍隊への徴兵義務が課されており、否応なしの軍隊生活がはじまった。
1913年1月、クレメンスはドイツが極東に保有する植民地、中国の青島に軍艦にて派遣された。有能なスポーツマンであったクレメンスは、青島で開催されたマラソン大会に優勝。また天津で開催された各国海軍[米国、ロシア、ドイツ、日本]共同による極東スポーツ大会でレスリング(軽量級」の極東チャンピオンにもなったほどである。
1914年7月には第一次世界大戦が勃発したが、同年11月、ドイツ軍がたてこもる青島をめぐって日獨軍の攻防戦が続き、最終的には4千数百名のドイツ兵が捕虜として日本の四国各地の捕虜収容所に送られたが、そのなかのひとりにクレメンスがいたのだった。
クレメンス氏は第一次大戦後、独立を回復した祖国ポーランドの市民として帰還し、更には第二次世界大戦も生き延びて、戦後は人民ポーランドの市民として生き、1971年に79歳で亡くなった。この間、当初はスポーツ選手として、後にはコーチ、国際審判、スポーツ団体役員として、スポーツ一筋の人生をおくったが、後年、回想録も出版し、そのなかに、―日本滞在の回想―という章がある。その一部をご紹介してみよう。
―クレメンスの回想録から―
「……中国滞在中に戦争が始まった。わたしは艦から陸上に移った。その当時、ドイツ将校たちは日本軍のインストラクターもつとめていた。すべてのドイツ軍将校は青島に集結されたが、そこへ日本軍は攻撃をかけてきた。……
戦闘が始まったが、日本軍は2万4千名、こちらは4千余名の将兵数であり、3ヶ月にわたる戦闘後、青島は降伏した。……
われわれは捕虜になり、四国の丸亀というところに送られた。丸亀では道の両側に並んだこどもたちが小旗を振って迎えたが、その光景は捕虜を迎えるより戦勝者を迎えるような態度であった。……
丸亀では道路工事にかりだされ、われわれ捕虜を収容する家屋の建設もしたが、その建設が終わったのちは、スポーツクラブの結成が許され、競技場の建設にもとりかかった。そのスタジアム建設が完了しないうちに、われわれは同じ四国の板東というところへうつされた。板東収容所ではドイツ軍に徴集された各国の人々に出会ったが、そのなかでもチェッコ人はドイツ嫌いで通し、彼等だけで固まって行動していた。ポーランド人の数は多かったが、われわれはそれまで同国人として親しく知る機会が少なかった。
板東でもスポーツクラブを結成し、またポーランド人専用の料理場も設置して、ジャガイモを植えたり、豚を飼育したりした。
われわれが行うスポーツにたいして日本人は大層、好意的な目で見てくれた。1916年7月にはスポーツ競技会を開催し、日本人も多数、それに招待したが、日本の教師たちはレスリングや重量挙げ、器械体操に多大の興味を示したが、それまでこの種のスポーツは日本では知られていなかったようである。
わたしはその競技会でレスリングなどの模範演技を見せたが、日本人も柔術や相撲などを見せてくれた。わたしは漁師の日本人と相撲をとり、ひとり負かしたが、こうした交流の後、スポーツ模範演技のために各地に招待されるようになった。
わたしともうひとりの同僚が徳島のさる学校へ招待され、その学校で器械体操を教えることを請われた。わたしは10ヶ月にわたり器械体操を教えたが、10ヶ月の後、日本人選手たちによる器械体操競技会を開催した。かれらの技能はわれわれの三級ぐらいに相当したが、その中でも二人の日本人は一級の技能に相当した。かれらには基礎訓練が不足していたが、かれらの進歩は早く、現在、日本器械体操の技能が世界でも最高位にあるのも、充分うなずけるし、またそのことにわたしは心より嬉しくおもっている。
1917年4月18日のスポーツ競技会では、日本人による器械体操の模範演技がおこなわれたが、その競技会には3千人以上の観衆が集まり、初めて見る器械体操の演技に盛大な拍手をおくっていた……
1919年、戦争は終了した。ポーランドが国の独立を回復したことを新聞で知ったが、これ以降ドイツ人とは別行動をとり、また収容所内でも喧嘩がよく始まった。だが、われわれスポーツを共にやってきた仲間は喧嘩することなく、仲良くしていた。
1919年3月、日本演劇統一協会はスポーツに従事するわれわれを日本全国巡回模範演技旅行に招待してくれた。わがチームは自前の楽隊を持ち、楽器を持参し、スモーキングも着用した。レスリング、重量挙げ、器械体操(鉄棒や鞍馬は持参した)、ダンスなどもその巡回公演で披露することになった。何人かの若手を女装させたが、わたしがアクロバット演技を女装で披露したが、だれもわたしのことを男が女装してるとはおもってもみなかったようである。われわれポーランド人はマズルカやオベルカのダンスを披露したが、ドイツ人もまけずにお国のダンスを披露した………
巡回公演は3ヶ月にわたり続けられたが、この旅によってたくさんの記念品や賞状などを持ち帰ることができた。
時がたち、わたしは青島へ来た時と同じルートでポーランドへ帰還できたが、今回は日本船「こうふく丸」で神戸から出港した。」
以上がクレメンス氏回想録の抜粋だが、実はこの日本滞在の回想録を入手したのは偶然の結果であった。わたしの知人がクレメンス氏の遠縁の人から日本滞在回想録を渡され、[叔父は日本器械体操の生みの親ということで、東京オリンピックの時に、日本側から招待されたらしい]と語ったと伝え、[おまえさんがチェックしてみろ]と知人から渡された資料だった。
友人を介して日本体育協会などで、招待者リストの中にクレメンスの名前があるかどうかチェックしてもらったが、その名前は見当たらず、がっかりしたが、体育協会の幹部の人は[クレメンス氏は国際審判として活躍した人ですから、もし同氏がオリンピック時に来日したと言うなら、おそらく国際審判連盟の招待で来たに違いありません]との言であった。
クレメンスひとりのみが日本器械体操生みの親の尊称を得ることには問題があるにしても、その中心的存在であったのは確かなようである。
―完―
(まつもと てるお 日本ポーランド協会関西センター会報『WISLA』 第22号 1999.12.20)
